第3話 馬元義、動き出す
さて、今話では後漢王朝の支配体制について延々と語らねばならない。
書いている筆者がうんざりするくらいわかりにくい話あり、ドロドロした人間模様もあり、と張角でなくても後漢王朝に幻滅するシロモノだ。
だが、この時代の中国社会を理解するためには避けて通れない話なので、我慢してお読みいただきたい。
なお、3行で書けば次のようになるので、そこだけ読んで次に移っていただいても結構だ。
・後漢王朝では高級役人同士のネットワークが強すぎた。
・それにビビッた皇帝が、自分の身近な人間を頼って高級役人と対決した。
・今度は皇帝の「ファミリー」が暴走し、社会が乱れ、幻滅した張角が革命を起こそうとした。
では、より詳しく知りたいと思う方以外は次の「………」でお待ち願いたい。
詳しく知りたいと思うお方は、より退屈だが大事なお話に筆者とともにお付き合いいただきたい。
それでは、漢の世の実態とは何か。
簡単にご紹介するとしよう。
後漢王朝の役人登用が推薦などによって行われることは前に述べた。
ただ、この時点で朝廷を牛耳っていたのは彼ら役人ではなく「外戚」と「宦官」であった。
「外戚」とは皇帝の母や妻の親戚、つまり皇太后や皇后の一族のことであり、「宦官」とは皇帝の身の回りの世話をする役割の人々のことである。
彼らが実力者となった背景には、中華がとんでもない「コネ社会」であったことに起因する。
推薦で選ばれるということは、それ自体がすでにコネクションによるものである。
だが、それに加えて推薦した者とされた者は自動的に師弟関係になるとみなされていた。
何しろ、推薦を受けた者が何か不祥事をしでかせば、推薦した者も一緒に罰せられる決まりだったからだ。
当然ながら両者のつながりは強くなる。
さらに血縁関係や地縁関係は当然ながら、学問上の師弟関係や過去に上司部下の関係であった者同士のつながりなど、何かとつながりを見つけてはコネとして活用されることになる。
こういった上下や縦横のつながりが複雑に絡み合って高級役人社会全体をおおう巨大なネットワークができあがり、これを「党」と呼び、構成員である高級役人たちを「党人」と呼んだ。
これは皇帝側からすれば、自分を補佐してくれるはずの役人たちがスクラムを組んで無言の圧力をかけているように見える。
理論上は自分の手足となるはずなのだが、まことに使いにくい。
で、その息苦しさから逃れるために皇帝が頼りにするものを探すとなれば、自分のファミリーしかない。
しかし、自分の兄弟などの皇族は皇帝位を争うライバルになりかねないので、頼りにするのはかえって危険だ。
その点、母親や自分の妻である皇后の親族にはその心配がない。
皇帝が失脚してしまえば、自分たちの地位もなくなってしまうのだから、運命共同体でもある。
だから、皇帝は彼ら「外戚」を頼りとした。
しかし、外戚も良い人物ばかりではない。
皇帝を利用して好き放題する者もいる。
なかには皇帝の首をすげかえ、自分に都合のいい者を帝位につける疫病神のような者すら出てきた。
こうなると、外戚は皇帝にとって党人たちよりもはるかに厄介な存在となる。
そこで、今やマイナスの存在となった外戚を倒すために皇帝が頼ったのが「宦官」であった。
宦官とは皇帝のすみかである「後宮」で身の回りの世話をするために置かれた特殊な役人だった。
なぜならば、宦官はすべて男性器をなくした者ばかりの集団だったのだ。
実は後宮には皇帝以外の成人男子が入ってはならないという決まりがあり、皇后以下の身の回りの世話をするために女官が多数存在する。
しかし、宮中では力仕事も多く、女性だけでは回しにくい。
また、皇后らからすれば、自分のライバルになる可能性がある女官はなるべく少ない方がいい。
そのような中で重宝されたのが、「男性」でなくなった宦官たちであった。
後宮で生まれ育った皇帝にとって、宦官は生まれた頃から身近な存在である。
また、男性器がないということは、子孫を残す可能性もないということだ。
血縁関係によるネットワークができる恐れが少なく、しかも一代限りなので名門のように代々力をつけて皇帝を脅かす存在とはなりにくい。
だが、一見いいことずくめに見える宦官の活用も、外戚を倒した褒美に領地を与え、それを養子をとって継がせることを認めるようになった頃から風向きがおかしくなってきた。
こうなると宦官も特権階級の仲間入りである。
そのうえに皇帝の信頼が厚いとなれば、政治の世界にも宦官の影響力が強まるばかりだ。
問題は、宦官たちが後宮の住人で、政治についてまったく知らない者がほとんどということだった。
彼らの関心の多くは富にあり、権力を握ったとなれば必然的にワイロを取る方向へ向く。
これにより、後漢王朝は「コネ社会」のうえにとんでもない「ワイロ社会」になってしまったのだ。
彼らを取り締まるべき皇帝は何ら咎めることをせず、むしろ積極的にワイロを取ったり官職を売りつける皇帝まで出る始末。
世も末とはこのことである。
もちろん、この状況をみんながみんな黙ってみていたわけではない。
立ち上がったのが、皇帝に遠ざけられていた高級役人(党人)たちの集団である「党」であった。
彼らは自分たちのネットワークを強化したり、外戚と手を結ぶなどして宦官に対抗し、自分たちの「正義」を実践しようとした。
しかし、皇帝の信頼は宦官側にあった。
宦官によって党人たちは2回にわたって弾圧され、主だった者たちは永久追放されたり、処刑されたりした。
これが「党錮の禁」である。
彼らを応援した太学の学生たちも追放処分を受け、その1人が張角だった。
後漢王朝はその内部で愚にもつかない権力闘争を繰り返し、結果的に張角という革命家を生んでしまったのだった。
まさに「身から出た錆」というやつである。
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さて、最高幹部たちによる密談を終え、今後の方向性を決定した太平道は決起に向けての準備を加速させていった。
張角のお膝元である広宗はもちろん、各地の方(支部)にもひそかに使者が送られ、一斉蜂起について通知がなされた。
Xデーは約2ヶ月後の3月5日である。
そして、計画の核となる洛陽蜂起の下準備のため、広宗からこれまたひそかに洛陽へと向けて小集団が出発した。
商人に扮した一団を率いるのは、最高幹部のひとり馬元義である。
いかつい風貌のために商人ではなく山賊の頭のような雰囲気になるかと思いきや、意外と変装が板についている。
それもそのはずで、教団に入る前の彼は本物の商人だった。
元々は商家で働き、その体格を見込まれて用心棒のような仕事もしていたが、コツコツと働いて貯めた金と広げた人脈のおかげで、独立してからはいっぱしの商人として成功した。
だが、そこからは頭打ちだった。
いくら成功しても、商人の社会的地位は低い。
銅銭を日常的に触ることから「銅臭人」などと呼ばれ、権力者から軽蔑されながらその経済力を利用されるだけの存在だ。
その権力者たちが立派な人間ばかりであればまだしも、実態はうわべだけを取り繕う鼻持ちならない連中が多い。
さらには皇帝の身近にいるというだけでふんぞり返る宦官などは、欲望がむき出しなだけに始末が悪かった。
馬元義も何度彼らの強欲に煮え湯を飲まされたかわからない。
そんな中、馬元義が出会ったのが張角だった。
口先だけでなく民衆の救済を実践している張角にはすぐ好感を持ったし、一方で太平道の組織の弱さにもすぐ気づいた。
不遇なインテリである張角には柱となる理念は備わっていたが、実際の組織運営はあまり得意ではなかったのだ。
(俺が加われば、この組織はきっと化ける。)
そう考えた馬元義は私財をすべてなげうって入信し、メキメキと頭角をあらわした。
張角に認められて教団幹部の地位につくと、馬元義は商人時代の組織を下敷きにして教団組織を作り直した。
各地に「方」と呼ばれる支部を置き、「渠帥」と呼ばれるリーダーを置いて統率させるようにしたのは、馬元義の進言によるものだ。
かつて馬元義は冀州を本拠地にして洛陽など各地に支店を置いて幅広く商売を手掛けていたが、それをそっくり教団運営に持ち込んだのだ。
張角と馬元義は後漢王朝に対する反感を持っていることで共通していた。
その2人が率いる組織が現体制への反発に向かわないはずがない。
教団組織を使って後漢王朝を倒し、自分のような出自は低いが能力ある人間が日の目をみる社会を実現することは、もはや馬元義の悲願となっていた。
「おかしら、洛陽が見えましたぜ!」
馬元義の手下が遠くを指さしつつ声をかけた。
その指先のはるか前方に、うっすらと洛陽城の城壁が見え始めている。
「馬鹿、大人と呼べ、大人と。誰かに聞かれたらどうする!」
この手下は孫夏と言い、かつて馬元義が商人だったときから重宝していた男だ。
馬元義が腹心とたのむ人物だが、能力はあるものの普段の口調の野卑さがどうにも抜けない。
富裕な商人のなりをしている馬元義に対し、山賊の頭か何かに向かって呼びかけるような物言いもないであろう。
もし城門や市中で見とがめられたら、せっかく練ってきた計画が水の泡だ。
「へい、すいやせん。」
孫夏には悪びれた様子もない。
気心が知れた馬元義のこと、本気で怒っていないとわかっているのだ。
「門衛にはせいぜい気をつけろよ!?お前の働きにかかっているのだからな。」
みるみる近づいてくる城門を眺めつつ、馬元義は苦笑しながらくぎを刺す。
ただ、その様子に悲壮感はまったくない。
むしろ部下への絶大な信頼がにじみ出ていた。
ついに物語が動き出しました。
洛陽潜入を目指す馬元義は、果たして無事に入城できるのか。
次話をご期待くださいませ。
なお、孫夏は実在の人物ですが、史実では南陽郡での活動しか記述がなく、馬元義のもとで働いていたというのは筆者による創作です。
無名の手下を馬元義と絡ませて話を作っているうちに出番が増え、急きょ太平道の関係人物から名前を借りてつけることにしたものです。