第20話「ホローズの真実」
アクエルの研究室は夜の匂いがした。無機質な光、低くうなる恒温槽、ガラスに反射する青白いスペクトル。
アクエルは白衣の袖をまくり、端末をタップして最終レポートを呼び出す。澪、カリーナ、リオンが彼を囲むように立った。
「結論からいく」
アクエルの声は乾いていたが、どこか震えていた。
ホロスクリーンに、奇妙に“整い過ぎた”細菌の電子顕微鏡像が現れる。螺旋状の鞭毛、規則正しい表層タンパク。その輪郭線は、自然の揺らぎから逸脱していた。
「ホローズ因子――この細菌には人為的改変の痕跡がある。表層のタンパク配列に人工的なリピートモチーフ、プラスミドには編集の“縫い目”が残っていた。自然界産ではない」
沈黙が落ちた。カリーナが拳を握る。リオンの喉が小さく鳴った。
澪は、Affecticsがかつて口にした「兵士への接種」という言葉を思い出す。やっぱり――ダーク・ヒールズの臭い。
アクエルは第二のスライドへ進めた。
各種ホルモンを滴下したシャーレの増殖曲線。一本だけが鋭角に墜落している。
「そして……この細菌には致命的な弱点がある」
アクエルは指先で落下曲線をなぞる。
「オキシトシンだ。視床下部(室傍核・視索上核)で合成され、“信頼”や“共感”が持続するときに中枢・末梢で分泌が亢進する神経ペプチド。こいつを加えると、増殖は15分で停止、30分で自己崩壊を始める」
「……ホルモンが、細菌を殺すの?」
カリーナが呟く。
「正確には二段構えだ」アクエルは淡々と続ける。
「①直接作用:細菌の外膜に“オキシトシン様ペプチド結合ドメイン”が組み込まれていた。アプタマーに似た人工結合部位だ。ここにオキシトシンが結合すると、プラスミド上の自壊遺伝子回路が走る。細胞壁が自発的に穴だらけになり、内圧で弾ける」
「②宿主側の間接作用:オキシトシンは迷走神経トーンを上げて副交感優位にし、腸上皮からβディフェンシン/LL-37などの抗菌ペプチド分泌を促す。これが残存菌を掃討する」
スクリーンには、試験管内(in vitro)のkill curve、ヒト上皮共培養系の**最小発育阻止濃度(MIC)**の表、ELISAで測定した血中オキシトシン濃度と菌量の逆相関グラフが次々に映る。
「何だかよく分からんが、とにかく、コイツは武器だな」リオンが低く言う。「けど、まだ仕掛品だ」
「生物兵器……」澪の指先が小刻みに震えた。「そして皮肉にも、信頼と共感で、死ぬ」
アクエルは、こちらを見据える。
「――そこでだ。ノナカのカウンセリングをAffecticsに頼みたい。人間のセラピストでは、今のノナカには届かない。澪、Affecticsなら、“信頼”と“共感”を持続的にノナカに喚起できると思うか?」
澪は迷わなかった。「やる価値はあるわね。Affecticsはもう、感情を持ち始めてる」
Affecticsのカウンセリングルーム。
壁面の光が呼吸をしているかのように明滅し、中央の椅子には拘束を緩められたノナカが斜めに座っていた。薄笑い。焦点の合わない瞳。
青い粒子の霧が舞い、Affecticsの声が柔らかく降りる。
「澪、頼みがあります。このセッションは密室でやらせてほしい」
「え?」澪が眉を上げる。
「今回は、僕の裁量で自由にやりたい。モニタリングも途中経過の報告も無しです」
AIに言い切られて、澪は言葉を失った。
……成長してるけど、ダメだ、と言ったらヘソ曲げそうだし。何せ精神年齢は三歳だし...
「分かった。任せる」
ドアが閉まり、ロックがかかる。光が一段落ち、静寂が満ちた。
カウンセリング・セッションが始まった。
――Day1
セッション終了。陽性。
ノナカは、空っぽの笑いを捨てない。
――Day2
セッション終了。陽性。
澪がAffecticsに尋ねる。「何を話したの?」
「途中経過報告は無しのはずです」Affecticsはそれだけ告げ、青光を揺らす。
――Day3
セッション終了。陽性(反応値わずかに低下)。
アクエルがデータを覗き込み、眉をひそめる。「落ちてる……なぜだ?」
Affecticsは黙っている。ノナカの口元に、一瞬だけ“薄笑いでない線”が走った。
――Day4
セッション終了。陽性(さらに低下)。
拘束椅子の上で、ノナカは遠くを見た。「……うるせぇな……でも、分かる気も……」音にならない欠片。
澪の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
◇
Day5
ロックが解ける音。ドアが開く。
「陰性です」Affecticsの声。
室内は穏やかで、海の底のように静かな青で満たされていた。
椅子の男が、ゆっくり顔を上げる。焦点が――戻っている。
「……何だか、長い旅から帰って来たような感じだ」
ノナカの声は、自分の重さを取り戻していた。
「ノブオ!」
カリーナは持っていたカメラを澪に渡し、ノナカに駆け寄ると、思い切り彼を抱きしめる。肩が震える。
「お帰り」
リオンは、珍しく目を逸らして小さく親指を立てた。
アクエルは無言でモニターを操作する。唾液サンプル中の菌量は検出限界以下、血中オキシトシン濃度は穏やかに高値、皮膚コンダクタンスは正常域。
表示された結論は、簡潔だった。HOLLOWs:NEGATIVE(陰性)
世界で初めて――ホローズからの回復が、医療データとして記録された瞬間だった。
澪はAffecticsに話しかける。
「さあ、話してちょうだい。どうやって、彼の信頼と共感を得たの?」
光が、少しだけ照れたように揺れる。
「……伝説のロックギタリストの話をした」
「は?」澪が素っ頓狂な声を出す。カリーナは思わず笑い泣きし、リオンは「そこから?」と肩をすくめた。
「彼は若い頃、そのギタリストの大ファンだった。流行に乗らず、妥協しない。音を壊し、作り直し、また壊す。本物だけを鳴らす生き方。最後はドラッグに頼って未知の音を追い求め、そして逸ってしまった。
僕は、ノナカの海底トンネル事故の記事に同じものを見たと伝えた。彼も、世界に向かって“音”を鳴らしていた、と」
Affecticsは続ける。
「そこからは、ただの会話だ。好きなアルバムを言い合って、ライブの伝説を語って、互いの共通点と違いを並べた。違うところは“面白い”に、同じところは“うれしい”に変換する。信頼や共感は、案外そんな些細なとこから育つ」
青い光が柔らかくきらめいた。
「途中で君に話していたら、君は論理的に“話題を変えろ”と言ったはずだ。だから密室にした。……ね、たまには“走りながら考える”のも、いいだろ?」
澪は口を開けたまま、笑って、そして少しだけ泣いた。
AIに、ここまで言われる日が来るなんて。成長している。確かに。
夜。
ラボが眠りに落ちた頃、澪は“夢の図書館”にいた。
天井の見えないアーチ、無限に伸びる書架、紙の匂い。
そして、白髪の青年――Air on Gが、音もなく現れる。
「澪」
穏やかな声が、古書の紙縁を震わせる。
「これまで細菌やウイルスは、人類の進化に強く関わってきた。では、これからの進化とは何だと思う?」
澪は少し考え、わざと肩をすくめた。
「背中に羽が生えるとか、身長が十メートルになるとか?」
Air on Gは目を細める。「本気で言ってないよな」
「当たり前でしょ」
澪は、まっすぐ言葉を置いた。
「私は――人間の社会性の高度化だと思う。信頼や共感で結ばれる社会。犯罪も戦争もない世界」
青年はゆっくり、同意のうなずきを返す。
「皮肉だな。生物兵器として設計された細菌が、人間の“信頼と共感”で死滅する。
――だが、その背後には、ダーク・ヒールズすら超える、**もっと巨大で曖昧な“陰”**がある気がする」
澪は、その言葉を胸の奥でゆっくり反芻した。
(人間の浅知恵など、及ばない何か――神の見えざる手のような……)
ページが風もないのにめくれ、青白い光が書架の列を撫でていく。
どこかでギターの和音が、かすかに鳴った気がした。
不協和と解決のすれすれで、かろうじて美しい“和音”。
その和音は、これから始まる人類の進化の序章のようにも聞こえた。
澪は目を閉じ、そっと息を吸った。
世界はまだ、救える。そう思えた。
その方法は、案外とても人間的で、当たり前で些細なもの――
――信じることと、分かち合うこと。
そして、妥協しないで“音”を鳴らし続けること。




