『傘は天下の回りもの』
「うっわ、最悪……!」
雨が降っているというのに、買い物中に傘を盗まれた。
店の外に出された傘立てには、明らかに私のじゃないビニール傘が一本刺さっていた。
「やられた~」
まだ買ったばかりだったのに。思わずその場にしゃがみ込みたくなる。
しかも、残された傘はよっぽど古いのか、錆が浮いている。気持ち悪い。
「どうしよう」
この店に傘は売ってない。雨はどんどん強くなる。できれば濡れたくない。一人暮らしの身としては、たった数百円でも節約したい。
私は抵抗を感じつつ、その傘を手に取った。
開いた瞬間、パラパラと赤茶色の粉が落ちる。ここまでボロくするって、どうやったらできるんだろう。
「もう!」
私は腹立たしさを感じながら、急いで帰宅した。
その晩、嫌な夢を見た。
知らない男の人が倒れている。胸のあたりが真っ赤に染まっている。
どうして。そう思った瞬間、私の体は勝手に彼を刺した。刃物なんかじゃなく、傘の先で。
やめて、こんなことしたくない!
心の底から抵抗しても、体が言うことを聞いてくれない。
男性はもうとっくに動かなくなっている。薄く開いた目は、ただどこかを見つめるばかり。それでも、何度も何度もしつこく刺す。
「……!」
目覚めたときには、嫌な汗で全身がぐっしょりと濡れていた。なんだか人を刺した感触が手に残っている気がする。
吐き気が止まらない。一度トイレに行きたくて廊下に出ると、玄関に置いてあった例の傘が目に入った。
ふらふらと引き寄せられる。触りたくないのに、手を伸ばさずにはいられなかった。
「……まさか」
よく見ると、傘の先端がところどころ赤くなっていた。
気味が悪くなった私は、次の日、元のお店にその傘を戻しに行った。
別に、元の持ち主が回収しに来なくてもいい。とにかくこの傘を家に置いておきたくなかった。
駆け足で帰宅した私は玄関のドアを開けて――へたり込む。
「嘘……」
確かに置いてきたはずの傘が、立てかけられていた。
この家には私しかいない。あれは確かにお店に置いてきたし、出るときに他の傘を立てかけた覚えもない。
でも、先端にこびりついた赤が、今ここにあるのがあの傘である何よりの証拠だった。
それから、ゴミに出しても、別のところに置いてきても、傘はいつも私の元に戻ってくる。そして毎晩、あの夢を見るのだ。
人の体を刺して、刺して、刺して……夢の中なのに、刺すときに一瞬感じる抵抗も血の匂いもどんどんリアルになっていく。
やめて、やめて、やめて。もう刺したくない。
気づけば、夜が来るのも眠るのも怖くなっていた。
ようやく解放されたのは、次の雨の日。
駅前では、日中に激しく振り出した雨に立ち往生している人が何人もいた。
そんな彼らの目につくよう、私はそっと傘を壁に立てかけた。
ああ、どうか誰も引き留めないで。傘忘れてますよ、と声をかけられるのが怖くて、急いでその場を後にした。
それ以来、あの夢は見ていない。多分成功したのだ、あの傘を押しつけることに。
もしかしたら、あの傘を拾った別の誰かが、私の代わりに悪夢を見ているかもしれないけど。