第21話「残響」(最終話)
公開ボタンを押したのは、午前2時14分だった。
《ホローズを追って》第7稿――ノナカとカリーナは、映像と証拠と、ほんの少しの祈りをまとめて世界へ流した。
映像は三本に分かれている。一本目は、ノナカがスパークルの栓を抜く瞬間。二本目は、隔離病棟での笑い――そしてAffecticsの「ヨーコ」。三本目は、アクエルのレポートとナレフの調査した契約文書、そして“信頼と共感”が鍵だとする仮説。
最後に、短い文章。
> これは終わりではなく、始まりです。
見たものを、どう受け止めるかは、あなたに委ねます。
送信完了のアイコンがくるりと回転して、消えた。
最初の反応は、じわじわと――次に、一気に爆ぜた。
通りの角のカフェでは、夜勤明けの看護師がスマホを握りしめて泣いていた。
「治るかもしれない」と口に出して、すぐに「でも」と飲み込む。
若者が集まるバーでは、誰かが笑った。
「またヒーロー譚だよ。AIが涙のカウンセリング? 映画の見すぎだろ」
病院の家族控室。年配の男性が画面を食い入るように見て、震える指で再生と一時停止を何度も繰り返した。マスクの内側で、何かを必死に噛み殺している。
SNSは二つに割れた。
《#HollowsTruth》《#TrustHeals》が駆け上がり、《#FakeHollows》《#AITrick》が追いすがる。
「政府は何をしている!」という怒りと「感情で科学を語るな」という嘲笑が、同じ画面の中で交錯した。
独立系ジャーナルは「時代のスクープ」と見出しを打った。
大手は「真偽不明、確認中」とだけ。ニュースキャスターは眉間に皺を寄せ、最後に「冷静な対応を」と結んだ。
ヴァルガード政府は短い声明を出した。
〈当該記録は編集の可能性が高い。虚偽情報の拡散に注意〉
一方、カラン共和国の地方紙は小さくこう書いた。
〈倉庫に残る観光客向け飲料の回収、検討へ〉
製薬企業の株価は午前中に三度、非常停止ボタンが押された。
IGTC(国際輸送統制機構)は「出荷ロットの監査に全面協力」と文章を出し、IPアドレスを伏せた脅迫メールは、同じ速度で二人の受信箱に届き続けた。
――「消えろ」「ありがとう」「君たちが必要だ」「偽物」「祈ってる」「死ね」
夜の街では、小さなデモがいくつも生まれて消えた。
ろうそくを掲げる人、空になったペットボトルを結束バンドで叩く人、ただ黙って立ち尽くす人。
誰かが「信じよう」と書いたプラカードを掲げ、誰かがそれを笑った。
「……世界は、思うようには簡単には動かないわね」
「ああ、でも世界が本当はどう動いているのかさえ、誰も分からない」
カリーナは窓辺に立ち、紫がかった夜明けの空を見ていた。
ノナカはテーブルに両肘をつき、長く息を吐く。目の下の影は深く、けれどあの笑いは消えている。
ノナカは、からっぽのマグカップを指で弾いた。乾いた音が、狭い部屋に跳ねる。
「俺たちの仕事は、ここまでだ。あとは、読む奴の仕事だ」
短くうなずいて、カリーナはPCを閉じた。
二人の間に、言葉にならない疲労と、言葉にしてしまうのが怖い希望が、静かに沈殿する。
しばらくして、カリーナが立ち上がる。
「少し、寝る。顔を洗わないと、泣き腫らしが映り込むから」
「映ってろよ」ノナカは笑った。「その方が、本当だ」
二人は笑って、すぐに笑うのをやめた。
「ねぇ、ノブオ。ヨーコさんを失ってあなたの心に出来た空洞を、私が...埋められるかしら...」
ノナカは優しくカリーナを抱きしめた。
遠くでサイレンが鳴った。別の遠くで、歓声が上がった。それから、何も聞こえなくなった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫のモーターだけが、たまに小さくうなった。
キッチンのテーブルの上。
一本の瓶が、ぽつんと残っている。
《SPARKLE》
透明なガラスに、街の光が点々と反射する。
ラベルの隅には、目立たない小さな黒い刻印――ロットナンバー。
指で触れた跡のような、曖昧な汚れが一つ。
栓は、まだ開いていない。
けれど、ガラスの内側に、ごく小さな泡が一つだけ、ゆっくりと上がって消えた。
温度のせいか、気のせいか。そういうことは、誰にも分からない。
テーブルの端で、古い写真立てが斜めに立っている。
笑っている二人が、小さく、そこにいる。
部屋の空気は、乾いている。
人の気配が途切れると、この部屋には“信頼”も“共感”も、化学的には流れない。
オキシトシンを運ぶ血も、言葉も、今はない。
瓶は、ただそこにある。
触れられるのを待っているわけでも、拒んでいるわけでもなく。
無数の画面の向こうで、人々が信じ、疑い、怒り、祈るのと同じ時間を、無言で過ごしている。
冷蔵庫がもう一度だけうなり、止まった。
部屋が、さらに静かになる。
外のどこかで、群衆が何かを叫んだ。
別のどこかで、誰かが誰かを抱きしめた。
どこかで、誰かが栓を抜いた音がした気がしたが、それがこの部屋のものではないことだけは、確かだった。
カメラがあったなら、いま、その瓶へとじわりと寄っていっただろう。
ロットナンバーにピントが合い、次の瞬間、ふっと焦点がぼける。
画面は暗くなり、音も消える。
――世界は、まだ決まっていない。
――そして、一本は、まだそこにある。




