第48話 反董卓連合軍の結成
(この挙兵を成功させねば・・・俺だけでなく曹家もただではすまん。だが、集まった兵はまだ1千に達するかどうか。天子を廃したという董卓の暴挙が伝われば、我も我もと兵が集まってくるかと思ったが。これでは討伐軍がやって来たら、ひとたまりもない・・・。)
都の洛陽から故郷の豫州沛国譙県に逃れ、次いで兗州陳留郡に移動して董卓に対して挙兵の準備を始めていた曹操は、内心焦りを感じていた。
故郷での募兵、しかも父の曹嵩がかつて太尉の位を1億銭を出して買ったエピソードが示すように実家の曹家は大変裕福である。
その曹家の後継ぎである自分が兵を募れば、少なくとも5千は集められると踏んでいた曹操だったが、思うに任せないのが実状であった。
(俺の名声というのもまだまだだな。)
焦りは感じつつも、曹操はどこか客観的に自分を見つめていた。
普通ならばこのような状況では心の余裕などないはずだが、どうもこんな具合に常にどこか冷静さを失わない男らしい。
有力宦官であった蹇碩の叔父に規則通りの処罰を執行し殴り殺した洛陽北部尉時代。
実際に騎兵を率いて黄巾軍の討伐に活躍した騎都尉時代。
庶民を苦しめる迷信となっていた漢の皇族の祭祀を廃絶し、おおいに天下の耳目を集めた済北国相時代。
そして、霊帝直属の将校に抜擢された西園八校尉時代。
まだ30代の半ばにさしかかったばかりであるが、やり手として曹操の名声というのは天下に知られている。
その自負があるだけに、曹操としてはもう少し兵が集まってくれるものと期待していたのだが、現実は甘くなかった。
だが、曹操という男は運の強い男であった。
孤軍となることを余儀なくされたかのような曹操であったが、間もなく北の兗州東郡(現在の河南省濮陽市および山東省聊城市にまたがる地域)で曹操を助ける動きが生じた。
東郡の太守(郡の長官)は橋瑁という人物であった。
橋瑁は人柄が良く、また真面目で威厳のある人物として知られている。
彼は皇帝の首をすげ替えた董卓を許せず、曹操と同じように董卓を討つべく挙兵することに決めた。
ただ、彼が兵権を持つ東郡の兵だけでは兵力が心もとない。
そこで橋瑁がとったのが、檄文(ともに挙兵を促す文書)をばらまき、味方を募るという方法であった。
東郡太守・橋瑁の名で檄文を作成しただけではなく巧妙にも三公(宰相)の文書を偽造してこれに添付したため、絶大な効果をもたらした。
近隣の州や郡の刺史・太守らが続々と挙兵を表明したのである。
その主な顔ぶれは次のとおりであった。
後将軍の袁術
冀州牧の韓馥
豫州刺史の孔伷
兗州刺史の劉岱
河内郡太守の王匡
渤海郡太守の袁紹
陳留郡太守の張邈
山陽郡太守の袁遺
済北国相の鮑信
広陵郡太守の張超
陳国相の許瑒
潁川郡太守の李旻
清河郡太守の崔鈞
もちろん、これに東郡太守の橋瑁が加わることは言うまでもない。
こうしてみると、橋瑁が発した檄文は彼がいる兗州(現在の河南省北部から山東省南部にまたがる地域。上記では陳留郡、東郡、山陽郡、済北国が兗州に含まれる。)を中心に北の冀州(現在の河北省の大部分。上記では渤海郡と清河郡が冀州に含まれる。)や南の豫州(現在の河南省の大部分と安徽省の一部。上記では潁川郡と陳国が豫州に含まれる。)など黄河中流域一帯を巻き込む一大反乱につながったことがわかる。
董卓のいる洛陽から見れば、その東隣の広い地域が一斉蜂起したことになるのだった。
なお、上記のうち徐州(現在の山東省の南東部と江蘇省の長江以北。)に属する広陵郡は現在の江蘇省淮安市および揚州市一帯に位置し、ここだけは他の州郡からかなり離れた場所となるため、一見孤立しているかのように見える。
ただし、広陵郡太守の張超は陳留郡太守である張邈の弟にあたり、兄と行動をともにしたに過ぎない。
と言うより、張超はむしろ配下の臧洪という人物の勧めを受けて兄に挙兵を呼びかけた立場であり、兗州の反乱軍の中心メンバーのひとりとして活動することになるのだった。
臧洪は張邈・張超兄弟を促して兗州緒軍の結集を呼びかけ、酸棗という地で盟約を交わし、盟主をこの場にいない袁紹にすることを決めた。
立ち上がった諸将のうち、もっとも家柄が良いうえに袁術より名声が高い袁紹を盟主とすることに特に異論は出なかった。
また、王匡が太守を務める河内郡は司隸(現在の河南省南部から陝西省南部にまたがる地域。首都の洛陽と旧都の長安の周辺地域。)に属し、洛陽の北に位置する。
袁紹も任地の渤海郡まで行かずに河内郡で軍を編成し、反乱軍の盟主に選ばれると車騎将軍を自称した。
さらに董卓によって後将軍に任じられた袁術は189年の暮れになってから洛陽を脱出し、南の荊州南陽郡に駐屯していた。
洛陽は北・東・南の三方をぐるりと取り囲まれた形になったのであった。
ちなみに、橋瑁の檄文は曹操には届かなかった。
なぜなら曹操は官職を捨てて逃げ、しかも袁紹のように董卓に地方長官の地位を与える配慮をされなかったため、軍を統べる公的な立場になかったからだ。
やむなく曹操はようやくかき集めたおよそ2千ほどの手勢を従えて自分から酸棗へ出向くしかなかった。
こうして反董卓連合軍は189年12月から190年1月にかけて急速に拡大した。
山地や黄河によって守られているとは言え、洛陽へ与える脅威は大変なものであった。
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反乱発生とその急拡大の知らせは、間もなく董卓のもとへも届いた。
(こりゃ・・・とても洛陽は守りきれねぇな。さて、どうしたもんか。)
いつもは豪放な董卓であるが、さすがに胴が震えた。
何しろ反乱軍の総勢は10万をはるかに超えるとの知らせであったのに対し、董卓軍はようやく3万程度の兵力しかないのである。
しかも、その大部分は董卓の指揮下に入ってまだ日が浅く、戦場でどの程度思うように使えるか不安があった。
さらに周囲を天然の防壁で守られているとは言え、中華一の大都市である洛陽を抱えているとあっては、補給面でも心もとない。
(よし・・・!都を遷そう。邪魔な廷臣や民が洛陽にいるから守りにくいんだ。全部西の長安に移せば、洛陽は守りやすくなる。それに最悪の場合、ついこないだ手に入ったばかりの洛陽など、賊どもにくれてやるさ。)
董卓は遷都の意思を固めると、早速朝議を開いた。
「長安へ都を遷す。みな、すみやかに遷れ。」
会議はまたしても董卓の一方的な宣言から始まった。
すでに前年の11月に董卓は前漢時代の最初期にしか置かれていなかった相国という官職を復活し、これに就任していた。
これは三公とは違って1人だけの宰相であり、皇帝にしてみれば自分と同程度の権力を持つ臣下となることから、蕭何と曹参という漢王朝建国の功臣が就いた後は廃止されていたのだ。
董卓はこれを復活して就任することで、名実ともに三公より上の地位を占め、独裁権力を握ったのであった。
「恐れながら、ご再考を。この洛陽は世祖(後漢の初代光武帝)が定められてから代々の都となった地。」
「まして長安は旧都とは言え、かつての宮殿は焼け落ち、都にふさわしい地とはとても言えません。」
董卓の発言にみな仰天したが、太尉の黄琬と司徒の楊彪が早速反対の言を挙げた。
なお、董卓が相国となったことで司徒であった黄琬が太尉となり、司空であった楊彪が司徒となっている。
さらに空いた司空の地位にはこれまた名望のある名士・荀爽が就いていた。
「各地の刺史や太守らが反乱したと言っても、その軍は烏合の衆でございます。都を捨てるには及びませぬ。」
「さよう、この洛陽は天然の要害に囲まれ、容易に敵を寄せつけませぬ。固く守れば破られることはないでしょう。そうして賊どもが疲れたところを討てば、簡単に破ることができましょう。」
三公たちが反対意見を述べたことに力を得て、尚書の周毖、城門校尉の伍瓊らも次々に反対意見を述べた。
しかし、三公たちの意見は不機嫌そうな表情をしながらも黙って聞いていた董卓も、周毖と伍瓊が発言するに及んでついに激怒した。
「黙れ!!わしが朝廷の政務に関わるようになったとき、お前たち二人は名士たちを登用するよう勧めてきた。だからわしはそれに従って刺史や太守にしたのだ。ところが、どうだ。ヤツらは着任すると、すぐ挙兵しやがった。これはお前らがわしを売ったということだろうが。せっかく引き立ててやったのに、何でわしを裏切りやがったんだ!!」
「とんでもない!私どもは裏切ってなどおりません!!」
「やかましい!おい誰か、こいつらをつまみ出せ!!牢に叩き込んでおけ!!」
反乱軍の首領である韓馥、劉岱、孔伷、張邈らはみな周毖や伍瓊の推挙により地方長官となった者たちである。
同じように南陽郡太守になった張咨だけは反乱に加担していないが、これだけの人間が一斉に反乱を起こしたとなると、董卓でなくても彼ら反乱軍の首領たちが最初から反乱を起こすつもりで地方に転出したと疑いたくもなろうというものだ。
となれば、周毖や伍瓊が黒幕ということになる。
董卓は怒りのあまり、周毖と伍瓊を処刑した。
驚いたのは、彼らと同様に遷都について反対意見を述べた楊彪と黄琬だ。
彼らは董卓のもとを訪れ、辞任を申し出た。
董卓もさすがに名声の高い2人を問答無用で処刑したことに気が咎めていたので、楊彪と黄琬に光禄大夫の官職を与えることにした。
いずれにしても、遷都に反対する者はいなくなった。
次は、反乱軍とどう戦うかであった。




