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三国志天の記  作者: 沖家室
2章 天を壊す者【董卓伝】
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第34話 董卓、留任する

 張譲(ちょうじょう)という老人の眼光には、人を恐れさせる威のようなものがある。

 現に洛陽城(らくようじょう)の奥深くにあるこの後宮において、彼の姿を認めた者は屈強な衛兵であろうと普段は肩で風を切っている有力宦官であろうとみな頭を深く垂れて道を開けていく。

 後宮に数多いる美姫たちも道を開けたり礼をすることはしないが、自分に向かって頭を垂れる張譲の姿に恐怖を感じていることでは少しも変りない。

 彼と対するときにわずかも恐怖を感じないのは、「張譲はわが父である」とまで言って全幅の信頼を置く霊帝(れいてい)くらいのものであろう。

 ちょっと触れただけで折れそうな、この白髪の一見どこにでもいそうな老人は、その風貌とは裏腹に周囲に恐怖をまき散らす存在であった。


 その張譲は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)渦巻く後宮や朝廷において、その鋭い観察眼と的確な判断によって生き残り、宦官では最高位に近い中常侍(ちゅうじょうじ)という高みへと登ってきた。

 ただ、現在彼を取り巻く状況は、今まで以上に難しい判断を強いるものであった。


董卓(とうたく)少府(しょうふ)への昇進を断ってきおった・・・。しかも、董皇太后(とうこうたいごう)の一党に根回しして。・・・難しい。わしはどうすべきか。)


 悩みのきっかけとなったのは、先ほど張譲のもとへひそかに訪れた董重(とうちょう)の使いである。

 董重は董皇太后の甥にあたるだけでなく、最もお気に入りの人物であった。

 彼に心を寄せる宦官によってもたらされたのは、董卓が少府を辞退することへの援護射撃を張譲に依頼するものだった。


 受け入れれば、董皇太后派に恩を売ることができるが、彼らと対立する何皇后(かこうごう)の機嫌は損ねることになるだろう。

 入宮のときから何皇后に協力し何皇后派とみられてきた張譲にとって、董皇太后への鞍替えとみなされかねないだけに、判断には慎重を期す必要があった。


(それにしてもいまいましい。女狐(めぎつね)どものせめぎ合い、どうにかならぬものか!)


 張譲の心中には、猛毒というべき毒々しい言葉が渦巻いていた。

 くだらない女同士の争いに巻き込まれ、生きるか死ぬかの判断を迫られていること自体が腹立たしい。


 元はと言えば愚にもつかぬ嫁姑問題である。

 だが、皇帝の実母と正妻の嫁姑問題ともなると、後宮や朝廷を巻き込んだ一大政治闘争になってしまう。

 董皇太后にしろ何皇后にしろ、どちらも権勢欲にまみれた似たタイプの人間であるだけに何かとそりが合わず、特に皇太子を何皇后が生んだ劉弁皇子にするか董皇太后が養育してきた劉協皇子にするかという問題にまで広がった結果、妥協点を見いだせぬままこじれにこじれてしまった。

 もはや、どちらかの勢力が圧殺されなければ解決はできぬであろう。


(女狐どもだけのことだけを考えておってはならぬ。近頃、何進(かしん)は名士どもを幕下に集め、力を強めておる。それに、陛下は陛下で西園軍なるものをつくらんと躍起になっておられる。まったく、頭が痛いわ。)


 何皇后の異母兄である何進は、黄巾の乱が起った184年に軍部トップの大将軍に任じられ、首都洛陽の軍権を一手に握る権限を得た。

 それだけでも脅威であるのに、何進は党錮の禁が解けて朝廷に復帰し始めた名士(支配階級である儒教の素養が深い知識人。大土地所有者たる豪族でもある。)と接近し、府(高官が設置する自分専用の役所)にどんどん登用していた。

 後漢王朝の政争において力を振るった「外戚」「宦官」「名士(党人)」のうち二者を統合してその指導者となることを目指していることは明らかであり、後宮のなかでせいぜい次の皇帝を誰にするかでジメジメとしたバトルを繰り広げる2人の女よりも厄介な存在になりつつあった。


 何進はもちろん何皇后派の最有力者であるから、近頃は董皇太后派と何皇后派のパワーバランスが崩れ始めている。

 おそらく、今回の董重の動きは董皇太后派の焦りのあらわれであろう。

 何皇后派の切り崩しと実力者である張譲の自派への取り込みという一挙両得をねらったものに違いない。


 それにしても最高権力者であるはずの霊帝の影が薄い。


 それもそのはずで、彼は嫁姑問題や自分の後継問題に少なくとも表面上は無関心を決め込んだ。

 まだ30歳をいくらか越えたばかりということもあって、皇太子の決定については先送りするばかりである。


 彼が興味を示すのは酒、女、金だけである。

 特に幼少期は貧乏皇族であったためか、金への執着がすさまじい。

 官職を売って大金を得るだけでなく、なぜか商人への興味が深く、宮殿のなかで市場を開かせては自分で商人に扮して売り買いの真似事をした。

 酒は毎日浴びるように飲み、欲望のままに女を抱いた。


 絵に描いたようなダメ天子であるが、そのように仕向けたのは張譲ら周囲の宦官であった。

 なまじ政治に意欲など示されては自分たちの旨味がないとばかりに遊興を勧め、宦官の理想とする政治に無関心で自堕落な皇帝をつくりあげたのだ。

 その皇帝の無関心さが招いたトラブルに張譲が悩まねばならぬとは、何とも皮肉な話であった。


 さて、酒と女と金以外にほとんど興味を示してこなかった霊帝ではあるが、最近新しく興味を示したものがある。

 それが軍隊であった。

 各地で続く反乱の話を聞くうちに、武芸自慢の中常侍・蹇碩(けんせき)が前々からアピールしていた軍事への関心が強まったらしい。


 ただ、その関心のあらわれ方というのが、いかにも霊帝らしい。


 急に「西園軍」と名づけた常備軍(平時から置かれる軍隊)をつくると言い出し、何進や地方長官らに命じて各地で募兵を行わせた。

 その対象は中華全土に及び、地方に少なからぬ混乱をもたらしている。

 漏れ聞こえるところによると、霊帝は蹇碩とどのように西園軍をつくり上げるかについての議論に夢中らしい。

 少なくとも数千人規模の軍隊を編成し、8人の校尉(部隊長)を置くことが構想されているという。

 もちろん、その筆頭格となるのは蹇碩である。

 彼にしてみれば、長年の望みである将軍にはなれなくても、部隊を率いる存在にはなれるのだ。

 設立準備にも力が入ろうというものであった。


 なお、蹇碩は董皇太后派の宦官であり、彼が西園軍の筆頭格になるということは一見董皇太后派の戦力が増すことにつながりそうだが、事はそう単純ではない。

 元々、大将軍府の幕僚たちの意見に従い、各地の反乱に対抗するために皇帝直属の軍を設けるべきと上奏したのは大将軍の何進であった。

 現在は霊帝と蹇碩が自分の構想として邁進しているが、きっかけをたどれば何進に行き着くのだ。

 間もなく発足する西園軍は、何進と董皇太后派との間でどちらが主導権を握るか新たな火種となりそうであった。


(ふむ・・・。このままでは、最後に笑うのは何進となりかねんな。)


 考えをめぐらせた結果、張譲の頭脳が導き出した予測は何進の最終的勝利である。

 今ですら大将軍として強い軍権を持っているのに、さらに西園軍まで握られたら手がつけられなくなる。

 一応の対抗馬である董皇太后派など、吹けば飛ぶような存在になり果ててしまうだろう。

 では、どうするか。


(陛下への不敬を許すのはあまり気は進まぬが・・・董卓を三輔に留めておくのも、やむをえまい。あれを少府にすれば、董皇太后に(くみ)する将軍は誰もいなくなってしまう。そうなれば、何進を利するだけじゃ。)


 董卓は董皇太后の有力な与党である。

 少なくとも、世間的にはそのように思われている。

 そのような人物を将軍職から追えば、董皇太后派はさらに力を弱め、何進がより強くなってしまうだけだ。

 何進のこれ以上の勢力拡大を望まぬ張譲にとって、董卓の留任は有効な手立てのように思われた。


「さて・・・また詔勅の草案を準備せねばの。羌や胡とて朕(皇帝の一人称)の赤子である・・・董卓を還らすまじとする者どもの衷心、無碍にはできぬ・・・こんなものかな。あとは、起草の得意なものに清書させよう。」


 情勢をにらんだ結果、張譲は初めて何皇后派一辺倒だった姿勢をかえた。

 霊帝へ絶大な影響力を持つ張譲のささやかな転向は、大きな意味を持つ。

 董卓の前将軍留任と三輔駐屯の継続は、あっさり霊帝の勅許を得たのだった。

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