第11話「流出」
三か月前――ヴァルガード。
灰色の雲が垂れ込める工業地帯に、モラウルイ製薬の研究施設はひっそりとそびえていた。
「抗うつ薬プロジェクト V-02」
冷たい光を放つシーリングライトの下、モニターに映し出された文字列が研究員の瞳に青白く反射する。
彼らはある抗うつ薬の開発を行っていた。
依頼主はセバウチ共和国のマーチン製薬。新興の小さな薬品販売会社だ。
マーチンは二年前、奇妙な細菌を発見した――強力に悲しみの感情を抑制する細菌。
そして、ヴァルガードのモラウルイ製薬に、その細菌を使用した抗うつ薬を作るように依頼してきた。
マーチン側は破格の契約金額を提示してモラウルイと契約を結んだ。
「悲しみの抑制……いや、これは遮断だな」
研究員の一人が、モニターに映る実験用動物の生体反応を見ながらつぶやく。
確かにその細菌は、被験対象の悲しみを軽減する。だが同時に、悲しみの記憶そのものへのアクセスを遮断し、さらに悲しみを別の感情で上書きしてしまう副作用を引き起こした。
怒り、笑い、時に異常な多幸感――。
「部分的な記憶喪失まで起きている……」
「これでは治療どころか、精神を壊しかねん」
研究員たちは危険性を訴えた。
しかし、マーチン製薬からの返答は冷淡だった。
> 「何としても副作用を抑制しろ。追加の資金はいくらでも出す。治験は我々でも進める。薬のサンプルを送れ」
モラウルイの研究員はサンプルの提供を渋ったが、上層部は一言「クライアントの依頼だ。彼らの言う通りにしろ」
モラウルイの上層部は、マーチンの背後に名前の出せない巨大な「影」があることを知っていた。契約の仲介に現れたのは幽霊のようなペーパーカンパニー――戦争や紛争で暗躍する組織がそこにちらついていた。
モラウルイの研究員は、細菌の副作用の抑制に心血を注いでいたが、友好な解決策を見いだせていなかった。
日々、動物を使った実験の繰り返し。
ある日、一人の研究員が実験に使用した実験動物が入ったコンテナを誤って廃棄シューターに放り込んだ。
本来なら高温焼却処理に回すべき細菌付きの廃棄物。
コンテナはダクトを下り、廃棄物処理業者用の搬出庫に運ばれた。
数日後。
廃棄物処理業者がそれを引き取り、ずさんに搬出した。コンテナの扉は半開きのまま、雨に濡れた。
激しい豪雨。
細菌を含んだ液体が地面を伝い、近くの川へと流れ落ちた。
川水は浄水処理場に取り込まれたが、この細菌は異常な耐性を持っていた。滅菌処理すら通過し、逆に増殖してしまった。
やがて――。
その水を飲料に使っている地域で、奇行をする人々が現れ始めた。
突然泣き出したかと思えば、次の瞬間に笑い出す。
葬式で嗤い、結婚式で怒鳴り散らす。
人々は恐怖に震えた。
「スパークル社」。
ヴァルガード国内で人気の清涼飲料水メーカーだ。
製造用の水源は細菌が流れ込んだ浄水場から送られてくる水だ。
その工場の製造ラインには、汚染された水が当たり前のように流れ込んでいた。
ベルトコンベアに乗せられた無数のペットボトル。
無色透明の液体が詰められ、キャップが締められていく。
ラベルには鮮やかな青いロゴ――SPARKLE。
出荷。トラック。港湾。
巨大な貨物船のコンテナに積み込まれるスパークルの山。
輸出先リストには、セレスティア王国の名もあった。
二週間前。
セレスティアの若者、ホアンはスパークルを日常的に飲んでいた。
母の死が彼を打ちのめしたその日、悲しみの波が脳を直撃する。
だが次の瞬間、その感情はねじ曲がり、異様な笑いに変換された。
「ハハ……ハハハハッ……」
葬儀場で、嗚咽の代わりに笑い声を響かせるホアン。
周囲の視線が突き刺さる。
それが――セレスティア初のホローズ発症だった。
ヴァルガード政府は自国でのホローズ発症を一切公表していない。
「原因不明の一過性精神疾患」として記録を葬り、発症者数の公表を避けた。
その間にもスパークルは海を渡る。
港を出航する貨物船。
波間に揺れるコンテナの中で、無数の青いラベルが闇に光った。
――ホローズの影は、すでに国境を越えて広がりつつあった。




