2. 一週間前のこと4
***
すっかり陽が落ち、辺りは暗くなっていた。
手紙の住所は、町名こそ変わっていないが、現在の住所とは異なる部分もあり、おおよそこの辺りだと思われる場所に向かってみると、そこにはぽっかりと空いた空き地があった。ここは、サキが言っていた空き地だろうか、だとしたら、長い間この場所は、空き地のままということになる。
「でも、多分この辺りだよな…」
なずなは、頭を捻りながらも、その足で周辺の家も見て回ったが、この近辺に浅田という人物の家は見当たらなかった。
「…まぁ、そりゃそうだよね…」
探偵まで使って探したのだ、素人のなずながちょっと辺りを見て回るだけで見つかるのなら、苦労はない。
曾祖母のヤヱが若い時に暮らしていた場所、もしかしたら区画整理等があったのかもしれないし、そうでなくても、十年前はただの畑だった場所が、大きなマンションに変わっていたりする。時が変われば人は流れる。この住所に間違いがなくても、何十年も前のものが、そこに変わらずあるとは限らない。
改めて空き地の周辺を見渡してみるが、辺りは新しそうな一軒家やアパートばかりだ。
「…あ」
いや、一軒だけ古びた建物が見える。あの、メゾン・ド・モナコだ。
少し離れた場所にあるが、この辺りで古くからありそうな建物は、あの洋館くらいだ。なずなは洋館の側にやって来ると、高い生け垣の向こうに見える建物に目を向けた。
同じ町内とはいえ、あまり通った事のない場所だ。それでも、この洋館の存在は知ってはいた。知ってはいたが、こんな風にじっくりと建物を見るのは初めてだ。
なずなは洋館への入り口を目指し、生け垣沿いに歩いていく。
生け垣の隙間から中を覗くと、広そうな庭が見えた。今でこそ、この洋館がアパートだと分かっているが、この時のなずなは、この洋館がアパートだとは思っていなかった。
なので、随分寂れた洋館だな、これは誰の持ち物なのだろう、人は住んでいるのだろうか、だとしたらそれはどんな人なのだろう…と、そんな疑問が次々と浮かんでいく。初めてこの洋館を見た時も、なずなは好奇心を擽られたが、その気持ちは、すぐに別の感情によって上書きされてしまう。
それは、この洋館が持つ独特な雰囲気にあった。
なずなは、不意に身震いを起こし、進めていた足を止めた。
「………」
この洋館は、とても静かだ。それは、夜のせいかもしれないが、何となくここだけ空気が違う気がする。
恐らく気のせいに違いないが、なんとなく寒気がするし、肌を撫でる風も、どういう訳かしっとりと重たい気がする。きっと気のせいに違いないのだが、この洋館を前にすると、どうしても不気味な想像が頭を過ってしまう。
だって、ここはまるで幽霊屋敷みたいだ。もしかしたら、夜な夜な亡霊がダンスパーティーをしていたり、吸血鬼が眠る棺があるのかもしれない。もしそうなら、自分は目をつけられていやしまいか。こんな屋敷の周りをうろついていたら、今夜にでも亡霊に手を引かれ、ダンスの輪に加わっているかもしれない。
そんな想像に、なずなは思わず怯んだが、それでも手にした手紙に視線を落とすと、そんなのは思い過ごしだと心を強く持ち直し、顔を上げた。
正直怖いけれど、今回は怯えて帰る訳にはいかない。
こんな古びた洋館だ、もしかしたら、手紙の手がかりが見つかるかもしれない。
なずなは、頭の中に浮かんだ想像を必死に振り払うと、何も感じていない振りをして、敷地の入り口に向かうべく足を進めていく。
そうして、洋館を取り囲む生け垣に沿って歩いていると、敷地の入り口となるアーチが見えてきた。
だがその時、不意に前方から光を感じ、なずなは洋館を見上げていた視線を正面に向けた。
この道は、両側にアパートや一軒家が並ぶ一本道だ。その道の中央で、ゆらゆら揺れて動く灯りがあった。車や自転車のライトとは違う、道の端には街灯が明かりを灯しているが、目の前に見えるオレンジの灯りは、それとは明らかに違った。
まるで、火の玉だ。
そこで、なずなは、今世間を賑わせているニュースを思い出した。まさしく、火の玉が突然目の前に現れる、というものだ。初めは作り話だと言われていたが、それが多くの人が自分も見たと名乗り始めると、ネットやテレビでは毎日のように火の玉の目撃情報が取り上げられる事となった。それも短期間に、この町を中心として。
あまりに多いので、一周回って本当にそれは怪奇現象なのかと再び疑いが向けられていたが、それがいざ目の前に現れれば、疑いようもなく火の玉で、なずなは腰を抜かしそうになる。
ここは道の真ん中、火の玉を吊るす糸も、これが映像や光の演出と思われる仕掛けも見当たらない。
「…え、」
そしてそれは、なずな目掛けて飛んできた。
「キャア!」
一つだった火の玉は、いつの間にか五つに増え、それがどういう訳かこちら目掛けて勢いよく飛んでくる。なずなは思わず悲鳴を上げて逃げようとしたが、焦った為に足が縺れ、その場で尻餅をついてしまった。転んで痛いと思う暇はない、はっとして顔を上げれば、目の前には火の玉が迫っている。なずなは恐怖に、ぎゅっと目を閉じた。
「やめろ!」
閉じた瞼の向こう、突然聞こえた声に驚いて顔を上げると、なずなの前に見知らぬ男の背中があった。
彼は、その足を一歩前に踏み出そうとしたようだが、その足が前に進む事なかった。
一体、今、何が起きているのか、なずなが訳が分からないまま固まっていると、ふと目の前の背中が小さく息を吐いた。
「…逃げたか」
その言葉に、なずなは再びはっとして、彼の背中の向こうに目を向けた。逃げたとは、あの火の玉の事だろうか、そもそも、あれは本当に火の玉だったのか。だが、確かめようにも、なずなを怯えさせた火の玉の姿は、もうそこにはない。なずなが怯んだその僅かな間に、火の玉は消えてしまったようだった。