第55話 陽人の戦い
9月に行われた河陽津の戦いを最後に、190年における大きな戦いは終息した。
董卓軍の武威におじけづいた反乱軍は前進をためらい、黄河や洛陽盆地を取り巻く山地を越えて大部隊を送り込む気配すら見せなくなった。
一方、董卓軍は度重なる勝利に沸き立ってはいたが、その兵力は反乱軍に遠く及ばず、これまた積極的な攻勢に出ることをためらっていた。
その結果、小競り合いが起きる程度で戦局に目立った変化はなく、190年は静かに暮れていった。
明けて191年になり、ようやく南の戦線に動きが生じた。
前年に梁県の東で徐栄率いる董卓軍に大破された孫堅が、軍の再編成を行って再び梁県へと進出してきたのだ。
ただ、その数は2,3千程度であった。
しかし、董卓はこの孫堅軍の動きを重く見た。
梁県は南端ではあるが洛陽がある河南尹の内に属する。
そして、孫堅軍が占拠した陽人という城は洛陽の南200里というから、およそ80キロメートルほどしか離れていない場所にある。
しかも陽人のすぐ北西8キロメートルほどのところには董卓軍が守りを固める「洛陽八関」のひとつ「広成関」があり、ここを突破されれば洛陽を直撃される恐れが出てくる。
孫堅軍をその南方40キロメートルほどの魯陽に駐屯する袁術軍の先遣部隊ととらえれば、少数と言えど無視はできないのであった。
董卓は手元にあった軍勢のうち歩騎5千ほどを割き、陽人城を攻撃させることにした。
やや少ないようだが、董卓はこの部隊の強さに自信を持っていた。
4千ほどの歩兵は董卓が洛陽入りする前からの子飼いの兵を中心に編成されており、1千あまりの騎兵はかつて并州刺史の丁原が養っていた強悍な并州騎兵である。
董卓は丁原を暗殺し、その軍を吸収して朝廷の高官たちを震え上がらせる強大な武力を得たが、その并州兵のなかでも最強の部隊がこの騎兵であった。
それもそのはずで、彼らはかつて前漢王朝を一時従属させた北方異民族、匈奴の末裔で構成されていた。
だが、どれほど強力な軍も指揮がまずく統制が取れていなければ力を発揮できない。
董卓は歩兵と騎兵の指揮官として配下のなかでもお気に入りの猛将をそれぞれ起用したが、その人選を誤った。
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疾走する馬とその鞍上にどっしりとまたがる偉丈夫。
誰もが惚れ惚れする、まるで一幅の絵のような美々しさである。
しかし、当の偉丈夫の心中は外観の素晴らしさとは対極にあるかのように、どす黒い情念で満たされていた。
(あのクソッタレ!!今に見ておれ!!)
男の名は呂布、字を奉先という。
彼の後ろには腹心の騎兵が従っているが、将の不機嫌を察してか誰も声をかけようとしない。
実際、今日一日彼は不機嫌そのものであった。
その原因は直接的には今回彼の同僚となった男にある。
「同僚」と呂布は思っているが、実際のところは相手の胡軫の方が「上司」に当たる。
両者はともに陽人城攻撃の命を受けて派遣されることになった董卓軍の将である。
董卓は自分と同じ涼州出身で古株の配下である胡軫を「大督」、呂布を「騎督」として軍を率いさせることにした。
「大督」や「騎督」とは聞き慣れない官職名であるが、それもそのはずで董卓軍独自の役職名である。
督とは陣営を任される部隊長のことを指し、呂布が任じられた「騎督」が騎兵部隊の部隊長であるのに対し、「大督」は複数の督を束ねる一段上の指揮官となる。
つまり、董卓は胡軫を総大将と明示する意味を込めて「大督」にし、「騎督」である呂布たち諸将を統率して孫堅軍と当たることを期待していたのである。
だが、この人事は大失敗であった。
胡軫は武勇に優れた武将ではあったが、少なくともこの軍の指揮官に適した人物ではなかった。
彼は常日頃から粗暴で短気な性格を隠そうともせず、そのために彼の部下や同僚たちからは嫌われていた。
さらに、胡軫は任じられた「大督」の職権を過剰に強く意識しすぎた。
彼は呂布ら諸将に対してまるで董卓のように振舞い、その傲慢な姿勢に諸将の反感は募るばかりであった。
董卓に仕えた年数の長短はあれど、胡軫と諸将はともに董卓の部下という点では同格である。
朝廷の官職で言えば胡軫は諸将のなかで最上位の陳郡太守に任じられていたが、副将格の呂布も中郎将の官職にあった。
太守も中郎将も与えられる俸禄はそれほど大差はない。
その程度の身分差で君主然と振舞われるのは、特に呂布にとっては我慢ならなかった。
(偉そうに偵察など命令しおって。何様のつもりだ!!)
元々反感があるうえに、先刻呂布に対して命令を下した時の胡軫の憎々しい顔が脳裏にちらつき、はらわたが煮えくり返るようだ。
胡軫からの指令は先発して広成関へ入り、さらに足をのばして敵の陽人城を偵察するようにというもので、機動力を考えれば呂布の騎兵部隊に下されてしかるべき命令である。
これが董卓でなくてもその娘婿である牛輔に言われたのであれば、呂布もここまで腹が立たなかったのかもしれない。
自分と同格に近く、鼻持ちならない胡軫の命令だから余計に腹が立つのである。
「おう、奉先。陽人城はどうだった?」
呂布の怒りは、偵察結果を告げに行って胡軫の第一声を聞いたときに頂点に達した。
危険を冒して最前線まで行った呂布に対し、広成関で休息していた胡軫はぶっきらぼうに陽人城の様子を尋ねただけである。
形だけでも苦労をねぎらうことさえしない。
(俺だって今は中郎将になった。何でこんな野郎にあごで使われなきゃなんねぇんだ!!・・・決めた。こいつにはちょっと痛い目にあってもらう。)
「・・・陽人城の敵は逃げたようです。早く追撃しなければ、敵を逃すことになりますぞ。」
これはまったくのウソである。
呂布は陽人城を遠望できるところまでしか行っていないし、夕陽が照らす城壁上に「孫」の文字を縫い取りした軍旗がひるがえっているのを見て孫堅軍が抗戦の構えを崩していないことを見抜いていた。
こう言えば胡軫が判断を誤り、すぐに軍を進発して陽人城へ向かうに違いないと思い、ウソをついたのだ。
案の定、胡軫は辺りがとっぷりと暮れたにも関わらず、陽人城へ向けて出陣した。
8キロメートルほどの夜道を急ぎ、到達した陽人城はまだ暗闇のなかにあった。
いや、正確には暗闇の中に浮かび上がるように存在していた。
城壁上の各所に灯された孫堅軍のたいまつが辺りを明るく照らし出し、夜目にも鮮やかに陽人城の全貌を映し出していたのだった。
「敵は逃げてなどおらんではないか!」
胡軫はいまいましげに吐き捨てたが、そのまま夜襲を敢行するのはリスクがありすぎる。
敵が城を捨てて逃げたと聞いていたから、胡軫軍には攻城兵器の備えなどまるでないのである。
とりあえずその場に陣地を築いて休息し、善後策を練ることにした。
しっかりと準備を整えてから臨みたかったというのが本音だが、元々目的には陽人城の奪還だけでなく孫堅軍の撃退も含まれている。
城外に陣取って敵情を探っていけば、十分に目的を達成することも可能であろう。
ところが、その矢先。
「敵だ、敵が城から出てきたぞ!!」
突如大声が闇を切り裂き、その直後に「逃げろ!」という複数の声とともに馬蹄の音が響き渡った。
ろくに灯りとてない暗夜に、突如の敵襲。
そして味方と思しき兵の逃亡。
混乱に陥った胡軫軍の兵はたちまち恐怖に駆られ、一斉に北西へと駆けだした。
人間の集団心理というものは恐ろしい。
胡軫がいくら声を張り上げても、恐怖に支配された兵たちの耳には届かない。
いつしか胡軫すら兵の群れに呑まれて敗走するしまつであった。
「はっはっは。これで奴も懲りただろう。いい気味だ。」
誰もが混乱の極致にあるなか、馬上で哄笑していたのは呂布である。
彼がもたらした偽情報とわざと逃走する小細工により、胡軫は向こう見ずな前進をしたうえに無様な敗走までするはめになった。
この失態が知れれば、胡軫は董卓の不興を買うのは確実であり、きっと周囲の視線も冷たいものに変わることだろう。
そのことを思うと、呂布は愉快でならないのだった。
こう見ると、胡軫も呂布もどっちもどっちと言うか、将たる器ではないとしか言いようがない。
不必要に強権的で軍の統率に失敗した胡軫も問題だが、私怨のために多くの兵を危険にさらした呂布も武勇以外に見るべきものがない男である。
このような者たちを将として送り出した、董卓の大失態でもある。
やがて夜が明け、地団駄踏んで悔しがったのは胡軫であった。
悲壮な覚悟で敗残兵をまとめ、せめて敵と一戦交えようと待ち構えていたのだが、いつまでたっても孫堅軍が攻め寄せてくる気配がない。
そう言えば、誰も敵の姿を見ていないと思いいたったとき、自分たちがありもしない敵影に怯えて逃げたことに気づいたのである。
朝の陽光が照らし出すのは、武器や防具を放り捨て、情けない恰好で荒い息をついている味方の兵ばかりであった。
「クソッ、なんと情けねぇ。このままじゃあ、相国閣下に合わす顔がないわ。・・・行くぞ!もう一度陽人城へ向かうんだ!!」
さすがに胡軫は猛将である。
疲れた味方の兵の尻を蹴り上げるように追い立て、元来た道を引き返し始めた。
途中、逃げてくる味方の兵を吸収し、散乱する武器類も拾いながら前進を続ける。
そして先刻陣地を築こうとしていた地点までたどり着いた。
すぐさま陣地の再構築を命令する。
しかし、胡軫の意気とは裏腹に将兵たちは動かない。
極度の緊張状態のなかで強いられた夜通しの行軍による疲労が極限に達し、動こうにもすぐには動けないのだ。
さすがの胡軫もその様子を見て、この地に留まることの愚を悟った。
こんな状況で敵に襲われたら、ひとたまりもない。
「やむをえん。一旦、広成関へ戻るぞ。」
ゆるゆると退きはじめた胡軫軍を、孫堅軍は今度こそ見逃してくれなかった。
胡軫は配下の華雄という猛将にしんがりを任せたが、疲れ果てているうえに精鋭でもって鳴る孫堅軍の猛攻にいくばくも持ちこたえられない。
華雄の部隊はたちまち壊滅し、華雄も首をとられた。
しんがり部隊がいなくなったことで、胡軫軍は本格的な潰走状態となった。
こうなるといかな精鋭でも普段の力をまったく発揮できない。
次々に孫堅軍によって背中を討たれ、戦場の露と消えていく。
胡軫は何とか逃げ延びたが、彼が示した勇気は結局戦線の崩壊という最悪の事態を招く結果となってしまった。
孫堅軍はそのまま急追し、守備兵が逃げ散って無人となった広成関をやすやすと手に入れた。
董卓軍ははじめて敗北を喫し、さらに絶対に死守するつもりであった南の関門を奪われることとなった。