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三国志天の記  作者: 沖家室
序章 天をくつがえす者【張角伝】
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第9話 張角、敗走する

 ようやく討伐の官軍が動きだした頃、黄巾軍の勢威はおおいに上がっていた。

 この時点で決起から1ヶ月以上が経ち、黄巾軍にはとどまることなく人が流れ込み、当初の数倍の人数に膨れ上がっていた。

 その巨大な人の群れを地方軍ではどうすることもできず、広い地域が黄巾軍の支配下に落ち、なおも拡大中であった。


 これは後漢王朝の地方長官たちがだらしないためか。

 それとも、黄巾軍が強すぎるためか。


 正確に言えば、どちらも違う。


 まず、後漢王朝の地方長官には、数万から十数万に膨れ上がった各州の黄巾軍に対抗するだけの十分な軍事力が持たされていなかった。

 彼らひとりひとりに持たされていた兵力は最大でも数千からせいぜい1万程度に過ぎず、最初から数の上でハンデが課されていたのだ。


 具体的にみていこう。

 後漢王朝の地方長官が州を管轄する「刺史(しし)」、郡を治める「太守(たいしゅ)」、県を支配する「県令(けんれい)」や「県長(けんちょう)」であることは以前にご紹介した。

 ただ、このなかで軍隊を指揮する権限を持っているのは「太守」「県令」「県長」であり、最も大きい州を職域とする「刺史」には指揮権はなかった。

 これは「刺史」が元々太守などがきちんと職務を果たしているか監督する、「監察官」としてスタートしたことに由来する。

 そもそもが臨時に地方長官の職務状況を監督する役割だったのだから、常設の州長官職に置き換えられていっても、行政や軍事に及ぼす実際の権限は制限されていた。


 後漢王朝は反乱を起こされるリスクを恐れ、中央にも地方にも数万人やそれ以上の規模の軍事力を擁する存在を極力つくらないようにしていて、結果として州という広大な行政単位で軍事力を統括する存在はいなかったのだった。


 が、「黄巾の乱」のような大規模反乱においてはそれが裏目に出る。

 県が有する兵力はせいぜい数百、郡におけるそれはせいぜい数千程度であり、数万規模の反乱軍に対しては到底抑止力になり得ない。

 太平道を危険視しながらも、なかなか取り締まりが本格化しなかったのも、この辺に理由があったのだ。


 地方官軍の実状がわかれば、黄巾軍の「勢威」の実際についてもわかろうというものである。

 たしかに数は多い。

 しかし、その内実は素人の集まりでしかない。


 イメージとしては江戸時代の百姓一揆(ひゃくしょういっき)が近い。

 ()()()()筵旗(むしろばた)を持って群れているアレだ。

 数で圧倒しているから勝っているだけで、軍隊としての力を見せつけているわけではないのだ。


 後漢王朝が派遣した本格的な討伐軍は、黄巾軍にとって初めての試金石となりそうであった。


 ……………………………………………………………


「兄上、すぐに出陣して敵を迎え撃ちましょう。」


「いや、梁よ、ここは籠城(ろうじょう)すべきだ。盧植(ろしょく)軍の強さはこれまでの敵軍とは比べ物にならないらしい。籠城して敵の疲れを待ち、逆襲すべきだ。」


「でも、宝兄上。こっちは敵の何倍もいるんですよ?盧植軍に2度負けたって言っても、それはこっちの人数が敵とあまり変わらなかったからでしょ!?全軍で当たったら、きっと勝てます!!」


 黄巾軍の本拠である広宗(こうそう)では、張角が臨席しての軍議が開かれていた。

 文字通りの最高会議となったこの場には、張角だけでなく広宗に集結する黄巾軍の主だった将(渠帥)たちが顔をそろえていた。


 ただ、激論を交わしていたのはほぼ張宝・張梁だけだった。

 馬元義亡きいま、彼ら張角の実弟2人はそれぞれ黄巾軍のナンバーツーとナンバースリーの地位に揺るぎなく座っており、彼らが議論を始めればこれに口を挟める者などいない。

 いるとすればトップである張角だけだが、彼は最初から黙して何も語らなかった。


 北上を続ける盧植軍に対し、黄巾軍はすでに2度敗戦を喫していた。

 張角率いる本軍ではなかったが、これまで地方官軍に対して常勝とも言える戦績を積み重ねて来ただけに、敗戦は少なくないショックを黄巾軍首脳陣にもたらしていた。

 そしていま、盧植軍はまっすぐこの広宗へと向かって来ているのだった。


 城を出て盧植軍と戦うのか、それとも籠城するのか。

 黄巾軍幹部の意見は容易にまとまらなかった。

 自分たちの方がはるかに数が多いという安心材料がある一方、敗走してきた将兵の報告で盧植軍の強さがこれまでの敵とは比べ物にならないと知れたためであった。


「兄上、ご決断を!」


「兄上!!」


 やがて2人の弟が張角の意見を求めた。

 弟たちの意見までもが割れている以上、主将である張角が決断を下さなければならなかった。


「・・・」


 張角は無言のまま立ち上がった。

 挙兵前に比べて幾分その顔つきは痩せ、体の線も細くなったようだ。

 だが、張角の立ち姿には、何か言いようのない威厳が増したように居並ぶ諸将には感じられた。

 彼らは神託を待つような感覚に襲われながら、張角の言葉を待った。


「・・・出陣、と決めよう。」


 張角の声が低く、そして重々しく響く。

 みなが固唾を飲んで聞き入る。


「もちろん余が軍を率いて戦う。盧植を破れば、敵にそれ以上に強い軍はない。恐れるな、我らの戦いは黄天がご覧になっておられる。必ず勝つ!」


 張角の力強い発言を受け、周囲の心は決まった。

 彼らにとって、やはり張角は揺るぎないカリスマであり、 その言葉は絶対的なものであった。


 実は張角の気持ちは最初から出撃に決まっていた。

 自分の言葉が最も効果的に響くタイミングを見計らい、ここぞとばかりに繰り出したのだ。

 こういった感覚は誰もが持っているものではなく、彼には自身のカリスマ性の演出について天賦(てんぷ)の才があった。

 わずか十数年で馬元義ら数十万人の信徒を獲得してきただけのことはあるのだ。


 ただ、周囲を巻き込む能力を持っているからと言って、その人物が状況判断に優れているという保証はない。

 張角の言葉に力づけられ、大挙出撃した黄巾軍は狂戦士のような猛々しさを持ってはいたが、そのかわりに冷静さはどこかへ置き忘れていた。

 可憐な花をつけた野の草花を蹴散らして進む黄色い大群は、前方に官軍を認めると、そのまま大波のように寄せていったのだった。


 ただ闇雲に声を張り上げ、武器を振り上げる者。

 黄天をたたえる言葉を唱えながら、突っ込んでいく者。

 当初はあった陣形らしきものもすぐさま崩れ、遠目にもデコボコと進むその群れは部隊というよりは巨大な集団でしかなかった。

 十数万を数える黄巾軍ではあったが、やはり軍隊として十分な力を発揮しているとは言い難かった。


 それでも、どうにか数の利を活かして敵軍を包み込むように迫った黄巾軍の頭上に、無数の細長く黒々とした物体が降り注いだ。

 鋭く飛来するそれは黄色い頭巾をつけた男たちを瞬時に棒立ちにし、次の瞬間には地に倒れ伏した物言わぬ肉塊に変えた。


 盧植率いる官軍が放ったのは、「()」というボウガンの矢である。

 しかもボウガンと言っても手で弦を引くタイプではなく、先端についた輪に足を入れて固定し、全身で引き絞る形状の「強弩(きょうど)」と呼ばれるものであった。

 射程距離も破壊力も通常のボウガンとは比べ物にならない威力を誇り、弓矢と違って一定の力があれば誰でも同じ威力を発揮できる武器で、官軍はこれを大量に装備していた。

 強弩は専用の工廠(こうしょう)(工場)で生産されるものであり、中央軍を中心に構成された討伐軍はこれを十分な数そろえることができたからだった。


 一方、黄巾軍にはこのような武器はほとんどなく、あっても独立した部隊として運用されていなかった。

 応射する黄巾軍の矢は驚くほど少なく、矢戦に負けているのは誰の目にも明らかだった。

 とは言え、信仰に燃える黄巾軍兵士である。

 矢の雨をかいくぐった者は少なくなく、多数の味方の負傷にもひるまず官軍へと打ちかかっていく。


 だが、官軍はまるで黒い壁のように立ちふさがった。

 官兵は戟の矛先をそろえ、黄巾兵を押し返す。

 その統率のとれた応戦に黄巾兵はなすすべなく押し戻され、みるみる死体の山を築いた。

 黄巾軍は数の利を活かせず、いたずらに戦線は膠着していった。


「ひるむなっ!次々と新手を繰り出せ!!もう少しで敵陣を突破できようぞ!!」


 味方の苦戦を見て、張角は苛立ちを覚えていた。

 何とか停滞した戦局を打開しようと、味方を鼓舞し、増援の投入を指示する。

 と言っても、すでに全軍の統制はあってないようなものであり、前線で消耗した兵たちの交替はうまくいかず、彼らは後ろから押し上げてくる味方の圧力で身動きもままならず、その命を散らしていく。


 もし張角に指揮官としての経験や素養があれば、自軍の精鋭部隊を敵の側面か背面に投入する策を考えついたかもしれない。

 けれども、不幸にも彼に実戦経験は皆無であった。

 結局、黄巾軍は闇雲に平押ししていくという硬直した戦術に終始していた。


 その時、戦場では新たな局面を迎えようとしていた。

 局面打開を図ったのは、官軍の方だった。

 官軍を率いる盧植は黄巾軍が攻勢限界に達したと判断し、温存していた護烏丸(ごうがん)中郎将(ちゅうろうしょう)宗員(そういん)指揮下の烏丸騎兵の投入を決めたのだ。


(てき)だ・・・!」


 一見して北方の異民族(狄)とわかる烏丸騎兵の姿を認めると、黄巾軍の中から悲鳴のような声があがった。

 烏丸騎兵は驚くほど遠くから騎射を行って黄巾兵をひるませたあと、抜刀して突撃してきた。

 すさまじい速度で突進してくる騎兵により、黄巾軍は無残に蹴散らされていく。

 ついには馬蹄の音が近づくと、算を乱して逃げ出す兵もでるしまつ。

 さしもの黄巾兵の信仰心も、馬が運んでくる恐怖の前にはかき消えてしまったようであった。


「兄上、もうだめです。今のうちに退きましょう。」


 ずっと張角の側に控え、ともに戦況を見つめていた張宝が、張角に退却を進言した。

 烏丸騎兵の出現により、戦闘の帰趨は誰の目にも明らかになりつつある。

 このままでは本陣すら敵の攻撃にさらされ、退路も危なくなってしまうだろう。


「まさか・・・我らには天のご加護があるはずじゃ・・・。信じられぬ、余は退かぬぞ。黄天に祈り、さらなる加護を賜るのじゃ・・・!」


 ブツブツとつぶやく兄を見て、張宝はふうっと大きくため息をついた。

 張角の目の焦点はどこか合っておらず、いつも以上に夢でも見ているような表情をしている。

 もはや兄の張角が冷静さを失っているのは明らかだ。

 勇ましいことを言っているが、張宝には単なる世迷言としか聞こえなかった。


「退き(かね)を鳴らせ!ただちに広宗へと退く!!」


 張宝は大声で退却を指示した。

 そして張角を馬車に乗せて真っ先に後退させ、自身は踏みとどまって友軍の逃げる時間を稼ごうとした。

 だが、奔流のように広宗へと向かって敗走を開始した味方の兵のかたまりに呑まれ、張宝自身も気がつけば敗走中というありさまだった。


(今思えば、馬元義の策は間違っていなかったのだなぁ・・・。あれほど朝廷の軍が強いとは。果たして、広宗の城でどれほど持ちこたえられるものか・・・)


 いつしか必死に逃げている自分を情けなく思いながらも、張宝は妙なところで感心していた。

 武力革命路線にはあまり賛同できなかったが、馬元義の力量はすごいものだったと改めて思ったのだ。

 馬元義の策が成功していれば、官軍がこのような短期間で遠征してくることはなく、今日の無残な敗北もなかったに違いない。


 しかし、馬元義はすでにいない。

 呆けたようになった兄を支えるのは自分しかいない。

 そう思いながら、張宝は広宗への道を急ぐのだった。

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