第42話 宮中惨劇
趙忠・張譲ら有力宦官によるクーデターは、首尾よく「敵」のボスである何進を仕留めることに成功した。
次いで彼らが行ったのは自分たちの行為の正当化であった。
何進が謀叛を企んでいると罪を鳴らし、その誅殺を命じた何皇太后の詔を捏造し、何皇太后と尚書台(詔を発布する役所)に迫って無理やり発布させた。
その詔のなかで、先日何進の上奏によって任命されたばかりの司隸校尉(洛陽を含む首都圏の軍事長官)・袁紹と河南尹(洛陽周辺の行政長官)・王允は同時に解任され、何進の与党への弾圧も始まった。
一方、何皇太后は長楽宮に事実上軟禁され、趙忠らは少帝の親政(摂政を置かず直接政治を行うこと。)への移行準備に取りかかった。
実にわかりやすい傀儡(操り人形)であり、いまや宮中の実権は趙忠らに握られたのであった。
ここまで実に無駄のない流れであり、趙忠たちの陰謀の才がかなりのものであることを示していた。
彼らにとっての山場はすでに越え、あとは皇帝の命令と称して何進に味方していた名士たちを弾圧するだけだった。
これまでの後漢王朝の政変では、勝負ありの局面である。
実際、何進の死を知った大将軍府(大将軍である何進専用の役所)は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているだけだった。
配下の武人たちのなかには宦官たちの皆殺しを声高に主張する者もいたが、その声は決してすぐに次の行動を促すほどの力を持たなかった。
趙忠や張譲らにとって予想通りであり、この時点での大将軍府はそれほど気をつかわねばならぬ存在ではなかった。
彼らにとって重要なのは宮中の完全掌握であり、はねっ返りの武人どもにはどうせ何もできまいと高をくくっていたのだ。
宮中においてその人生の大部分を生き抜いてきた彼ら宦官にとって、宮中こそこの世のすべてであり、侵すべからざる聖域である。
そのような場所へむき出しの暴力が向けられることなどあり得ないことで、彼らは考えることさえしない。
だからこそ、何進の謀殺に成功した時点で宦官たちの勝利は確定したも同然であり、残された何進の与党たちは裁きを待つだけの哀れな罪人予備軍なのであった。
だが、彼ら宦官たちにとって思わぬ事態が起きつつあった。
そのような固定観念を荒々しく打ち破ったのは、袁紹と袁術の2人であった。
正確には、お互いの競争心のなせる業であった。
相手よりも目立つ「実績」と「名声」を得ることを望み、暴走し始めたのである。
彼らはともに汝南袁氏(豫州汝南郡を本拠とする名門の袁家)の若手有望株であり、ライバル関係にあった。
現在袁一門を率いる立場にあるのは彼らの叔父である袁隗だが、ポスト袁隗はまだ明確に決まっていないのが実状だ。
最有力は袁術の兄ですでに九卿の地位にある袁基だが、この非常時に強力なリーダーシップを発揮して天下にアピールできれば、一躍次期袁家総帥の地位が見えてくるのだ。
「宦官どもを皆殺しにし、大将軍閣下の仇を討つのだ!!」
特に何進と親しかった呉匡や張璋らのこの扇動に真っ先に反応したのは袁術であった。
彼は虎賁中郎将という宮城を警護する官職にあり、宮城のすぐそばでまとまった兵力を有していたため、大将軍府内の消極性に失望した呉匡らから熱心な説得を受けたのだ。
たぎるような野心を抱えた袁術に否やはない。
すぐに呉匡や張璋とともに兵を挙げ、宮城のうち南宮へと進撃した。
しかし、さすがに変事の後とあって宮門が開いているはずもない。
門や城壁の要所を固める楼閣には中黄門などの宦官たちがこもり、必死の防戦を行っている。
急なこととて袁術たちには攻城兵器の用意などもなく、単なる歩兵の力攻めでは門や城壁の突破は難しい。
募る焦りと足並みをそろえるように、日が次第に暮れてきた。
袁術の焦燥は他の誰よりも強くなっていた。
扇動を受けたにせよ、最終的に宮城を攻める命令をくだしたのは彼である。
ここまでだいそれたことをした以上、失敗すればただではすまない。
逆にここで宦官勢力を一掃できれば、前途洋々たる将来が待っている。
「うぬっ!このままではらちが明かん。火だ、火を放て!!」
袁術の号令で、火をつけた松明が一斉に投げ入れられる。
外城の城壁に比べると宮城の城壁はそれほど高くはなく、場所によっては2,3メートルくらいしかない場所もある。
力いっぱい投げ上げれば、宮城内へ投げ込むことができた。
また、城門の門扉は木でできており、これも火をつければ燃やすことができる。
皇帝のすまいである宮城を焼くなど不敬極まりないが、殺気立った将兵たちは気づかず、あるいは気づかぬふりをし、ただ敵の守りを破ることだけをめざした。
袁術軍が放った火により南宮の九龍門は炎上し、広い南宮の東で西でいくつも火事が起こった。
こうなると、防衛体制は崩壊したも同然だ。
「大将軍閣下の仇の張譲め、出てこい!出て来なければこちらから行って八つ裂きにしてくれる!!」
袁術の声が届いたわけではないだろうが、目の敵にされている張譲はにわかに落ち着きを失っていた。
予想外の宮城への攻撃に動転し、明敏な張譲の頭脳もさすがにほとんど機能不全に陥っているのであった。
まさか皇帝に逆らい、皇帝が住む宮城へ攻め寄せて来る者がいようとは。
天地がひっくり返ったような感覚に襲われた張譲の心のなかには、言いようのない恐怖だけがひたひたと押し寄せていた。
それでも、張譲の足は動いていた。
その足を突き動かしているのは、彼の本能であると言っていい。
(とにかくこの場を逃げなければ・・・。いや、ただ逃げるだけではだめだ。陛下や皇太后さまをお連れせねば。おお、そうだ、陳留王(少帝の弟である劉協皇子のこと)殿下も連れて行こう。かつぐ者の数は多い方がいい・・・。)
押し寄せてくる袁術たちに皇帝の権威が効くのなら、はじめから宮城へ攻め寄せてくることもないはずだが、やはり長年慣れ親しんだ思考というものは変わらないらしい。
実際のところ、ほかに取るべき手はない。
単身で逃げれば張譲など、ただの枯れ果てた一介の老人に過ぎない。
野盗に見つかればたちまち身ぐるみはがされ、何進の兵に見つかれば命も失ってしまう。
死体は野犬のエサにでもされるのがオチである。
それならば、少帝たちを連れて逃げ、詔勅を乱発してでも足掻く方がいい。
張譲は何とか何皇太后や少帝、陳留王を確保すると、南宮を脱出して北宮へと向かった。
北宮で守りきれればそれでよし、守りきれなければまだ敵の手が及んでいない北門から城外へ脱出するのである。
張譲は少帝と陳留王の手を引くようにして先行し、いくらか遅れて段珪が何皇太后を守って続いた。
しかし、そこにもすでに宦官に敵対する者が迫っていた。
段珪らが閣道という高い建物の上につくられた道を通っていたところ、その下からひときわ大きな怒声が聞こえた。
見れば190センチを越えようかという大男が、手に持った戈(先に鎌のような刃のついた槍に似た武器)を振り上げながら、大声で宦官らの横暴を非難し、何皇太后を釈放するよう促しているのであった。
「盧子幹(子幹は盧植の字)だっ・・・!」
宦官たちの口から悲鳴のような声が漏れる。
彼こそ名士として天下にその名を知られているだけでなく、黄巾の乱においても軍を率いて活躍した盧植その人であった。
宦官たちに嫌われて職を解かれ、朝廷から追放同然となっていたが、このときようやく復活して尚書となっていた。
彼は何進が殺された後にその配下の兵が宮城内に侵入したことを知ると、宦官たちから少帝や何皇太后を救い出すべく駆けつけたのであった。
自分たちがさんざん虐げてきただけに、盧植の剛直な人となりはよくわかる。
段珪らは震え上がり、何皇太后を置き去りにして逃げ出した。
こうして何皇太后だけは無事に宮城内で救出された。
その頃、袁術に出し抜かれた感じの袁紹も、叔父の袁隗や何進の弟である何苗とともに宮城内へ兵を進めていた。
袁紹らが手始めに血祭りにあげたのは、樊陵と許相である。
宦官によって自分や王允の後釜に据えられる予定であった者たちだ。
彼らは張譲らの与党とみなされ、詔により誅殺すると宣言された後に殺された。
もちろんニセモノの詔であり、ここまで来るとどちらの陣営もやってることは変わらない。
さらに、袁紹の兵は大物の首をあげた。
宦官の親玉の片割れである趙忠であった。
極度の肥満で動きの鈍い彼は逃げ遅れ、あえない最期を遂げたのだった。
やがて袁術の兵たちも合流してきて、ともに北宮を攻めることになった。
だが、その前に血なまぐさい事件が起きた。
何進を慕う気持ちの強い呉匡たちにとって、何苗は何進の弟ながら何進と同調せず、むしろ宦官に迎合してきた存在でしかなかった。
呉匡らは自らが率いる兵を振り返ると、血走った目で告げた。
「大将軍閣下を殺した者とはすなわち車騎将軍(何苗のこと)だ!お前たち、閣下の仇を討とうではないか!!」
呉匡は董卓の弟で奉車都尉の董旻とともに何苗の兵を襲った。
不意を衝かれた何苗の兵はもろくも崩れ、やがて何苗も血の海に沈んだ。
哀れな何苗を袁紹らは見殺しにした。
と言うより、張譲らが逃げ込んだ北宮を攻める準備に忙しかったのだ。
自然発生的に始まった北宮を巡る戦いは、戦闘というより殺戮という言葉がふさわしかった。
内部にはまだ2,3千人がいるにはいたが、ほとんどがろくに武器を取った経験もない宦官であった。
北宮の門は苦もなく破られ、暴れこんだ袁紹ら将兵は宦官と見るや長幼の別なく殺した。
言葉通りの皆殺しである。
宦官は男性器を失ってからホルモンバランスが崩れるため、総じてヒゲが生えない。
このため、ヒゲのない者はみな宦官とみなされて殺された。
当然ヒゲが薄かったりなかったりする者も宦官と間違えられることになり、それらの中には不幸にも殺される者もあった。
無事であった者も、自ら局部をさらけ出すという屈辱に耐えて自分が宦官ではないことを証明する以外に助かる道はなかった。
張譲や段珪は何とか少帝や陳留王を連れて北の穀門から脱出に成功した。
しかし、従うものは数十人でしかなく、しかも全員が徒歩である。
天子がそのすまいを攻撃され、わずかな人数とともに徒歩で逃げるなど、まさに後漢王朝の落日を如実に示すような見るも無惨な光景であった。




