第3話「拡散の始まり」
病院の夜間救急。
シーリングライトの白光が冷たく床を照らし、消毒液の匂いが鼻を刺す。
その中を、女がストレッチャーで運び込まれてきた。
身元不明。
発見場所はショッピングモールのパーキング。
口角を不自然に吊り上げ、声にならない笑いを洩らしながら、虚ろな目で天井を見つめていた。
「呼吸は安定してるが……目が怖いな」
救急スタッフが眉をひそめる。
ストレッチャーの脇を歩きながら、ひとりの医師がカルテに走り書きをしていた。
黒髪に少し白いものが混じり、疲れた眼差しをした男。
心療内科医、アクエル。四十二歳。
「この症状……ホアンのときと、同じだ」
呟いた声は低く、冷たかった。
ホアン・バナムン。母親を亡くし、奇行の末に拘束された料理人。
彼を診断し「一時的な記憶喪失」と判断したのも、アクエル自身だった。
今ホアンは殺人未遂で治安維持監視局に勾留されている。
アクエルはホアンの職場復帰を許した自分を後悔していた。
だが今、二人目が現れた。
しかも笑いながら。
今回は慎重に診断しなければならない。
アクエルは病室のベットに横たわる女を問診する。
女の話は、まともだったり、突如意味不明になったりする。
そして、何故ショッピングモールに行ったのか覚えていない。
「ホアンとの共通点は……記憶の一部欠落、感情の乖離、意味不明な笑顔。そして奇行」
カルテにペン先を走らせながら、アクエルの胸の奥で得体の知れぬ寒気が広がっていく。
だが、既知の精神疾患とも神経障害とも違う、前例がない症状。
「……こんな症状は、見たことがない」
アクエルは、女は入院治療が必要と診断した。
アクエルは治安維持監視局に女の身元の調査を依頼する。
すぐに答えは返ってきた。
「シビル・アステン、三十四歳、独身。会計事務所勤務」
翌日。アクエルは白衣を脱ぎ、ジャケット姿でシビルの会計事務所を訪ねる。
書類の山に囲まれたオフィス。
受付でIDカードを提示し、シビルの上司とのアポを取ってある、と告げた。
応接室に通される。
上司の中年男性が入って来た。
「そうですか……彼女が病院に... 実は一週間前から無断欠勤なんです。音信不通で心配していたのですが...噂では……婚約者と別れて、酷く落ち込んでいたと」
他には、勤務態度は極めて真面目で無遅刻無欠勤、仕事上の大きなミスはない、など優秀な社員であった事を裏付ける話のみで、他に有用な情報は得られなかった。
帰り際、受付の女性社員がアクエルを呼び止めた。
「先生……シビルと親しかったんです、私。数日前、彼女から“もう死にたい”って連絡があったんです。それっきり、音信不通で……でも...生きていて良かった、先生の病院に入院しているのですね」
アクエルは黙って頷いた。
頭の片隅には、あのパーキングで散乱していた睡眠導入剤のカプセルがちらついていた。
(自殺を考えていたのは間違いないな。だが――薬は飲まれていなかった。なのに、あの笑いは何だ? 何故モールで倒れていた?)
冷たい論理が、心に沈んでいく。
(コイツは厄介な事になりそうだ...)
その後、奇行をする人々の報告が増えていった。
公園の遊具。
泣き叫ぶ幼児の横で、母親が虚ろな瞳を空へ向けて笑っていた。
「ママ、ママ!」
子どもがしがみついても、母親は手を動かさない。
ただ乾いた笑みだけが、夕暮れの空気に溶けていく。
消防出動の現場。
老朽家屋が炎に包まれ、老人が前に立ち尽くしていた。
「ハハハ……犬はまだ生きてる」
腕の中には何も抱かれていない。
焼け落ちる屋根の影で、老人はひたすら炎を見つめ、笑っていた。
通勤電車。
スーツ姿のサラリーマンが突如立ち上がり、満員の車内で子供向けアニメソングを絶叫する。
「ラーララ! ラララララァ!」
周囲の客は怯え、距離を取る。
彼の妻は一週間前に事故で亡くなったと、あとでニュースが伝えた。
アクエルの病院にまた新たな何人かの「患者」が搬送されていた。
診療室でカルテを見比べながら、アクエルは独白する。
「……これは病気じゃない。新しい“何か”だ」
書き連ねたメモの端に並ぶ言葉。
「記憶喪失」「感情乖離」「笑い」「奇行」
これらが同時になんて...本来であれば完全な精神崩壊だ。
だが、何かが違う。
蛍光灯の下で、アクエルはふと自分の手が震えているのに気づく。
「……魂が、抜けているような...」
その夜のニュースが、追い打ちをかけた。
> 『セレスティア国内で、記憶喪失と奇行を伴う症例が急増しています――』
映し出された映像。
パーキングで倒れていたシビル。
乾いた笑みを浮かべ、虚ろな瞳でレンズを追っていた。
SNSではハッシュタグが躍っていた。
#笑う亡失者
#魂抜け
#ホローズ
アクエルはモニターを睨みつけた。
「ホローズ……」
それは、「何か」が拡散が始まったことを告げる名前だった。




