第4話 馬元義、洛陽入りする
「止まれ。」
横柄でぶっきらぼうな声が馬元義らの行列をはばんだ。
言われなくても門をふさぐように立たれては止まるしかないのだが、居丈高な門衛は自分の立場を誇りたいのか、ことさらに威圧しているように見える。
(やれやれ、おいでなすったぜ。)
昔はこのような小役人を見るたびに腹が立ったものだが、いまの馬元義にはこれを楽しむだけの余裕がある。
この手の下っ端役人というのは判を押したように至る所にいるもので、その傾向と対策もまた共通している扱いやすい手合いでもあるのだ。
「これはこれは、お役目ご苦労様にございます。」
隊長らしい男に対してうやうやしく挨拶を述べたのは、先ほど馬元義と話をしていた手下の孫夏である。
先ほどとは口の利き方が全然違い、見るからに上品な商家の手代といった風情であった。
いつ見てもその変わり身の早さは呆れるほどで、見慣れた馬元義もついつい口の端が緩んでしまう。
「ごたくはいい。後がつかえる。さっさと符(通行証)を出せ!」
隊長らしき男は不機嫌さを隠そうともせず、早く通行証を出せと言い放つ。
ところが、拝礼しつつ孫夏が通行証を差し出すと、途端にその態度が変わった。
「ふむ、鄴郡(冀州にある郡。現在の河北省邯鄲市臨漳県及び河南省安陽市安陽県)の魏大人か。ご苦労なことだな。よし、通ってよいぞ。」
あやうく爆笑しそうになるのをこらえつつ、馬元義は厚く礼を述べた。
孫夏が手渡した通行証は偽造したものであるが、魔術のタネはそこにはない。
通行証を渡す際にそっと隊長の袂へ忍び込ませた、皮袋の中身にこそあった。
小袋ながらずしりとした重みで、隊長はその中身が砂金であることにすぐ気がついたはずだ。
孫夏は馬元義が礼を述べている間に、他の門衛たちの懐にも目立たぬように銅銭の束をねじ込み、おかげで馬元義の一行への扱いは驚くほど丁重なものに変わった。
誰も馬元義の荷を点検するそぶりもない。
中身を改められれば多数の武器が見つかって面倒なことになったはずだが、馬元義らの堂々とした態度と「適切な」ワイロの使用によってその恐れは消えたのだった。
「相変わらずたいしたもんだな、お前の手並みは。」
そう言って馬元義が孫夏の労をねぎらった頃には、馬元義ら一行は上西門を通り抜け、その荷物とともにそっくり城内へと入っていた。
そのまま、屋敷に向かってゆったりと歩み出す。
「なに、あれしきのこと、大したことはありませんや。歯ごたえのねぇ奴らでしたからね。」
大活躍の孫夏は白い歯、と言いたいところだが黄ばんだ歯をいっぱいに見せて笑う。
商人時代から何回も修羅場をくぐり抜けてきたことを思えば、彼の言葉はあながち謙遜でもなさそうだ。
「まぁ、中には面倒な役人もおりますぜ。前の北部尉(洛陽の東西南北に1人ずつ置かれた警備担当責任者)なんかは禁令を犯す者に厳しくって、夜間に無断で通ろうとした蹇碩の叔父とかいう奴に決まりどおりに杖刑(棒でたたく刑罰)をくらわせ、ついには殴り殺したと言いますからね。」
「ほう、いまどき珍しく骨のある奴がいたもんだな。」
興味をそそられたのか、馬元義はいささか真剣な面持ちになった。
蹇碩というのは、宦官のなかでも高位の中常侍という職にある宦官である。
読んで字のごとく、中常侍は常に皇帝の側に侍って取り次ぎなどを行う役職であり、ひときわ皇帝の信頼の厚い者が任じられる。
当然ながら蹇碩も皇帝の信頼が厚く、けっこうな権力者である。
宦官ににらまれて朝廷から追放された者が数知れずいるなか、そのような振る舞いに及ぶというのは相当な勇者と言えた。
「その北部尉は何という奴だ?」
「たしか、豫洲沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の生まれで曹操という名でしたぜ。何でも、まだ20歳そこそこの若造だが、太尉のせがれだったもんで、いきなり尉になれたとか。」
北部尉とか太尉というのは、後漢王朝の軍事の職名である。
尉は正式には校尉や都尉などと呼ばれ、基本的に数百人規模の部下を配下に持つ武官のことだ。
校尉や都尉は辺境の守備部隊の部隊長の職名にも使われているが、首都洛陽においては城内や城門の警備部隊の隊長を指す。
エリート軍人と言ってよく、曹操は現代で言えば大卒新人の年齢でいきなり首都警察の署長クラスに抜擢されたということになる。
ちなみに宮城の警備を担当する武官はさらに位が高く、「中朗将」という官職であった。
こちらは数千人規模の「郎」と呼ばれる近衛兵を従えて宮中警備を行い、戦時には将軍の部下として従軍した。
「太尉」は宰相である三公のひとつであることは前に述べた。
平時の軍事の最高職で、現代風に言えば国防大臣に当たる。
つまり、曹操の父親の曹嵩という人物は、かつて国防大臣の要職にあったわけだ。
なお、後漢王朝において「将軍」は臨時職であり、戦時にしか置かれることがない。
これは後漢が強大な軍事力を常設することを嫌い、意図的にそうしたからだが、それについてはまた後に述べることにする。
さて、馬元義である。
孫夏の話を聞くと、何かに思い当たったのか、突然笑い出した。
不審顔をする孫夏をしり目に、馬元義の笑いはしばらく止まなかった。
「いやなに、曹騰の孫が同類を打ち殺したというのが可笑しくてな。で、その曹操とやらはどうなった?」
「頓丘県(兗州東郡にある県。現在の河南省濮陽市)とかいうところの県令にご栄転遊ばしたそうですぜ。」
「ははっ、ていよく都を追い出されたか。まあ、いくら法に照らした処刑とは言え、宦官の身内を殺しておいてよく命があったもんだ。曹騰閣下のご遺徳というやつかな。」
「曹騰って誰なんです?」
「かつて宦官の最高位である大長秋にまで登りつめた御方さ。」
「するってぇと、宦官の親玉みたいな奴じゃありやせんか!」
「まあな。ただ、曹騰は優れた人材を進んで推挙していたと聞く。親父の曹嵩の評判はあまり芳しくなかったが、どうやら孫は曹騰の名に恥じない男のようだな。」
馬元義はそう言ったが、「祖父」の曹騰と「孫」の曹操には直接の血縁関係はない。
前に宦官にも領地が与えられ、養子に相続が認められたことを述べたが、これはその典型的な例である。
夏侯嵩という男が曹騰の養子に迎えられ、曹嵩を名乗った。
その曹嵩の子が曹操であった。
なお、この曹操という男こそ、三国時代の主役のひとりで後に魏の武帝と呼ばれる英雄に他ならない。
彼の出自はこのように複雑なものだった。
有力者の家系ではあるが、家柄は良くない。
さらに言えば、父の曹嵩が得た太尉の地位も、普通に昇進してついたものではなかった。
1億銭という莫大な金を積み、買ったのだ。
曹操の父親は皇帝自ら主導する「売官」の片棒を担いでいたわけで、腐敗のはなはだしい後漢王朝を象徴するひとりであった。
後、曹操は清濁併せ呑むような器の大きさを見せ、また儒教に凝り固まった知識人だけでなく、才能ある人間ならば誰でも登用する姿勢を見せた。
彼が基礎を築いた魏王朝には多くの人材が集まり、3つに分かれた中華において最大の勢力を誇った。
次の統一王朝となる西晋王朝が生まれた土壌も、曹操の魏王朝てあった。
このように曹操は新しい時代を創る偉材であったが、その素地は複雑な彼の出自にあったと言えるだろう。
曹操という人物の器量が大きかったことも間違いないが。
もちろん、馬元義は曹操のその後の活躍など知る由もない。
今後は恐らく関わることすらないであろうと思い、屋敷に着いた頃にはすっかり頭の中から曹操のことは消え去っていた。
今の彼には重大な任務がある。
頭の中はそのことでいっぱいであり、屋敷に着くや次の行動に移った。
「唐周を呼んでくれ。」
三国志の主役のひとり、曹操の名前だけが登場の回となりました。
個人的に三国志最大の英雄は曹操だと思っているのですが、今作ではなるべく周囲の人物から彼の人となりや政策などを追いかけてみたいと考えております。