第188話 襄樊攻防戦(前編)
曹操が漢中を放棄することに決めた理由のもうひとつ、それは荊州方面の情勢が気にかかったからだった。
劉備から荊州方面の差配を任されている関羽が、曹操が漢中へ親征した隙をついて北上を開始したのだ。
関羽が差し当って目標としたのは荊州における曹操領の残部の征服であり、それが果たされた暁にはさらに進んで献帝がいる許や曹操の本拠である鄴が攻められる可能性があった。
このとき、魏軍は西の三輔・涼州・漢中に曹操本軍ら、東の揚州方面に夏侯惇や曹仁の率いる対孫権のための軍が展開し、荊州方面は手薄である。
襄陽を守る呂常、樊城を守る李緒らが守兵でもってそれぞれの城を固めているに過ぎず、大規模な野戦軍はないに等しかった。
こうなると、曹操としてはいつまでも漢中に留まっていることなどできない。
漢中も重要な地ではあるが、荊州や中原の重要性とは比べ物にならないからだ。
曹操の本軍なしに防衛すら困難な漢中はいっそ捨てて、関羽の侵攻に注力することにしたのである。
また、漢中を失えば劉備に三輔や涼州攻略の前線基地を与えることになるのだが、それについても曹操は許容できる損失と割り切った。
曹操軍は漢中への兵員や物資の輸送に苦しんだが、今度は逆に劉備軍が涼州や三輔への進軍に苦しむことになる。
漢中を失っても、涼州や三輔の安全が極端に脅かされることはないとの判断が曹操にはあった。
まだ漢中にある時、曹操は手薄な荊州の防衛を強化するため、とりあえず揚州の居巣で孫権軍と対峙していた曹仁に急使を飛ばし、急きょ荊州へ差し向けて対応させていた。
曹仁は曹操が長く副将として頼みとした武将であり、粘り強い防衛には定評があった。
彼ならばどんなに劣勢に陥っても、持ちこたえてくれるだろうという安心感がある。
曹仁は曹操の急使を迎えると、軽歩兵や軽騎兵からなる部隊のみを率い、襄陽に向かった。
また、豫州汝南郡の太守を務めていた満寵をも曹仁の参謀として荊州へ送り込んだ。
満寵は曹操が政治・軍事両面で有能と高く評価する逸材であり、孫権軍に備えて主に後方支援を託していた。
後方支援と言えばあまり重要な役割に聞こえないかもしれないが、兵員や軍需物資を安定して補給するためにはその手配だけでなく、支配地に暴動が起きないよう目配りをする必要がある。
その点、満寵はその辺の手腕に優れており、決して順調とは言い難い揚州方面の魏軍を下支えするキーマンとして曹操の信頼は抜群だった。
曹操は奮威将軍に昇進していた満寵にあえて汝南太守を兼務させ、この重要地を任せたのだった。
そうした2人を送り込もうと考えただけ、曹操の危機感は強かったが、それはあながち間違いではなかった。
曹仁らが向かっていた襄陽は、彼らが入る前に関羽の軍によって包囲されていたのである。
関羽はその指揮下の野戦軍3万をこぞって遠征を開始し、迅速に襄陽に攻め込んだ。
迎撃する野戦戦力を持たない魏軍はこれを阻止できず、漢水の南岸はたちまち関羽軍の支配下に落ちた。
襄陽の周囲は関羽軍一色となったが、襄陽の守り自体は揺るがなかった。
関羽はやむなく持久戦に切り替え、襄陽を包囲する構えを見せた。
曹仁や満寵が到着したのは、まさにこの状態に陥った後のことだった。
やむなく彼らは襄陽城の対岸にある樊城に入り、関羽軍とにらみ合う体制をとった。
ただ、数では関羽軍が勝っているが、曹仁らは特に状況を悲観しなかった。
襄陽城は十分な強固さを見せており、樊城も確保できたことで漢水の線を維持することには成功した。
後は曹操からの援軍が来るまで持ちこたえればよい。
しかし、218年10月、曹仁や満寵らの作戦を破綻させかねない重大事が起こった。
宛城の守将のひとり侯音が衛開という人物とともに3千の兵を率いて反乱を起こし、反魏・親関羽を掲げて城を占拠したのだ。
侯音らは徭役の負担が重すぎると不満を持つ民衆の救済を訴え、付近の山賊を扇動するとともに近隣の官吏や民衆らを虜にし、それらから反乱に加わる者を募った。
宛城は荊州の最北部に当たる南陽郡の中心都市であり、襄陽・樊城への物資供給において重要な後方基地であった。
このため、宛の民は輸送のために徴発されたばかりか、関羽軍の侵攻が予想されるため城の防衛強化のためにも動員され、生業を脅かされるほどの負担を強いられた。
魏軍にとってはやむを得ない動員であったのだが、民衆からしてみればたまったものではない。
急な負担増は宛城の危機をあらわしているのではないかと動揺が走った。
武装蜂起につながったのは、この事情が影響していた。
ただ、それだけでなく、その陰には関羽側の手が伸びていた。
侯音らの反乱はひとまず成功し、南陽太守の東里袞はかなわずと見て城を捨てて逃げたが、逃げきれずに捕虜となった。
幸い、東里袞は人望のある人物だったので、民衆の支持を気にする侯音は彼を解放した。
東里袞はいったん東に逃れて揚州へ向かい、親友である揚州刺史の温恢を頼って兵を借り、宛城を包囲する姿勢を示したが、十分な兵力がなかったために攻撃に移ることができなかった。
この事態は関羽との持久戦を構想する曹仁らにとって、これは致命的な出来事である。
単に後方が混乱したにとどまらず、最重要の補給基地を失ったのだ。
それに宛城が南陽郡の中心であるだけに、反乱が他の都市に伝染する可能性も大いにあったのだった。
「宛を捨て置いては、ここもたちまち危うくなる。わしが征かずばなるまい。満将軍には、宛を鎮めるまで何とかこの城を守り抜いてもらいたい。」
宛の民衆と侯音の反乱の報を受けた曹仁の反応は早かった。
許や鄴にはそれなりの兵力がいるが、それを動かして宛城の反乱を鎮圧することはかなりリスキーだ。
中原の兵力がますます手薄になり、さらなる反乱を魏王国の中枢で招きかねない。
ここは将才に優れた曹仁が南陽郡の動揺を鎮めつつ迅速に北上し、一気に鎮圧する方がリスクが少ないと判断したのだった。
曹仁のもとには南陽太守の東里袞が兵を集めて宛城の奪回に乗り出したことまでは伝わっていなかったが、元々の侯音の手兵がそれほど多くない以上、時間をかけなければ鎮圧できる可能性が高いという判断もあった。
ただ、それもノーリスクのはずがない。
漢水を前面に当てているとは言え、関羽軍を前にした状態で兵を引き抜き、後方の反乱鎮圧に向かうのだ。
樊城を確実に守りとおすことができる、と曹仁が信頼を置く者がいて初めて成り立つ作戦であった。
曹仁はその人物として満寵が適任だとみており、だからこそ彼に後事を託したのだ。
結果的に、曹仁の宛城奪還はうまくいった。
馬超の旧臣で立義将軍の龐徳とともに軽歩兵や軽騎兵からなる機動力に優れた部隊を率いた曹仁が宛城に進むと、東里袞らは勢いづいて城の攻撃に移った。
曹仁は彼らの軍と合流して宛城の攻撃を強め、明けて219年正月早々の猛攻で宛城を攻め落とすことに成功した。
反乱の首謀者である侯音と衛開をとらえ、これを処刑して反乱は無事鎮圧された。
だが、曹仁が抜けた襄陽・樊城方面の戦力低下は著しく、関羽はここぞとばかりに漢水の渡河を企てた。
漢水を渡ることができれば、樊城の包囲も可能になるのだ。
そうはさせじ、と満寵はそれを阻止するべく軍を展開して迎え撃つ。
明らかな劣勢だったが、満寵は何とか漢水の戦線を守り抜いた。
これには関羽軍の水軍戦力がそれほど強力なものではないという事情も関係していた。
満寵の働きは曹仁の見込み通りだった。
やがて、宛城の再征服に成功した曹仁が帰還し、再び樊城に入った。
ただ、関羽軍との戦力差は埋まるどころかむしろ広がり、苦しい状況に変わりはなかった。