第17話「カランへ」
薄暗いアパートの一室。
ノナカはスーツケースのジッパーを閉じ、机の上に視線を移した。
そこには、色あせた写真立てがあった。
映っているのは、自分と肩を並べて笑う一人の女性――ヨーコ。
同じ新聞社で働いていた記者で、かつて海底トンネル崩落事故の記事をめぐり孤立した自分の唯一の理解者だった。
やがて二人は恋人同士となったが、彼女は病に倒れ、この世を去った。
新聞社を追われ、ヨーコを失ったノナカは自暴自棄になり、真っ黒な失意のどん底に突き落とされ、悲しみから逃れるために酒に溺れる日々を送っていた時期がある。
ノナカは写真をそっと指でなぞる。
「……行ってくるよ、ヨーコ」
低く呟き、口元を歪める。
「必ず証拠を掴んでくる。……お前が信じてくれた俺のやり方でな」
短い沈黙のあと、さらに小さく独り言を洩らした。
「お前なら……どう書くんだろうな、この病のことを」
パスポートと航空券をポケットに差し込み、ドアを閉める。
その瞬間、背中に重くのしかかる孤独感を振り払うように、ノナカは歩き出した。
行き先は、カラン共和国。初めて行く国だ。
かつてはセバウチ共和国の植民地であったため、幸い言語はノナカが話せるセバウチ語だ。
汚染されたスパークルが眠っているはずの国――。
カラン共和国はセレスティアの南約17,700kmに位置している。
移動手段は空路で、約24時間かかる。
セレスティア国際空港から三日に一便しかない直行便に搭乗した。
機体が雲を抜けると、眩しい朝の陽光が窓から差し込んだ。
二十四時間後。
飛行機は着陸態勢に入っていた。
眼下にはエメラルド色の海と、赤茶けた屋根の街並みが広がっている。
(ここがカラン……発症率0.01%。異常に低い数字だ。理由を突き止めなきゃならない)
空港に降り立つと、真っ青な空、湿った潮風と香辛料の匂いが混じった空気が全身を包み込む。
石畳の路地を歩けば、どこからともなく太鼓の音と歌声が響き、見知らぬ人間にも笑顔で手を振ってくる子供たちがいた。
――セレスティアとは、まるで別世界だった。
ホテルにチェックインしたノナカはベッドに倒れこみ、機内の狭いエコノミーシートで眠れなかった疲労をようやく解放した。
夕暮れに目が覚め、街の灯がともり始める。
(どれ、街の様子でも見に行くか)
ノナカは路地裏の小さな飲み屋の扉を押した。
中では既に数人の地元客がジョッキを傾け、太鼓に合わせて歌っている。
「おう、新顔だな!」
髭面の店主が声を上げ、ノナカを招いた。
「観光客か? まあ座れ、まずは飲め!」
「いや、その……」
ノナカが言い淀むより早く、ジョッキが手に押し込まれ、乾杯の声が響いた。
「カランへようこそ!」
泡立つ酒を一口飲むと、甘く、そして喉を焼くように強かった。
周囲の客が笑顔で肩を叩く。
「お前さん、なんだか顔が真っ赤だぞ!」
「まあ飲め飲め! ここじゃ泣くより笑うのが掟だ!」
ノナカは曖昧に笑い返し、流暢なセバウチ語で場に溶け込むように言った。
「……本当に、みんな楽しそうだな。街も、人も、笑いで溢れてる。どうしてそんなに陽気でいられるんだ?」
客たちが一斉に笑い声を上げた。
「陽気じゃない人生に、意味なんかあるか!」
「泣くくらいなら歌え! 落ち込むくらいなら踊れ!」
「でも……悲しくなる時はないのか? 身内に不幸があった時とか」
ノナカは少し声を落とした。
すると、店主が胸を張って答える。
「決まってる。死者だって陽気に送るんだよ!」
「葬式の日はな、太鼓と笛で朝まで踊り続ける」
「“あの世でも笑って過ごせよ”って、酒瓶を棺に入れるんだ」
中年の男が笑いながら拳を突き上げる。
「悲しみなんざ長く抱えるもんじゃねえ。生きてる奴が笑えなくなったら、死んだ奴も浮かばれねえだろ!」
「泣くやつはいてもいい。でも泣き続けるやつは、この国にはいない」
若い女がそう言って笑い、ノナカに酒をつぎ足した。
ノナカはジョッキを見つめ、言葉を失った。
(……だから、ホローズの発症者が少ないのか? この国では“悲しみ”が文化として根付かない……)
「俺の国では変な流行り病のせいで国全体が靄がかかったようにどんよりしている。この国の人々がうらやましいよ」
髭の店主が聞く。
「どんな流行り病だ?」
「なんと言うか……悲しみ方を忘れる病気だ」
店の客全員が一斉に笑い出す。
「それじゃ、俺たち皆流行り病だ」
「いや、それだけじゃないんだ。悲しいはずなのに怒り出したり凶暴になったりする」
「そう言えば……」
髭の店主が髭を擦る。
「おかしな外国人の男がいたな。カランの女にゾッコンになってその女と結婚して暫くここで暮らしていたんだが、その女が突然病気で逝っちまってな」
ノナカが身を乗り出す。
「それで、その女房の葬式の前日、海岸で倒れているところを発見された。だがな、ずっと薄気味悪くヘラヘラ笑っていやがったそうだ」
店主はジョッキの泡の酒を飲み干し、テーブルにドンッと置く。
「野郎、女房の葬式にも出ねぇで、どっか行っちまった。まじめな男だと思っていたが……分かんねぇもんだな」
(ホローズだ!)
ノナカの視線が、ふと棚の隅に止まった。
埃をかぶったケースがいくつも積まれている。
ラベルには――《SPARKLE》。
「おい、あれは?」
ノナカが指さすと、店主は大きな声で笑った。
「ああ、あれか! 地元の人間は誰も飲まねぇよ、味が薄いんだ。観光客用だ。倉庫にもまだ眠ってるさ、飲むか?」
「あ、いや……結構だ」
(……やはり残っている。汚染されたロット……!)
ノナカは曖昧に笑い、再びジョッキを掲げた。
「なるほど、陽気な国には似合わない飲み物ってわけか」
場が笑いに包まれる中、ノナカの心だけは重かった。
――この陽気さの裏に潜む、世界を揺るがす証拠を掴むために。
夜明け前、彼はこっそりと酒場の倉庫に忍び込んだ。
埃をかぶったケースから数本のスパークルを取り出し、瓶に印字されたロットナンバーを確認した。
「あった、これだ!」
三本をリュックに詰め込み、僅かに朝陽が射してきたカランの飲み屋街を急ぎ足で後にした。




