第77話 曹嵩、死す
(恐ろしい人だ。)
荀彧は近頃の主君曹操の様子を見て、そんな感想を持った。
このところの曹操は怒りを爆発させている。
怒り狂っているとの表現の方が適切かもしれない。
きっかけは実父の曹嵩の死であった。
ただの死ではない。
戦乱を避けて徐州琅邪国にいた曹嵩は、徐州牧陶謙配下の軍によって攻撃され、無残にも惨殺されてしまったのだ。
こうなると陶謙は曹操にとって親の仇である。
知らせを受け取った曹操は激怒し、陶謙に対するあらん限りの罵声をわめき散らし、やや落ち着くと遠征の準備を命令した。
昨年に続いて2度目の徐州攻めが決定した瞬間だった。
曹操の怒りは周囲に伝染した。
武将たちも主君の境遇に同情し、仇敵陶謙の打倒を声高に叫んでいる。
将たちの熱気は兵卒たちにも伝わり、軍全体を異様な興奮が包んでいる。
この状況を荀彧は冷静に見つめていた。
曹操の怒りを額面通りに受け取らなかった、とも言える。
彼は曹操がこのような事態を予想していた、もっと言えば望んでいた可能性すらあるとすら考えていた。
実のところ、曹操と父の曹嵩の間柄は微妙なものだ。
曹嵩は戦乱を避けて豫州譙県から琅邪国へ避難していたわけなのだが、それならばなぜ息子が治めるようになった兗州へ避難しなかったのか。
確かに一時兗州は豫州以上に戦乱の影響を受けていたが、曹操が実権を握った段階で安全になっていたはずなのだ。
にもかかわらず、曹嵩が兗州に移ろうとしたのはつい最近、曹操が攻めてきたために曹嵩が徐州に居づらくなってからであった。
逆のことは曹操にも当てはまる。
なぜ徐州攻めに先立って父を兗州へ迎え入れなかったのか。
結局、父子の仲がしっくりいっていなかったせいではないか、と荀彧は思うのである。
曹操は父に愛情も感謝も持ってはいても、心の奥底で父に対する反発もまた抱え込んでいたのではないか。
そのことが父子の間に溝を生み、何を置いても子のもとへ避難する、あるいは父を引き取るという動きにつながらなかった。
それは実父に対して屈折した思いを未だに捨てきれない荀彧だからこその発想かもしれなかった。
曹操は20歳で「孝廉」として推挙され、官界デビューを果たしている。
しかしそれは大長秋であった祖父・曹騰、後に太尉となる父・曹嵩という有力者の子弟であったためだ。
そのかわり、曹嵩が一億銭で太尉の位を「買った」事実により、曹操は宦官の孫という出自の他に買官を行った者の子という不名誉まで負った。
実父が圧力に屈し、宦官の養女をめとる運命を背負った荀彧にとって、曹操が抱えているだろう父への想いは何となく想像がついた。
眼前の曹操は父の死に怒り狂っている。
荀彧の見るところ、おおいに怒ってみせ、父のかたき討ちを標榜すれば、曹操は再度徐州へ攻め込む強力な大義名分を得られるからである。
荀彧が恐ろしい、と思うのは曹操のその部分であった。
ただ、仮に曹操の真意がそうだとしても荀彧は非難するつもりはない。
むしろそれくらいの非情さがなければ乱世を収めることなどできない。
曹操という男を主に選んだことに間違いはなかったとの想いはより強くなったが、彼に対する畏怖もまた増したということだ。
「文若。また留守を頼む。」
予想した通り、荀彧は今回も留守を任されることになった。
前回と同様に曹操の家族は親友の張邈に預けられることになり、曹操の本拠は行政部門を荀彧が、軍事部門は夏侯惇が責任者として残されることになった。
(兗州の人士は、再度の遠征を内心では歓迎していまい。不満をいかに抑えるか。それがわたしに託された役割となるだろう。)
兗州の軍部は徐州再侵攻に意欲的だが、支配層を形成する名士たちは必ずしも乗り気ではない。
彼らが曹操を兗州牧に推したのは、兗州を外敵から守ってもらいたいがためだ。
他州への軍事侵攻を支援するためではない。
いくら曹操に「逆賊」陶謙討伐の命が下ったといっても、それは正式な勅命ではなく太僕の趙岐が勝手にやったことにすぎない。
趙岐にはそうするだけの権限があったために名士たちの不満は表面化していないが、さすがに不満の兆候は曹操や荀彧も感じ取っていた。
だからこそ、曹操は「親のかたき討ち」という儒教を信奉する者の心へ訴えかけやすい名目を手に入れ、遠征を起こしたのだ。
しかし、これとて弱点はある。
本来、儒教では親が死ぬと3年の喪に服すのがならいである。
細かい理屈をこねれば、曹操の遠征はこの美徳に反する行為であった。
新たに大義名分を得たとは言え、不満の種は常にくすぶっていると考えるべきだった。
荀彧は留守を預かる自分の仕事がその不満を表面化させないことだと考えた。
留守の間につつがなく統治を続けることはもちろん、名士の動向に目を光らせて兗州支配に動揺を起こさないようにすること。
それが荀彧が自分自身に課した役割であった。
なかなか難しい仕事であるが、それより荀彧の不安は遠征軍の方にあった。
曹操は前年にとった泗水沿いの侵攻ルートを使わず、北東に進路をとって魯中山地を抜け、琅邪国に侵攻するルートを選ぶと打ち明けていたのだ。
その理由は前年と違うルートを使うことで敵の裏をかきたいということがひとつ、もうひとつは父が通るはずだった道を通って最期の地に至ることで弔い合戦としてアピールしたいという思惑がある。
政治的にも軍事的にも優れた妙案と曹操は鼻息が荒いが、荀彧は反対だった。
理由は補給の困難だ。
前年に一部泗水の水運を使って輸送を行っても補給に苦しんだのだ。
それが響いて陶謙軍に野戦で勝利を収めながら、これという成果を得ることなく撤退せざるを得なかった。
陶謙を捕獲したり討ち取るといった勢力の崩壊につながるような決定的な勝利ではなく、攻略を狙った郯県を兵糧切れで陥落させることもできなかった。
川を使えず山越えを強いられる今回のルートでは、それ以上に成果をあげることが難しいだろう。
陶謙軍主力がいない方面からの侵攻自体はさほど難しくはない。
しかしながら、曹操軍は敵地に快進撃を続ければ続けるほど補給難に陥り、早晩進軍がとまってしまう。
それを避けるためには現地調達に頼るしかない。
つまり略奪である。
ほぼ略奪に頼る遠征は二重の意味で危険だ。
十分な食料が確保できる保証はないし、地域住民に決定的な悪感情を持たれてしまう。
結局のところ曹操は徐州の領有を目論んでいるのであり、大規模な略奪はその後の支配に多大な悪影響をもたらす。
荀彧は最終的に遠征の失敗につながることを予見し、反対意見を述べたのだ。
ところが、曹操の考えは変わらなかった。
彼は昨年陶謙軍が万に迫る損害を出したことで、彭城国や下邳国といった徐州西部を十分に痛めつけたと確信している。
そのため琅邪から徐州東部へ侵攻することが陶謙に対する必勝の策と信じ切っており、戦争を戦争で養う現地調達に頼っても速戦にうったえ、今度こそ陶謙勢力を打倒するつもりであった。
荀彧は怒りに燃えて士気高い曹操軍が北へ向いて去っていくのをただ見送ることしかできなかった。
こうなったら、曹操が持つ戦術家としての才に賭けるしかない。
しかし、荀彧の不安はやがて最悪の形で実現してしまうことになる。
徐州への2度目の侵攻は徐州だけでなく兗州にも再び騒乱の種を撒き散らす結果をもたらすことになったのだった。