第2話 張角、決断する
「師よ。俺が洛陽へ行くことを認めてはくれませんかね?」
野太い声で兄弟の会話に割って入ったのは、いかつい顔と体格をした男だった。
いかにもインテリという言葉がピッタリくる張兄弟に対し、腕っぷしひとつでのし上がってきたような力強さがある。
ただ、主である張角がこの馬元義という男に期待しているのは、その知恵と統率力だった。
巧みなデモンストレーションを用いて出身地である冀州鄴郡で布教して数万人の信徒を得、張角の信頼をつかんで最高幹部の地位に登りつめた。
高い地位を得てますますその能力を発揮し、最近荊州や揚州での布教活動を指導していたのもこの馬元義であった。
彼こそはこの太平道という教団組織の実質的なナンバーツーであり、今ではどこか夢見がちな教祖・張角にかわって事実上組織を動かしている存在であった。
「洛陽へ行ってどうする?」
前にも述べたが、洛陽とは後漢王朝の首都である。
そこへ行って何をするつもりなのか。
洛陽には朝廷(王朝の政府のこと)があるから、そこへ弾圧をやめるよう願い出るつもりだろうか。
刺史や太守といった地方長官たちは皇帝が任命した存在であり、皇帝の鶴の一声で太平道の扱いが変わる可能性はある。
だが、続く馬元義の言葉は張角らの予想とはまったく違うものだった。
「実は・・・こんなこともあろうかと、すでに朝廷の内部にあたりをつけ、幾人かの宦官を買収しておりやす。彼らを使えば、いざとなれば宮城の門を開かせることもできようかと。都が混乱すれば、朝廷は地方へ軍を出すことなどできぬでしょう。その間に各地で蜂起を!」
「それはつまり・・・都で大暴れしようってことか!?面白い、是非やろう!!何なら、馬君の代わりに僕が行くよ。」
馬元義の話に大いに食いついたのは、室内にいたもう一人の男だ。
4人のなかでは一番若く、人懐っこい。
張角・張宝の末弟となる張梁だ。
2人の兄に比べればどこか人間が甘くできている感じだが、人の懐へ入り込むのがうまく、カリスマである張角を除いては教団内で最も人気のある人物でもある。
「いやいや、こういう仕事は俺に任せてくださいよ。もう部下もたくさん潜り込ませてありますしね。」
やんわりと馬元義が張梁の洛陽行きを拒む。
張梁は気は良いのだが、まだまだ経験が足りない。
情熱的な性格はリーダーとして悪くはないが、こういう細かい仕事には不向きと見たのだ。
「じゃあ、僕は南陽へでも行こうかな。馬君が成功するのを待って決起するよ。」
洛陽行きを断られた張梁は、今度は荊州南陽郡に行ってそこの蜂起を指導したいと言い出した。
荊州の最北部に位置する南陽は豊かな土地であり、太平道の信者も多い。
また、洛陽がある河南尹(首都がある地域は郡ではなく尹と呼ばれる)のすぐ南にあり、洛陽の情報が入りやすい土地だった。
だが、これも馬元義はうまく言いくるめる。
「恐れながら、各地の方(支部)はそれぞれの渠帥(支部長)にお任せください。それよりもこの広宗に残り、将軍としてご活躍いただくべきでしょうな。」
将軍というのは、後漢王朝で中央の正規軍を率いる高位の職である。
地方支部のリーダーよりはよほど見栄えがいい。
馬元義は張梁の心をくすぐりつつ、地方へ行かないように説得したのだった。
太平道では各地に「方」と呼ばれる支部を置き、渠帥と呼ばれるリーダーに率いさせている。
そこへ張角の弟が出向してきたら、せっかく渠帥を頂点にして命令系統を一本化した組織が混乱してしまう。
張梁のやる気はおおいに結構だが、それも組織を乱さないという前提があってのことだ。
「なるほど、将軍か。それはいいな。」
根が単純な張梁は、将軍という響きにすっかり気を良くしたようだ。
今まで通り張角のそばにいるだけだが、何やら出世したような気になったらしい。
「では、梁よ。余から正式に将軍を申しつけよう。これからは人公将軍を名乗るがいい。」
2人のやり取りを聞いていた張角が、可愛い弟のためにと称号を用意した。
教団のリーダーである大賢良師張角が認めたのだから、張梁が将軍となることはこれで決まりだった。
ただ、人公将軍とは耳慣れない称号ではあった。
「人公将軍?」
「うむ。余が天公将軍、宝が地公将軍、梁が人公将軍だ。」
どうやら張角は皇帝や王ではなく、将軍を名乗る方向で行くらしい。
張三兄弟が将軍となり、軍事組織としての太平道を率いていくことを宣言したようなものだった。
「なるほど、天・地・人ですか。そりゃあいい。それなら、俺にもそのうち何か位を授けてくださいよ!」
張角の言葉を聞いて、馬元義が反応した。
本来であれば最高幹部である馬元義にも何か将軍位が用意されてしかるべきだが、馬元義はあえてそのことには触れない。
張角の言葉から、さしあたって将軍位は張一族だけのものにするとの意図をくみ取ったためだ。
それよりも、馬元義は手柄次第で張角一族以外にも高位が約束されるように持っていこうと瞬時にしたたかな計算をしていたのだった。
こういった頭の回転の早さが、馬元義の強みである。
「よかろう。洛陽でのこと、成功したあかつきにはお前にも将軍位を約束しよう。」
「ははっ。ありがたき幸せ。」
張角が洛陽での作戦の成功を条件に馬元義の将軍位を約束したことで、馬元義の計画は承認されたことになる。
馬元義は名を捨てて実を取ったのだ。
後は自分が思う策を成功させるだけだった。
こうして、3人がすでに決起が成ったかのように浮かれているなかで、1人だけ浮かない表情の者がいた。
たった今、地公将軍に「任命」されたばかりの張宝だ。
彼は兄・張角が実践してきた教団の事業に心から賛同し、協力を惜しまなかった。
後漢王朝に見捨てられたかのような弱者に手を差し伸べ、命をつなぐ手助けをしてきた兄の姿は張宝にとって何よりの誇りだった。
ところが、このところ兄は変わってしまった。
相変わらず慈善事業には力を尽くしてはいるが、一方で教団の軍事組織化にも励んでいる。
むしろ、慈善事業は兵を集めるためのエサのようにすら感じられる。
目の前にいる馬元義という男が教団内で力を持つようになってから、すべてが変わり始めたようだった。
(将軍の位などいらない。私は大賢良師の弟でさえあれば、それでいいんだ・・・。)
だが、張宝の心の声は、ただその心中でこだまするだけだった。
ここまで事態が進んでしまっては、張宝1人の力ではどうにもならない。
彼は兄に将軍位授与について礼を述べ、やがて他の2人とともに退出していった。
(宝め、不服そうであったな。)
室内に誰もいなくなった後、張角は1人物思いにふけっていた。
誰よりも長い付き合いである実の弟のこと、張宝が現状に不満を感じていることには気づいていたのだ。
(あやつは、わかっておらん。貧しい民衆を救いたければ、今の漢の世は終わらせなければならぬ。儒の教えを世に広め、天下がよく治まるようになったと王侯貴族は言う。だが、それは違う。今の支配層はうわべだけを大事にし、内部は腐りきっている。漢の天子が奉じる天をくつがえし、真に正しい天のもと新しい世を切り開かねばならぬのだ。)
張角の心中には、張宝にすらわからない今の世への憤りが渦巻いていた。
元々、張角の家は鉅鹿郡の豪族であった。
郡の中では名家である張家には政府の高官への道も開けており、実際張角は鉅鹿郡の推薦を受けて高級役人への第一歩を踏み出していた。
そう、張角は元々後漢王朝の支配層側にいた人物だったのだ。
今の姿からは想像しにくいことだが、張角は儒学の素養の高い者として推薦され、洛陽へ上ることになった。
「太学」と呼ばれる高級役人養成教育機関に入り、役人に登用される時を待つ身となったのだ。
そのまま順調に役人の世界におれば、彼がわずか十数年の間に儒教を捨てて道教の教団を創設し、後漢王朝を敵視するには至らなかったに違いない。
ところが、「党錮の禁」と呼ばれる政変が起こって、張角の境遇は一変する。
これに巻き込まれた張角は一生官職につけない身に落とされ、地元へ戻ってひっそりと暮らすことを余儀なくされたのだ。
それは当時まだ成人前であった弟の張宝や張梁が味わっていないものであり、張角の想いを弟2人が完全には理解できないのは、無理からぬことであった。
ただ、不幸は必ずしも悪いことばかり起こるのではない。
どん底まで落ちた張角だが、そのまま政府高官を歴任していては気づかなかった社会の下層について知る機会を得た。
漢の皇帝や高官たちはうわべの礼節や儀式を重んじ、貧民たちへの救済に何ら有効な手を打とうとしない。
皇帝は天災があるたびに大赦(罪人の罪を特別に許すこと)を行ったり、三公(宰相のこと。司徒・太尉・司空の総称)に責任をなすりつけてクビにするだけだ。
一部の刺史や太守らが善政を行って救済することはあっても、中央政府が抜本的な政策の見直しを行うことはほとんどない。
皇帝や皇帝を支えるべき臣下たちが政争を繰り広げているからという事情はあるが、むしろ政争の道具として災害が利用されているようにすら見える。
失意の張角は漢の世の実態を見て幻滅し、太平道の活動を始めた。
彼の中では後漢王朝を敵視することと、生活に苦しむ民衆を助けることは同じ想いから発生していた。
そして、彼の考えが行き着く先が、後漢王朝に対する革命であった。
(漢の世を終わらせる。苦しむ民を救うために。)
後漢への反乱を起こすことは、それに巻き込む民衆の生活を完全に破壊することにもつながる。
一見すると矛盾しているのだが、張角はそれを必要な犠牲と割り切っていた。
さて、今話は残りの2人馬元義と張梁が登場となりました。
史実では彼らも人となりが描かれていないため、筆者の妄想の餌食とさせていただきました。
夢見がちな長男、堅実な次男に対し、三男張梁は人懐っこく甘えん坊な感じ。
どこか危なっかしいのに周囲の人気は絶大というキャラ設定に。
一方、唯一の「他人」である馬元義は、毛色の違う切れ者。
張角を理論的指導者として描きたかったので、彼は実務に長けた人物としました。
事実上、太平道を動かしているのは馬元義という感じです。
参考にしたのは、太平天国における天王・洪秀全と東王・楊秀清の関係です。