第67話 荀彧、冀州へ難を避ける
3章は荀彧と魯粛のふたりを主役に据え、彼らを通じて曹操と孫権という三国志の主役であるふたつの勢力を描いていきます。
このふたりはともに乱世に生きていることを正しく理解し、そのなかで有望とみた群雄に仕えて現実的な戦略を示し、その覇業を助けたところは共通しています。
しかし、後漢王朝に対する想いは180度異なっており、破れかけた袋を繕うように後漢王朝の存続に苦心した荀彧に対し、魯粛はその役割が終わったことを主張して後漢王朝の打倒を最初から掲げます。
ふたりの対照性を明確にしつつ、191年から217年にかけてを描いていきたいと思います。
なお、列伝と銘打ってはいますが、完全に分離した伝として描くことはせず、それぞれの視点での話をつないで章を構成していきます。
人間という動物は保守的な生き物である。
大多数の人は自分が見たいと思う現実しか見ず、未来を見つめるべき眼は曇っているかのように精彩を欠く。
だが、時代の流れは地殻変動のようにわかりにくいものの、なかにはその動きがありありと見え、新しい時代の潮流をつくっていく者も存在する。
歴史は随所でそのような特別な才を持つ者を生んできた。
彼らが導き出した卓越した思考を凡百の者になかなか理解してもらえないという悲劇を併せ持って。
191年、豫州は潁川郡においてもその悲劇が繰り返されようとしていた。
この地が近いうちに兵乱に巻き込まれることを予見し、安全な地への退避を提案する若者に対し、土地の長老たちは首を縦に振らないのであった。
「兵火が迫ってからでは遅いのです!今ならば、韓文節さまが差し向けてくれた冀州兵の護衛を受け、安全にかの地へ逃げ延びることができましょう。このような好機は今しかないのです!!」
「しかし・・・兵火がこの地に及ぶとは限るまい。陛下も朝廷もはるか長安へと動座され、戦の恐れは去ったとの話も聞く。」
長老たちは若者の言葉に懐疑的な様子をみせた。
冀州牧の韓馥は潁川郡出身の名士であり、信用できる人物である。
彼が送り出した護衛兵に守られての避難であれば、道中は安全というものだ。
しかし、本当に逃げる必要があるのか長老たちにはピンと来ないのだ。
なお、長老たちが示した情報は事実を含んでおり、反乱軍の規模が予想外に膨らんだ結果、董卓は洛陽に献帝と朝廷を置き続けることに不安を覚えて長安への遷都を断行していた。
ただし、董卓軍の多くがまだ洛陽周辺に展開しており、洛陽が完全に放棄されたわけではなかった。
戦闘の危険までもが去ったという結論は、若者に言わせれば希望的観測が過ぎるというものであろう。
「いや、董仲頴の軍がみな長安へ去ったわけではありませぬ。もし董軍が関を開いて打って出てきたら、この地は蹂躙されましょう。」
潁川郡は洛陽の南東160キロメートルほどのところに位置している。
洛陽を発した軍がここまで到達するのに10日とかからない。
女子供や年寄りを連れての逃亡となることを考えれば、いざ軍勢が迫ってきたと聞いて逃げ出しても間に合わない。
「魯陽には袁公路さまがおられるし、最近では朱公偉さまが中牟に陣を構えられた。たとえ洛陽から軍が発しても、撃退してくれなさるじゃろう。」
長老たちは魯陽の袁術軍と中牟の朱儁軍が潁川郡を董卓軍から護ってくれると信じているようである。
袁術は豊かな南陽郡を実効支配し、その家柄も相まって大きな兵力を獲得していた。
魯陽は潁川郡から見て南西に100キロメートルほど離れており、3,4日もあれば援軍に駆けつけて来れる位置関係にある。
また、最近荊州から北上してきた朱儁は言わずと知れた黄巾の乱平定に功あった名将であり、その名声は天下に鳴り響いている。
その彼が潁川郡の北80キロメートルほどの中牟に駐屯している。
長老たちにしてみれば、潁川郡は南北を強力な軍に守られているわけで、どこに逃げる必要があるのかということなのだ。
(袁術はともかく、朱儁軍の実力はあやしい。)
若者はそう見ていた。
朱儁は名将に違いないが、その支配下にある兵力はかなり小さい。
彼は董卓が専横を示しはじめると洛陽を脱出し、荊州牧の劉表を頼った。
荊州で兵を集め、最近北上してきたのだが、その軍勢が大軍であるとは聞こえてこない。
せいぜい1千から2千程度であろう。
近くには袁術をはじめとして友軍はいるが、彼らの連帯意識は乏しく、もし朱儁軍が襲われても積極的に援ける者はいないだろう。
「どうしても留まるとおっしゃるなら、わたしの一族だけでも参ります。よろしいか?」
ついに若者は長老たちの説得を諦めた。
長老たちが動かないとなれば、彼らの子弟や親類なども動くことはない。
みすみす救える命を捨てていくのは忍びないが、まだ28歳の彼には家長として一族を守り抜くという大事な使命がある。
いつまでもここにとどまって災難に遭うのは避けなければならなかった。
「どうしても行かれるか。さすれば、今宵はせめて別離の宴をもうけましょうぞ。韓文節どのにもよしなにお伝え願いたい。」
若者の進言を退けはしたが、長老たちは別れを惜しむ様子をみせた。
その眼差しには若者への慈しみの想いだけでなく、若者の一族に対する敬意がにじみ出ていた。
(いい人たちなのだ・・・。)
そうわかるだけに、若者はやるせない気持ちになった。
それは宴で別離の杯を重ねるたびにますます募った。
翌日、若者はあらかじめまとめていた家財道具を積んだ車を連ね、一族とともに冀州軍の指揮官のもとへ出向き、挨拶をかわした。
「わたしは荀彧、字を文若と申す者です。韓文節さまのご厚意にすがり、わが一族ともども冀州へお連れいただきとうございます。」
「できれば村の者共も一緒に連れて行ってほしいとのことでありましたが・・・?」
「・・・他の者たちはここへ残るとのことです。」
「わかりました。わたしめが主より仰せつかったのは、「神君」の御子孫をお連れするようにとの命でございました。ただちに出発いたしましょう。」
指揮官が荀氏の一族だけを連れて行こうとやって来たのに対し、他の村人たちも連れて行ってくれと無理に頼みこんでいたのは荀彧であった。
村人たちが同行を拒んだ以上、出発を遅らせる理由はもはやなかった。
(それにしても・・・未だに荀氏と言えば「神君」と言われた祖父の名が出てくる。わたしは祖父の遺徳によって生かされているようなものだ。)
馬車に揺られながら、荀彧は想った。
荀氏は名門として知られているが、冀州牧という高位の官人からわざわざ迎えを寄越してもらえるのは彼の祖父の名声によるものなのだ。
荀彧の祖父の荀淑は天下に名の知れた名士であった。
彼は儒学に通じているだけでなく精神も高潔であり、時の権力者であった梁冀やその一族を堂々と批判し、このために「神君」と呼ばれて世の尊敬を集めた。
梁冀という人は自分のことを「跋扈将軍(思いのままにのさばっている将軍)」と呼んだ皇帝を何のためらいもなく毒殺するような男であり、彼を批判することは並大抵の勇気ではない。
荀淑の高名を慕って多くの者がその門をくぐって弟子の礼をとり、そのなかには李固や李膺といった第一級の名士も含まれていた。
荀淑が死ぬと村中の者が自発的に動き、彼の祠をつくって敬意をあらわした。
孫の荀彧や一族に対して長老たちが敬意を示していたのはその余光のようなものである。
一方、荀彧自身や亡くなった父の荀緄に向けられる世間の眼は冷たいものがあった。
それは彼らが「神君」の高潔な精神を受け継がない不肖の子孫であると見られたからだ。
どういうことかと言うと、ことは荀彧がわずか4歳の時にさかのぼる。
この年、荀彧の婚約者が決まった。
現代日本の感覚で言えば早すぎるようだが、この時代では幼少期の婚約は別に珍しいものではない。
問題は妻となる女性の出自にあった。
かつて権勢を振るっていた宦官に唐衡という者があり、荀彧の妻となるのはその養女であったのだ。
唐衡は先に名前の出た梁冀一族の討滅に功のあった者だが、その後は仲間とともに自分が大いに権勢を振るった。
品行を重視する名士たちに言わせれば凶悪な権力者が排除されて別の横暴な人物が取って代わっただけであり、唐衡らの一党への評価は梁冀とさして変わらぬ冷淡なものであった。
この名士たちの視線を意識してか、唐衡自身は荀彧が生まれた翌年にすでに死去していたものの、その勢力を受け継いだ宦官たちは時の皇帝である桓帝の許しを得て唐衡の養女を荀彧に嫁がせることにした。
名士のなかでも名高い荀氏を自派に取り込もうとしたのであり、父の荀緄はこれを拒み切れなかった。
時の権力者を堂々と批判してのけた高潔な祖父と権力者に屈して宦官の養女との婚姻を受け入れた父。
そのあまりに対照的なふたりの評価は、まだ若い荀彧の思考に複雑なひだを生じさせるに十分であった。
彼は俊英な頭脳を持っていたが、その根底には確固とした後漢王朝への忠義があった。
父や自分自身が宦官と結縁したという汚点を意識するあまり、誰よりも理想の名士たろうと意識したのである。
やがて彼らの車馬は冀州に近づいた。
間もなく旅の終わりである。
しかし、彼らを待っていたのはふたつの悲報であった。