第70話 荀彧、めぐり逢う
秋草を蹴って、荀彧の馬車が進む。
爽やかな風がゆるやかに身を包み、まことに心地よい。
だが、車上の荀彧の心はあまり爽やかなものではなかった。
ひとつは自分の将来への不安がある。
世間では河北において一番将来性があるとみられている袁紹のもとを去ったため、荀彧の今後は不透明と言っていい。
袁紹のもとで受けていた待遇は決して悪いものではなかっただけに、次も同等の待遇を受けられるという見通しもない。
自分の人物眼に自身を持ち、気丈に振る舞っている荀彧であるものの、心中では若干の不安を感じていた。
ただ、それよりも大きいのは今後の中華がどうなっていくのかという不安であった。
道中、実りの季節を迎えているにもかかわらず、荀彧が多く目にしたのは荒れた大地である。
元は豊かな田園地帯であっただろう地域が一面痩せた雑草に覆われ、本来実っているべき穀物の姿は乏しい。
早めに収穫が行われた可能性はもちろんあるが、多くが捨てられた土地であることに荀彧は気づいている。
そもそも村や道で目にする人煙自体が少なく、多くの民が村からいなくなっているのは明らかなのだ。
黄巾軍やその残党らによって殺された人もいるだろうが、むしろ自分から土地を捨ててよそへ去ったケースの方が多いはずであった。
これは当然であろう。
戦争や盗賊の被害がうち続く土地では腰を据えて農耕を営むことは難しく、流民となった彼らは城壁などの防衛施設の整った都市へ流れ込んだり、あるいは元の村から少し離れた山上などに砦を築いて新たな生活拠点にするなど思い思いに避難したのである。
(中原の荒廃は思ったより酷い。このままでは朝廷の威権はますます衰え、天下はさらに乱れることになろう。)
中華は商工業も発達しているが、やはり基本となる産業は農業である。
その源となる土地の荒廃は国家の衰退が今後も続くことを暗示しているのであった。
荀彧はそのことを肌で感じ、一層沈んだ気持ちになっているのである。
やがて荀彧一行は兗州東郡へと入った。
用意のいい荀彧は、東郡へ入ったタイミングで兗州刺史へ面会を求める使者を送った。
コネもない状態での訪問であるため、少しでも早く面会をかなえるためにはこちらから意思表示をするしかない。
向こうから招かれた場合を除き、コネがなければすぐに面会がかなうことはない。
袁紹にすぐ会えたのは荀彧の兄弟がすでに士官していたという事情があったためで、世の中そんなに甘くない。
たぶん今回も面会までこぎつけるのに数日はかかるだろう。
あるいは、もっとかかる可能性だってある。
しかし、そんな荀彧の予想はいい意味で裏切られた。
東郡の郡治(郡の役所が置かれた場所)である東武陽県にたどり着いた荀彧らを出迎えたのは、東郡の役人であった。
「荀文若さまでいらっしゃいますね?主より客舎へご案内するよう仰せつかっております。まずは旅の垢を落としてくださいませ。」
「これは・・・痛み入ります。」
思わぬ出迎えに、さすがの荀彧も驚いた。
いくら名高い荀氏の一員とはいえ、20代後半でまだ確固たる名声を得たわけではない荀彧に対してこの対応は手厚すぎる。
「もしお疲れでなければ、主は今日にでも文若さまとお会いしたいと申しております。いかがでございましょう?」
ここまででも十分手厚いが、役人はなおも驚くべきことを言う。
何と、彼の上司である兗州刺史は今日すぐにでも荀彧と会いたいと言っているようなのだ。
「今日ですか!?それは願ってもないことですが・・・。」
「それはようございました。では、後ほどお迎えにあがります。」
何から何まで振り回されっぱなしだが、悪い気はしない。
人から評価されて嫌がる者はまずいないのである。
荀彧も例外ではなかった。
ただ、荀彧はそのまま有頂天になる男ではない。
(曹操という男・・・いったい何を考えている?なぜ、わたしをこれほど厚遇しようとする?)
荀彧が会おうとしている兗州刺史とは、行奮武将軍(奮武将軍代理)を自称して反董卓連合軍に参加し、積極的に攻勢に出て名を上げた曹操であった。
彼は徐栄率いる董卓軍に敗れたあと、苦労を重ねて軍を再建したが、その頃には酸棗に集結していた反董卓連合軍は解散してしまっていた。
正式には何の官職にも就いていない彼は兵を養うすべに困ったが、直後に死亡した東郡太守の橋瑁や兗州刺史の劉岱にかわって東郡太守と兗州刺史を次々に受け継ぐ幸運に恵まれ、兗州の支配者になっていたのである。
朝廷が遠くに去り、黄巾の残党が各地で暴れまわっているという特殊な条件下で実現した、異例の幸運であった。
荀彧は面会の支度を整えながら、相手の意図を推測し続けていた。
やがて、彼はひとつの結論を導き出した。
(ははあ。「まず隗より始めよ」か。)
荀彧が思い当たったのは、この時代から500年ほど前の戦国時代の逸話である。
燕国に仕える郭隗は、主である昭王から燕を強国にするため人材を招く方策を問われた。
聡明な王は国を強くするためには優秀な人材を集めて様々な分野で活用する必要があると気づいたが、北辺の小国にすぎない燕国に足を向ける人はなかなかおらず、苦慮していたのだ。
郭隗はまず自分を厚遇してそれを天下に広く喧伝することを勧めた。
どういうことかと言うと、郭隗程度の人物が師とされるのなら、より自分の才能に自信を持つ優秀な人材が争ってやって来るだろうというのだ。
何だか郭隗が自分を卑下しすぎているような気がしないでもないが、実際にその言を採用した昭王が郭隗を師として仰いだところ、はたして諸国から人材が集まってきた。
優秀な人材を多数得て国力は高まり、昭王は燕国の最盛期を実現することができたのだった。
曹操はこの郭隗の故事に着想を得て、荀彧を厚遇する姿勢を見せたに違いない。
彼の兗州刺史は朝廷の正式な任命によるものではなく、黄巾軍の残党などの侵略に悩む兗州の名士たちに担がれて勝手に名乗った自称にすぎない。
兗州の名士たちが心変わりすればたちまち墜落してしまう儚い存在でしかなく、名士を多数輩出した豫州潁川郡の名家・荀氏と接点を持つことで兗州以外の名士の支持を集めて権力基盤を強化しようとしているのであろう。
祖父の「神君」荀淑や現在司空の高位にある叔父の荀爽の名声は天下に知れ渡っており、荀彧自体は無名でも利用価値は高いと判断されたようだ。
(もし郭隗になぞらえているのであれば、わたしが役に立たぬ者でも厚遇するふりはされるに違いない。だが、見せかけの厚遇は袁紹だけでもうたくさんだ!もし曹操にも評価されなければ、いさぎよく他へ行こう。)
荀彧は腹の中にそのようなふてぶてしい想いを抱きながら、やがて曹操との面会におもむいた。
通された部屋にはすでにひとりの男が待っており、荀彧の姿を見ると「揖」の礼をとった。
荀彧も礼を返しながら、すかさず相手の観察を行う。
噂に聞いてはいたが、曹操は風采のあがらない男であった。
背が低く、顔もこじんまりとした印象だ。
額は狭く盛り上がるように少し前に突き出し、眉毛が整って生えていないために美しいとは言い難い。
押しつぶされたように低い鼻は、鼻先だけがツンと上を向いている。
本人も劣等感があるのだろう。
少しでも威厳を整えようとしたものか、立派なあごひげをはやしているのだが、かえってそれは威厳のなさを強調しているかのようだ。
先日会った袁紹が堂々とした体躯と押し出しの強い迫力のある顔をしていたことを思えば、曹操は容貌だけで人の敬意を集める男ではない。
ただ、曹操の目だけは不思議な魅力を放っていた。
鋭く冷たい光をたたえているのだが、その奥には情の厚さがにじみ出ているような、何とも言えない引き込まれる目をしているのだ。
(優れた容貌で名声を得る者もいるが、残念ながらこの男はそのような者ではない。だが、すでに曹操の名声は天下に知られはじめている。あの目の光を見れば、やはり尋常な男とは思えない。仕えるに足る男か、ぜひ確かめたいものだ。)
この時代の人物評価基準には容姿の立派さも含まれている。
荀彧もその名門らしい端正な顔立ちから立派な風采をしているとの評価を受けていた。
その面で曹操は低い評価を受けることもあったに違いない。
そのハンデに加えて宦官の孫という出自を背負いながら、なぜこの男は兗州の支配者に立てられることになったのか。
ろくに言葉を交わさないうちから、荀彧は早くもこの曹操という男との出会いに対して胸の高鳴りを感じ始めていた。




