第2話「波打ち際の亡失者」
セバウチ共和国の奇妙な出来事のニュースが世界を駆け巡ってから二ヶ月後のセレスティア。
夜明け前の海は、まだ闇の匂いを残していた。
網を引き上げながら、漁師サンチャゴは深く息を吐く。網の中は銀色の魚でぎっしりだ。
「……今日は大漁だな」
彼は濡れた手で端末を取り出し、短くメッセージを打つ。
> 今日はいいのがたくさん獲れた。出勤前に港に取りに来い。
宛先は澪。
彼女に魚を分けるのは、もう習慣になっていた。
地殻変動制御施設のある無人島へ澪を船で運んで以来、彼女とは交流が続いている。
船を入江に滑らせ、港へ戻ろうとしたそのときだった。
「……あれは」
波打ち際に、何かが倒れている。
人影。泥まみれの顔が空を仰ぎ、薄い笑みを浮かべていた。
サンチャゴの心臓が跳ねる。
近づいて抱き起こすと、その顔に見覚えがあった。
「ホアン・バナムン……? 二週間前に消えたって、あの……」
料理人として街で知られていた男だった。
ホアンは母親と二人で暮らしていたが、その母親が二週間前に病で亡くなっていた。
母親想いの孝行息子だと評判のホアンが、棺の傍で夜通し泣いていたのを周囲の人間は皆知っていた。
だが翌朝、ホアンの姿は忽然と消えていた。
それ以来二週間、彼を見た者はいない。
虚ろな目を開けたホアンは、何も言わずに笑った。
その笑いは、喜びのそれではなかった。
サンチャゴは背筋に冷たいものを感じながらも、港の番屋へ彼を運んだ。
朝。
澪は笑顔で港にやって来た。
「サンチャゴ、来たよ。今日はどんな魚?」
だが港はざわめきに包まれていた。
嫌な胸騒ぎを覚えた澪は、足を止める。
番屋の中へ入ると――衝撃の光景。
泥だらけのホアンが椅子に座らされ、にこにこと笑っている。
治安維持監視局の職員が書類を片手に質問を投げかけていた。
「名前は?」
「ホアン・バナムン」
「年齢は?」
「三十六」
「住所は?」
「○○通り、三番地」
淡々と答える。だが。
「……母親は、亡くなっているな?」
職員の言葉に、ホアンは一瞬瞬きをして、そして笑った。
「母さん? 分からない」
「は?」職員の眉がひそむ。「二週間前に葬儀を出したはずだ」
「……分からない」
繰り返す声は他人事のようで、そこに感情はなかった。
澪の背筋に冷たいものが走る。
小声でサンチャゴに囁く。
「……誰? 病気の人?」
サンチャゴは腕を組んだまま低く答える。
「行方不明になっていた料理人だ。……病ならまだいいがな」
「……じゃあ?」
「海は全部知ってる。こいつは“持って帰っちゃならねぇもの”を連れてきたんだ」
澪は息を呑み、ホアンの笑顔を凝視する。
(二週間前に母親を亡くしているのに、何故あんな風に笑えるの……?)
ふと、澪は二ヶ月前に読んだ記事を思い出した。
セバウチ共和国で広がった“奇妙な現象”。
記憶を亡くし、人が変わった様に奇行を繰り返す人々。
その数は数百に膨れ上がり、まるで伝染病のように拡大していた。
(似ている……なんかイヤな予感...)
澪が小さく呟いた。
数日後。
ホアンは「一時的な記憶喪失」と診断され、仕事に復帰していた。
その日、彼の職場――街のレストランに四人家族が来店する。
父と母、そして姉弟。
「お姉ちゃんと同じの頼む!」
弟は嬉しそうにフォークを振り回す。
姉は笑ってうなずいた。
料理が運ばれ、二人は同じ皿を並べて食べ始める。
だが、弟がフォークを滑らせ、大好物を床に落としてしまった。
「うわぁあ!」
まだ小さな弟は大声で泣き出す。
姉は慌てて自分の皿を押し出す。
「いいよ、これ食べて。だから泣かないで」
父母が安心したように笑い、周囲の客も「いい子ね」と微笑ましく見守る。
温かな空気が広がった――はずだった。
そのとき。
デザートを載せたトレイを手に、ホアンがテーブル脇に立っていた。
泣く弟を見下ろし――薄く笑みを浮かべる。
無言で、ただ笑い続ける。
――にたり。
母親が青ざめ、声を震わせた。
「……何を笑っているんですか」
ホアンは動かず、笑みを崩さず、低く呟く。
「だって……クククッ」
家族は顔を引きつらせ、慌てて席を立った。
「気持ち悪い……」
足早に店を出て行く。
ホアンは立ち尽くしたまま、その背を見送りながら笑っていた。
支配人が慌てて駆け寄り、彼を厨房へ引き戻す。
「お前、何をやってるんだ、お客様に失礼だろう!」
だがホアンは包丁を抜き、笑顔のまま支配人に振りかざした。
「……フフフッ」
支配人は悲鳴を上げて逃げ出し、治安維持監視局に通報した。
数分後、局員が駆けつける。
厨房には皿を洗いながら、なおも笑い続けるホアンの姿があった。
すすぐ水音と笑い声が混じり合い、機械仕掛けのように同じ動作を繰り返している。
その異様な光景に、誰もが背筋を凍らせた。
ホアンは取り押さえられ、車に乗せられる。
視線の定まらない笑顔を湛えたまま、彼を乗せた車は走り去っていった。
レストランの周囲にざわめきが広がる。
「奴は狂っちまった」
「母親を失ったのがよほどショックだったのだろう」
「……いや、あれは空っぽだ。魂が抜け落ちてる」
誰も真実を知らない。
だがその言葉は、奇妙な伝染の始まりを指し示していた。
その頃。
港から数キロ離れたショッピングモールの屋内パーキングロットで、一人の女が倒れていた。
女は仰向けで両腕をバンザイする様に力無く伸ばしている。
黒いワンピースの胸元が少しはだけ、黒いハイヒールが足元に転がっている。
ショッピングバッグから溢れた大量の睡眠導入剤のカプセルが床に散らばっていた。
顔は天井を仰いだまま目を見開き、声にならない笑いを漏らしている。
メークは涙と汗で崩れ、ブルーのアイシャドウが頬を伝って流れ落ちていた。
真紅の口紅を塗った唇は不自然に口角が上がり、身体は痙攣のように小刻みに震えていた。
その場を通りかかった若い二人組の一人が、震える声で呟いた。
「……なんか、ヤバくないか、これ...」
もう一人がタブレットのカメラをオンにした。
「おい、止めとけ。マジ...なんかヤバイぞ」
もう一人は、女の周囲を動きながらは無言で女を撮影する。
その時、女の虚ろな瞳がそのタブレットの動きを追った。
「うわっ、ヤベ!」
「行こうぜ!」
二人はエレベーターホールに向かって駆け出した。
二人の駆けて行く足音が、パーキングロットに乾いた残響を刻んだ。
その音が消えかけたとき、女の頬を最後の一粒の涙が伝い、不気味な笑顔の中へと吸い込まれていった。




