第51話 曹操、離脱す
董卓軍と反乱軍が初めて大規模衝突した汴水の戦いは、徐栄率いる董卓軍の勝利に終わった。
誘い込まれるように汴水を渡り、滎陽城を目指した曹操ら反乱軍は準備万端待ち構えていた徐栄の董卓軍にはね返され、汴水に押しつけられるようにして敗北した。
衛茲、鮑韜といった武将クラスが戦死したばかりか、曹操や鮑信といった一軍の大将すら手傷を負うという弁解の余地のない大敗であった。
一方、勝利をおさめた董卓軍の徐栄であったが、汴水を渡って酸棗方面へ追撃することは差し控えた。
激闘によって董卓軍の損害も馬鹿にならない規模になっていたが、それが原因というわけではない。
ひとつには曹操らの奮戦を受けとめた徐栄が酸棗反乱軍の実力に対する評価を上方修正し、兵力に劣る自軍の現状では酸棗を攻めることが難しいと見たためであった。
そして、もうひとつの理由としては南方の動きに対処するためであった。
洛陽を含む河南尹の南隣にあたる荊州南陽郡魯陽県には後将軍の袁術がいた。
袁術は袁紹や曹操と同じく董卓が政権を握ってから洛陽を逃れた脱出組である。
しかもそのなかで最も遅く脱出したため、当初その兵力はささやかなものであった。
ところが、その後袁術軍の戦力は急速に膨張していた。
その原因は黄巾の乱において朱儁配下の将として活躍し、その後張温に請われて涼州遠征軍にも参戦した孫堅であった。
まだ30代半ばの若さながら最も戦闘経験に富む武将のひとりである。
孫堅は反乱を起こした区星という人物の討伐のため荊州南部の長沙太守として送り込まれていたが、これを苦もなく平定したばかりか区星に呼応して反乱を起こしていた周辺の零陵郡や桂陽郡をも平定してしまった。
長沙郡の太守が勝手に他郡へ軍を進めるなど越権行為もはなはだしいが、乱世の辺地ではそんなことを言っては秩序を回復できない。
こうして荊州南部を平らげ、半ば軍閥化しつつあった孫堅のもとへ届いたのが霊帝没後の混乱と董卓の暴政、東方の諸長官たちの挙兵の知らせであった。
孫堅の行動は早かった。
ただちに軍を起こし、反乱軍に加わるべく北上を開始した。
他の反乱軍の諸将と違い、この孫堅軍は実戦経験が豊富な軍隊であった。
孫堅軍が加わったことで、急造の軍隊であったはずの袁術軍は一気にその戦力を増し、徐栄もこれを無視できなくなったのだった。
徐栄は汴水の勝利の勢いを駆って南下し、梁東(河南尹梁県の東)に進出してきていた孫堅軍を捕捉した。
梁県は河南尹に含まれるものの董卓軍が守りを固める「洛陽八関(洛陽の四方を守る8つの関城。)」の南にあり、防衛力の薄い地域である。
だからこそ孫堅軍の侵攻を許してしまっていたのだが、ここを孫堅軍に押さえられ続ければ洛陽南方を常時脅かされ続けることになり、危険度が高いと判断したのだ。
結果的に、徐栄軍の急襲は成功をおさめた。
袁術は梁県からみてはるか東の魯陽から動いておらず、したがって孫堅軍は孤軍であった。
側面や背面を衝かれる形となったことも災いし、戦いははじめから徐栄軍の優位に進んだ。
孫堅軍は強力な軍であるが、退路を脅かされ続ける状態ではやはり苦しい。
結局、孫堅は梁県周辺の確保を諦め、東に向けて軍を引いた。
また、徐栄も袁術軍の西進を恐れ、早々に北へと引き返した。
こうして一連の戦闘で徐栄の指揮の宜しきを得て、酸棗と南陽の両反乱軍はその出鼻をくじかれる形となった。
当然ながら戦線は膠着を余儀なくされ、董卓の狙い通りの状況が生まれていた。
……………………………………………………………
「こ、これは曹孟徳殿。よくぞご無事で・・・?」
酸棗の陣に帰り着いたばかりの集団に対し、みな一様にギョッとした様子を見せ、わずかにそれだけの言葉を発して沈黙する。
真っ昼間に幽霊でも見たような、そんな感覚なのだろう。
実際、いまや敗残兵の群れでしかない曹操とその部下たちは泥にまみれ、かろうじてボロボロになった鎧兜を身につけ、さながら幽鬼のような恰好であった。
苛烈な追撃こそ途中から受けなかったとは言え、汴水の敗戦からようやく帰り着いた曹操らの帰還はこのようであった。
陣門を入ってすぐのところで、曹操は懐かしい顔を見つけた。
陳留太守、というより酸棗に参集した諸将のなかで一番の親友である張邈その人であった。
「・・・よく無事で戻ってきてくれた。」
「孟卓(張邈の字)か。すまない。」
「何を謝るんだ・・・?」
「衛君(張邈軍の武将・衛茲のこと)をはじめ、君に借りた兵を多く死なせてしまった・・・。」
「いや・・・謝らねばならないのは私の方だ。結局私は援軍を率いて駆けつけるという約束を果たせなかった。衛君や鮑君(鮑信の弟である鮑韜のこと)の死は私のせいではないか、と胸が痛んでならんのだ。」
「ああ、やはり君は我が友だ、孟卓。君がどれほどこの酸棗で我らのために心を砕いてくれていたか、俺はよくわかっているつもりだ。なに、勝敗は兵家の常と言うじゃないか。俺たちは漢朝を私物化する董卓の非を鳴らし、義軍を起こしたのだ。一度や二度の敗戦でくじけるものではないだろう?」
「・・・そうだといいんだが・・・。実は、君たちの帰還が近いことを知り、朝から軍議が開かれているんだ。疲れているとは思うが、今から来ないか?」
「軍議、ね。」
とたんに曹操の表情が強張った。
口の端がわずかにゆがみ、それは冷笑を形作っている。
その様子を見れば、曹操がこの酸棗で開かれてきた軍議に対してどのような感情を持っているかが容易に理解できるというものだ。
「君の想いはよくわかる。だが、諸将の助力を得ねば、逆賊董卓を討つことはかなうまい。戦場で死線を乗り越えてきた今の君ならば、諸将の心を動かすこともできるのではないかと私は思うんだ。」
「わかった。君がそこまで言うなら・・・行くよ。」
「そうか!では一緒に行くとしよう!!」
張邈に連れられて臨んだ久しぶりの酸棗の軍議は、曹操にとってある種予想通りの場であった。
軍議の場と言いながら、やはり酒の香が漂う。
ちょうど昼飯時ということを差し引いても、諸将の前に食膳が据えられているのは腑に落ちないが、もはや諸将にそのような認識はないのだろう。
しかし、もはやそのようなことを気にしても仕方がない。
数少ない軍勢だけで「突出」し、汴水で手痛い敗戦を喫した曹操にはまとまった戦力がもうなかった。
元から戦局に影響を与えるだけの戦力がなかったうえに、それすら失ってしまったのだから、当面の曹操は諸将の戦力を当てにするしか他に手段がないのだ。
「曹君、よくぞご無事で。さあ、さぞお疲れであろう。まずは喉を潤し、腹を満たしてくれ。」
「お心遣いは有り難いが、それは後にしてもらおう。そんなことより、わたしが提案したいのは次なる戦略だ。」
「いやいや、君は疲れ切っているじゃないか。いますぐにも食膳を用意させよう。それを食した後は、ゆっくり休みたまえ。戦の話は明日でもよいではないか。」
「何をそんな悠長な・・・!そうやって酒食で日を過ごし、やがて兵糧を食い尽くしてしまえば、もはや戦どころではなくなる。そうなる前に、新たな戦略を立てて打って出るべきなんだ!!」
「諸将よ、この孟徳は死線をくぐり抜けてここに居る。どうか話しだけでも聞いてやってもらえないだろうか?」
見かねた張邈が助け舟を出し、ようやく曹操の話を聞こうという雰囲気が生じた。
苦虫をかみ潰したような顔をした曹操だったが、ようやく発言機会を得て弁舌を振るい始めた。
「諸君、このまま座していても董卓を討つことはかなわない。せっかく我らは三方から敵を囲みこむように布陣しているのだ、これを活かさない手はない。まず、袁本初(袁紹)には河内の軍を率いて黄河を渡って孟津に進んでもらう。我ら酸棗の諸将は成皋・滎陽・敖倉を押さえ、轘轅関・太谷関を占拠して、要所をすべて制圧する。そして袁公路(袁術)殿には南陽の軍を率いて魯陽から西の丹・析両県に移動してもらい、そこから武関に入って三輔を脅かしてもらうのだ。」
曹操はいったん言葉を切り、満座を見渡した。
そして諸将の顔に恐れが浮かんでいることを見て取った。
無理もない。
元々自軍が寄せ集めに過ぎず、敵の董卓軍の方が強いという意識がある。
そして、その傾向を助長させる敗戦を喫したのは、他ならぬ曹操であった。
「何も敵と激闘する必要はない。いずれの軍も塁を高く築き、堀を深くして戦わないようにする。そして陽動の兵をもって外にはさかんに軍を動かしているように見せかければ、こちらは義軍なのだから成功をおさめることができよう。逆に義軍を称しながら進まなければ、天下の信望を失う事になってしまう。俺は諸君のためにそのことを恥じるのだ!」
「・・・」
曹操の演説に対し、誰も口をはさむ者はいない。
それどころか、演説が終わっても誰も反応しない。
この場合、沈黙は「肯定」ではなく「否定」である。
それか、周囲の反応を確かめる「保留」だ。
自分の軍だけで進撃することが自殺行為であることは、曹操の軍事行動が証明していた。
「諸君、孟徳の策をどう思う?」
「・・・」
張邈が諸将の意思確認を行うが、それでも反応はない。
ただ、その沈黙は「保留」から「否定」へと傾きつつあるようであった。
「・・・そうか。俺の策が受け入れられないのならば仕方がない。俺はこの地を離れる。」
「何だって?どこへ行くと言うんだ!?」
「兵を集めに行くのさ、孟卓。汴水で失った兵はここ陳留で集めた兵だった。もうこれ以上この地で集めることはできないだろう。新しく集めたいと思えば、よそへ行くしかない。」
あらかじめこの事態を十分に予期していたのだろう。
曹操の諦めと切り替えは早かった。
彼は自前の戦力を取り戻すことを優先したのだ。
「わかった。ただ・・・兵が集まったら、またここへ戻ってこい。ともに戦おう。」
張邈は友に対してそう声をかけたが、それが単なる気休めの言葉でしかないことはお互いにわかっていた。
互いに再会を約す言葉が虚しく空に響いた。