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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第89話 荀彧、指南する

文若(ぶんじゃく)よ、兗州(えんしゅう)の平定は成った。次は何をすべきであろうか?」


 明けて196年1月、荀彧(じゅんいく)曹操(そうそう)より諮問(しもん)を受けていた。

 呂布(りょふ)張邈(ちょうばく)の一党をあらかた排除し、ここ2年間激闘を繰り返してきた兗州の平定に成功したこのタイミングで曹操は次に取るべき戦略を荀彧に問うたのである。


 具体的にはどこを攻めるかということだ。


 現在曹操が押さえているのは袁紹(えんしょう)が実効支配している東郡(とうぐん)の一部を除く兗州全域である。

 北の冀州(きしゅう)を治める袁紹とは同盟関係にあるが、東の徐州(じょしゅう)豫州(よしゅう)の一部を陶謙(とうけん)から継いだ劉備(りゅうび)や南の揚州(ようしゅう)の長江以西と豫州の大部分を支配する袁術(えんじゅつ)とは敵対関係にある。

 また、西の司隸(しれい)に割拠する李傕(りかく)らの勢力とは今のところ戦闘は起きていないが、董卓(とうたく)時代からの因縁により敵性勢力であることは疑いない。


「まずは南の豫州を攻め、袁術を討つべきでありましょう。」


 荀彧の答えはよどみない。

 袁術がその大部分を支配する豫州の攻略を最優先すべきと言う。


「それはなぜか。」


「我らが兗州で戦っている間、袁術は豫州と揚州で力をつけ、以前の勢威を取り戻しつつあります。現在も江東(長江以東)を攻め、なお力を伸ばそうとしております。今これを討たなければ、いずれ手をつけられなくなるやもしれません。」


 匡亭(きょうてい)の戦いで敗れ、袁術がほうほうの体で揚州へ逃亡したのはもう4年前のことである。

 縁もゆかりもない土地に逃げ込んだ袁術ではあるが、名門袁氏の威光は強く、復活を遂げたばかりかさらに長江以東にまで伸びて行こうとしている。

 このまま広い揚州の大部分を支配下に入れられてしまえば、容易に手出しができなくなってしまう。

 討つならば今であった。


「攻めるのであれば、徐州を先にした方が良いのではないか?どうやら呂布は徐州牧を継いだ劉備とかいう男のもとへ逃げ込んだらしい。呂布の引き渡しを求め、拒めばそれを口実にすることもできよう。」


「愚策ですな。」


「ずいぶんはっきりと申すのだな。」


 荀彧のにべもない返事に、曹操は苦笑する。

 両者の信頼関係を如実に示すものだが、時に荀彧の物言いは辛辣(しんらつ)である。

 徐州に対する曹操の色気をピシリとシャットアウトするかのようだ。


「ええ。以前も申し上げたとおり、徐州の人士は我々のことをあまり良く思っておりません。いま徐州を攻めれば、厳しい抵抗を受けることは必至です。」


 荀彧はオブラートに包んだ言い方をしているが、曹操に対する徐州の民の印象は最悪である。

 曹操軍が来たと聞けば、その辺りの民ですら親や兄弟の仇とばかりに激しく抵抗してくる可能性がおおいにある。

 さすがに曹操も自分の愚行には気づいており、荀彧にそう言われてしまうと何も言い返せない。


「それに呂布を迎えたということは、新たな火種を抱えたようなもの。ここはあえてしばらく静観しておくのがよろしいでしょう。放っておけば、いずれ何かしらの乱れが生じましょう。」


「そうだな。あの呂奉先がおとなしくしているはずがない。」


 呂布の野心の強さとその直情径行は兗州を乗っ取られかけた曹操が一番よく知っている。

 荀彧の意見を聞き入れ、曹操は徐州を後回しにすることに決めたようであった。


「それはそうと、以前そなたが申していた陛下をお迎えするのはどうなのだ?長安(ちょうあん)は兵火が絶えないと聞く。今こそお迎えするときではないのか!?」


「今はまだその時ではないかと。漏れ聞くところでは陛下は洛陽へ戻りたいと表明されておられるそうですが、李傕や郭汜(かくし)玉体(ぎょくたい)(皇帝の身柄)をめぐって争い長安を離れられぬとか。今の我々に長安まで攻め上る力はなく、陛下をお迎えするとの意思を示すことしかできますまい。」


 つまり、荀彧は冷静に曹操軍の戦力を見て現時点で長安へ攻め上ることは不可能であり、受け入れを表明することで献帝自身が東へ逃げてくることを期待しようと言うのである。

 漢王朝への忠義という面では疑問符がつくが、荀彧の思考はどこまでも現実的である。


「陛下をお迎えするにしても、荒れ果てた洛陽ではすぐに朝廷を再建することは難しゅうございましょう。だからこそ、豫州を攻め取るべきなのです。」


「なるほど、そなたは仮初めの王城の地として豫州をとれと申すのか。」


 豫州は古くから中原の一部として中華の中心地域であった。

 交通の便もよく、肥沃な地でもある。

 ここをとれば曹操の勢力は大きく強化されるし、一時的に朝廷を置く地としても申し分ない。

 荀彧は将来の布石として豫州をねらうべきとの考えなのだ。


「ただ・・・そう簡単にとれようか?袁術が力を取り戻しつつあるのは、そなたも申した通りだ。何より豫州は袁術の本貫(本拠地)でもある。豫州だけで数万の兵を動員できようし、袁術が援軍を出せば我が軍に倍するかもしれぬ。」


「ご懸念には及びません。豫州は我々の本貫の地でもあります。聞けば悪政のため豫州の人士は袁術から心を離しはじめているとか。我らが善政を約束すれば、なびかせることはできましょう。不満を持つ者を味方につけ、戦わずして敵の兵を減らすのです。」


 そう、豫州は袁術が属する汝南(じょなん)袁氏の本拠地・汝南郡汝陽県(じょようけん)を含むとともに、曹操の本拠地である沛国(はいこく)譙県(しょうけん)、荀彧の本拠地である潁川郡(えいせんぐん)潁陰県(えいいんけん)も含まれる。

 そういう意味では袁術の強力な地盤ではあるのだが、曹操が付け入るスキは十分にある。

 また、汝南袁氏にしても袁紹という強力な対抗馬がいるわけで、袁紹に心を寄せる者がその同盟者である曹操になびく可能性もあるのだった。


「何より我らが豫州攻めを行うとき、袁術は援軍として大軍を差し向けることはできますまい。」


「なぜそう言い切れる!?」


「我らが兗州で戦っている間、袁術は目立った動きを起こしませんでした。もし袁術が呂布に肩入れして我が軍と事を構えていれば、我らは滅亡していたかもしれません。袁術は領揚州刺史や徐州伯を称しており、江東や徐州に野心を抱き、兗州や豫州にはあまり目を向けておらぬのです。将軍が徐州与しやすしと見ているということは、袁術も同様に見ているはず。おそらく袁術は近いうちに徐州を攻めましょう。」


 先ほど荀彧が徐州攻めに反対した理由のもうひとつは、この袁術の野心もある。

 これには裏付けがあり、袁術は曹操軍の侵攻に合わせて徐州へ侵攻を企てた前科があるのだ。

 徐州を奪い取るチャンスと見て、袁術が徐州へ大軍を送り込む可能性は高い。

 そうなると劉備政権が外敵を前にして思わぬ結束を固める恐れもあるし、曹操憎しのあまりに袁術に味方する徐州人士があらわれて泥沼化する可能性だってある。


 ただ、袁術の徐州攻めは決して悪いことばかりではない。


 曹操が徐州攻めに兗州を乗っ取られるほど戦力を動員して行ったように、袁術だって大軍を連れて行かねばならない。

 そうなれば豫州方面への援軍はおろそかになるわけで、曹操としては豫州攻略のリスクを大きく減らすことができる。


「そうか、袁術が徐州へ兵を出すとなれば、当然豫州をかえりみる余裕はなくなるな。」


「さようでございます。我らとしては袁術の動きを注視し、彼らが徐州へ向かったと聞けば豫州を攻める。次にとる手立てはそれが最善でございましょう。」


 荀彧の読みは当たった。

 196年4月、袁術は大軍をおこして徐州を攻めた。

 これに対して劉備は果敢に行動し、淮陰(淮水の南)でこれを迎え撃った。

 袁術軍の動きを知った曹操は素早く豫州へ出兵した。

 曹操軍の侵攻に袁術は怒り狂ったが、敵軍を前にしてどうすることもできない。

 事前の荀彧らによる根回しも功を奏し、豫州の大部分は鮮やかに曹操の支配下に組み込まれた。

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