第72話 荀彧、初陣を飾る
この時期、兗州は激戦地である。
荀彧が曹操に仕え始めてまもなく、黒山賊と呼ばれる集団が袁紹が新たに本拠とした冀州魏郡から曹操の本拠となった兗州東郡に至る地域を襲った。
彼ら黒山賊は100万と号する大軍を擁していたが、元をただせば流民の群れにすぎない。
抱え込みすぎて養い切れなくなった人の口を満たすため、略奪目的の侵攻であった。
もっとも、黒山賊が魏郡や東郡を襲ったのには裏がある。
袁紹と対立する袁術と公孫瓚が手を結び、対袁紹の包囲網をつくるとともに黒山賊をけしかけたのだ。
東郡が襲われたのは、曹操が袁紹の同盟勢力であったからなのだ。
東郡に攻め込んだ于毒ら率いる黒山賊は、数の利を活かして東郡の郡治であった濮陽へと侵攻してきた。
濮陽は曹操が本拠とする東武陽からみて南西120キロメートルほどの位置にある。
まるで黒山賊の勢いは誰も手がつけられないかのようであったが、実のところ曹操はただちに反撃の準備を整えていた。
黒山賊は数こそ多いがその一部を除いて精鋭の集まりではない。
また、黒山賊の首領は常山国の張燕という人物であったが、その勢威をみて服属したり黒山を自称する者も少なくなく、実際に袁紹領や曹操領を襲った者たちは張燕の統制下にはなかった。
東郡に攻め寄せた于毒や眭固、白繞らは魏郡周辺で蜂起した首領たちの集団であり、つまりは100万と号する大軍のごく一部だけが攻めてきているだけなのだ。
曹操は彼らを会戦で一気にたたくことにしたのだった。
「よし、出るぞ!」
曹操は急行軍での出撃を指令した。
曹操軍の将兵たちは道々出くわした黒山賊を蹴散らしながら進み、ついには勇躍して黒山賊の本隊に襲いかかった。
勝負はほぼ両軍が接触した瞬間についた。
黒山賊の侵攻目的は元々不足した物資を得ることであったから、広く分散して略奪に出払っている者も多かった。
統制が取れていない集団は軍ではなく烏合の衆であり、一斉に弩(ボウガン)を射かけた後に密集突撃をかけた曹操軍の敵ではなかった。
長矛を主な武器とする歩兵部隊を主体とする曹操軍は黒山賊をさんざんに破り、そのまま東郡から追い出した。
この勝利は兗州内での曹操の名声をおおいに高めた。
すでに乱世となったいま、最重要課題はいかにそれぞれの城市を外敵から守るかということになっている。
親孝行であったり儒学の知識が深いといったこれまでの評価基準はまったく役に立たず、ここに曹操が兗州の支配者としての地位を固める土壌が生まれたのであった。
翌192年、曹操は東郡の西部に位置する頓丘を攻めた。
前年の黒山賊の侵入で失われた県城であり、東郡太守として失陥し続けることは許されないことであった。
ここはかつて曹操が県長を務めた地でもあり、周囲の地勢に明るかった。
曹操は土地勘のある場所を次の戦場に選んだのだった。
(なぜ于毒らがいる魏郡ではなく、頓丘を攻めるのか?)
東武陽で荀彧は首をひねっていた。
彼は前年に引き続いて今回も本拠地の防衛を託され、東武陽にとどまっていた。
新参の若手にいきなりこのような重職を与えるというのは驚くべきことだが、それだけ曹操が荀彧に寄せる信頼が強いという証である。
荀彧は留守番を任されたことに違和感はなかったが、曹操が向かった先には違和感があった。
今や兗州は四方から狙われているような状況であり、そのなかでも最も近い場所にあって好戦的な于毒ら黒山賊との対決を曹操が望んだのはわかる。
于毒らは并州から流れてきた於夫羅という匈奴の族長を迎えて戦力を増強しているとの知らせが入っており、ここで一気に叩いておきたいというのは戦略的に理にかなった行動である。
ただ、なぜ于毒らとの直接対決のためにまっすぐ西へ行くのではなく、頓丘攻めのために南西へ向かったのか?
極端な話、于毒らを撃破することができれば頓丘など勝手に立ち枯れるような枝葉の存在なのである。
荀彧は曹操の意図をはかりかねたが、間もなく曹操という戦術家の才を鮮やかに認識させられることになった。
頓丘についた曹操は城を囲み、攻撃を始めた。
頓丘城は小さな県城に過ぎず、曹操は内部構造も知り尽くしていることからすぐに陥落させられるとみられていた。
しかし、曹操はただ取り囲むだけで積極的な攻勢に出ることはなかった。
まるで何かを待っているようであった。
十数日後、東武陽を守る荀彧のもとへ急報が入った。
于毒や於夫羅らの大軍が向かってきているとの報告である。
「手はず通り籠城する。頓丘から味方が帰ってくるまで、一兵たりとも敵を城内へ入れるな!」
荀彧の防衛体制に抜かりはない。
彼は軍規を厳しく施行し、おかげで防衛軍は適度な緊張感を持っている。
城の防衛施設を自ら視察してまわり、わずかでもほころびを見つけるとただちに修正が施された。
中華の城は町そのものを城壁で囲んだものである。
籠城戦には兵だけでなく住民の協力が欠かせない。
その点、荀彧は軍組織の適正管理や堅牢な防衛施設が住民たちの不安を払拭することを見越し、びくともしない防衛体制の構築に成功していたのである。
案の定、于毒らは東武陽を攻めあぐねた。
黒山賊は戦闘より略奪の方に関心が深かったし、強力な騎射が持ち味の匈奴の軽騎兵たちは城攻めにはまったく役立たなかった。
荀彧の目論見は当たり、東武陽の城壁は黒山賊の前に文字通り高い壁となって立ちはだかった。
(これでいい。もうあと数日すれば、本隊が戻ってくる。それまでの辛抱だ。)
実戦らしい実戦は初めてであったが、荀彧は落ち着いていた。
籠城戦は味方の援軍が来るあてがあって初めて成立する。
その点、曹操が本拠地の東武陽を見捨てるとは考えられず、荀彧は必ず援軍が数日以内に来ると城内の兵や民を鼓舞し続けることができた。
ところが、3日が過ぎ、5日が過ぎても曹操の軍が帰ってくる気配がない。
東武陽と頓丘の間は120キロメートルほどであり、5日もあれば十分に帰還できるはずである。
本拠の危機であれば、強行軍にうったえて3日で帰ってきても不思議はない。
それなのに、待てど暮せど曹操軍の姿は見えない。
(敵の足止めを食らっているのか?それとも、道中で裏切りでも出たか?)
荀彧は不測の事態を考え始めた。
だが、城を囲む敵軍に大きな動きは見られず、曹操軍を食い止める大部隊が移動した形跡はない。
まだ味方の裏切りの方が可能性が高そうだが、前年に曹操は濮陽で于毒らを破っており、それほど大規模な裏切りが起こるとも考えにくかった。
(事情はよくわからないが・・・わたしは自分がなすべきことをするだけだ。)
荀彧は一層城内の人々を鼓舞し、城の守りを固め続けた。
異変はそれから数日後に突如やって来た。
敵陣が騒がしくなったかと思えば、間もなく雪崩をうったように西へ向かって移動しはじめたのである。
何か後方で起こったのだろうか。
「追撃しましょう!」
敵の慌てぶりを見て、城内の将兵が一斉に色めき立つ。
戦闘で最も有利なのは敵の背を撃つことである。
その好機が目の前に広がっているのだから、当然の声であった。
しかし、荀彧は慎重であった。
いきなり出撃命令を下すことはせず、まず少数の騎兵からなる偵察部隊に敵陣の様子を見に行かせた。
「敵兵の足跡や車のわだちを確認してきてくれ。足跡やわだちが乱れていないかつぶさに観察するんだ。」
騎兵たちは飛ぶように敵陣へと駆け、やがてまた飛ぶように城内へ戻ってきた。
「もはや敵陣には人っ子一人おりません。糧食や武器などがそこら中に放り出されており、あわてて陣を捨てたように見えます。足跡やわだちは乱れに乱れ、味方に踏みつぶされたのか道端でうずくまっている者が何人もおりました。」
荀彧はその報告を聞き、捕虜にした敵兵の姿を確認してからようやく追撃命令を発した。
敵の急な撤退がこちらを誘い込む計略ではないと見極めてから、追撃を行ったのである。
やや出遅れた荀彧軍は、魏郡に入ってしばらくして敵に追いついた。
ところが、すでに敵は壊滅間近であった。
何と、先回りした曹操軍本隊によって行く手をはばまれ、次々に撃破されていたのだ。
(なぜ本隊がここに!?)
敵も曹操軍本隊の出現に驚いたはずだが、荀彧もまた驚いた。
曹操軍が黒山賊の本拠の方から進んでくるなど想像していなかったのだ。
「やあ、文若よ。よく東武陽を守り抜いてくれた。おかげで大勝利じゃ。」
どこか釈然としない顔のまま、荀彧は曹操の出迎えを受けた。
十数日ぶりに見る主君の顔は、まぶしいくらい朗らかであった。
(「囲魏救趙」か。そうか、そういうことか・・・。)
荀彧はようやく曹操の戦術の妙に気がついた。
「囲魏救趙」とは、戦国時代に斉国の兵法家であった孫臏が用いた戦術である。
あるとき、斉国の同盟国であった趙国が魏国に攻められ、斉国に救援要請が来た。
当時の魏国は中原一の強国であり、正面切っての戦いとなると勝てるかどうか斉国としては自信がなかった。
このときに孫臏は策を問われ、魏国の首都を攻めることを提案した。
趙国も大国であることから魏軍は国を空っぽにするほどの軍を編成しているに違いなく、首都の守りは手薄のはずである。
そこで斉軍が魏の首都をうかがう構えを見せれば、自然と趙国に展開する魏軍は引き揚げるはずだというものであった。
そして、事態は孫臏の戦術どおりに展開した。
自国の首都が危ないと知った魏軍はあわてて退却を開始し、準備万端で待ち構えた斉軍は統制が乱れ疲労のたまった魏軍に大勝したのである。
趙国の危機が救われたのは言うまでもない。
曹操がやってのけたのは、この「囲魏救趙」の再現であった。
東武陽に攻めてきた黒山賊とまともにぶつかるのではなく、その本拠地へ進軍することによって自軍に有利なかたちで会戦に持ち込み、撃破したのである。
「囲魏救趙」のエピソードは『史記』という歴史書にも載っている話なので、この時代の知識人ならば多くの者が知っている。
だが、このように鮮やかに現実の戦場で再現できる者がどれほどいるだろう。
いや、今回の曹操は忠実に再現したというよりさらに応用を施したとさえ言える。
自ら頓丘を攻めることで「手薄になった東武陽」という隙をあえてつくり、敵をまんまと敗北の道へ引きずり込んだのだ。
また、おそらくは敵軍が東武陽に行かずに頓丘へ救援にやってきても、会戦で撃破する見通しを立てていたに違いない。
何しろ頓丘はかつて曹操が治めていた旧知の土地なのである。
会戦にふさわしい場所の選定などすっかりできあがっていたはずだ。
いずれにしても、頓丘を攻めると決めた時点で、曹操の頭には必勝の図式が浮かんでいたのであった。
荀彧は曹操という主の優れた戦術家としての一面をこれ以上ないくらい見せつけられた。
それは、曹操こそ乱世を終息させうる人物であるという荀彧の評価をさらに強めるものとなった。




