第183話 曹丕、出し抜く
曹丕陣営の作戦は呉質が提案した策に決まった。
ただ、この密談の存在を感づいた者がいた。
弘農郡の名門楊氏の出で、楊脩という人物だった。
弘農楊氏は天下に知られた名家である。
楊脩の父の楊彪に至るまで4代に渡って三公の地位に就き、「累世太尉」とか「四世太尉」と呼ばれ、袁紹・袁術らの汝南袁氏と同じような名声を得ていた。
実際のところ、両家の間には縁戚関係もあり、ほぼ同格の存在として広く認識されていた。
楊彪の妻は袁逢の娘であり、袁逢の子である袁術とは義理の兄弟に当たった。
また、弘農楊氏は清廉で知られた一族であった。
楊脩の曽祖父で実質的な家祖に当たる楊震は、「四知」の故事で有名だ。
ある夜、楊震の家をある人物が訪れた。
その人物は楊震のおかげで出世できたとして多量の黄金を持参し、「誰も知らないことですから」などと言いながらお礼として楊震に捧げようとしたのである。
もちろん、それには今後も便宜を図ってもらいたいという意味が込められているのは言うまでもない。
これに対し、楊震は「天知る、地知る、我知る、汝知る」と答え、きっぱりと断った。
これが「四知」であり、自分たちだけでなく天地の神様も知っている、誰も知らないことだからなどと言って悪事を働いていいものではないという意味だ。
清廉さをうたわれた楊震はその後三公を歴任し、楊氏の家運を開いた。
そのような家系に生まれただけあって、楊脩もまた謙虚で学識豊かな人物である。
ただ、楊脩は父祖たちが貫いた局外中立の姿勢までは受け継がなかったようで、曹丕とも一定の親交を持ったものの、より曹植と親交を深めた。
「答教」という政治に関する想定問答集をつくり、曹植がいつ曹操からの諮問を受けても適切な回答ができるように図るなど、楊脩は曹植派の人物とみなされるようになった。
その楊脩が呉質が朝歌県長の職をサボり、勝手に任地を離れて曹丕と密談しているという不正を問題視し、曹操に報告したのである。
彼の弾劾はかなり具体的で、呉質が行李の中に入って曹丕のもとへ忍び込んだことも突き止めていた。
ただ、曹操は最初この弾劾を取り合わなかった。
呉質は何か失政を犯したわけではなく、職務の怠慢に過ぎない。
「唯才主義」を掲げ、後漢王朝による過剰な「徳」の重視と決別して才能の活用を打ち出している曹操にとって、それだけで処罰するというのは主義に反するのである。
また、楊脩が曹植派とみなされていることから、軽挙妄動を避けたという側面もあった。
楊脩は儒者としての見識から呉質の行動を問題視し弾劾したのだが、曹植に近すぎるその立場が曹植派として曹丕派の呉質の失脚を図っているようにしか見せなかったのだ。
しかし、曹丕は楊脩の弾劾を知ると、不安になった。
側近の呉質が処罰されて周囲からいなくなってしまうことや、それを契機として自分にまで処罰が波及することを恐れたのだ。
曹丕はひそかに呉質を再び呼び出し、前後策を相談した。
「心配には及びませぬ。」
呉質は曹丕の心配を一掃するように、満面の笑みをたたえながら力強く言い切った。
曹丕は彼の策を聞き、やや不安を残しながらもその実行に同意した。
「殿下。呉季重は相変わらず朝歌県長の職務を放り出し、子桓さまと密談を重ねております。これを看過しては他の者もこれに倣い、国の根幹に関わりましょう。」
呉質が変わらず曹丕のもとを訪れているとの情報をキャッチした楊脩は、再び曹操に訴え出た。
一度や二度ならともかく、呉質がしょっちゅう任地を離れて曹丕と密談しているとなると、さすがに曹操も無視できない。
朝歌県長の職務を果たさず、県政に混乱をもたらしているのであれば、呉質が才ある人物とは言えないのである。
「よし、子桓のもとへ運びこまれる行李を点検せよ。呉質が潜んでいるかどうか、それではっきりするであろう。もし呉質が任地を勝手に離れているのであれば、処罰に値しよう。」
曹操の密命を受け、さっそく官吏が曹丕のもとへと派遣された。
「止まれ!魏王殿下の命により、その荷、改めさせてもらう。」
魏王の命令となれば、たとえその長子である曹丕と言えど逆らうことはできない。
荷の輸送責任者は何か言いたげな不満そうな表情をチラリと見せたが、口に出すことはなかった。
行列の進行は止められ、行李に限らず馬車の中なども改められることになった。
「なっ・・・これは・・・。」
勢いよく行李を開けた官吏は、絶句した。
楊脩の言によれば、行李の中に呉質が潜んでいるはずである。
ところが、そこにあったのは上質の絹であった。
曹丕への贈り物であろうか。
何にせよ、行李の中に絹が入っているのは不思議でも何でもない。
(これは・・・動きが読まれていたということか。)
官吏はやられた、という気持ちになった。
心なしか、荷の責任者が勝ち誇ったような表情をしている。
呉質が曹丕に進言した対応策はまさにこれで、楊脩の弾劾を逆手にとってあえて行李の中を点検させ、潔白を証明させたのである。
この結果を聞いた曹操は、楊脩への不信感を持つにいたった。
そして、楊脩への不信感は、その主と見られている曹植への不信感につながるのだった。
こうして楊脩の妨害を乗り切った曹丕は、先に呉質から得たもうひとつの策を実行する機会を得た。
父の曹操が漢中へ親征することが正式に決まり、留守となった曹丕が曹植らとともに見送ることになったのだ。
見送りに際し、曹植はいつものように見事な詩をつくり、曹操に捧げた。
詩人として名高い曹植の面目躍如といったところであり、詩を中心とする文学を儒学にかわる存在として新しい時代を切り開こうとする曹操は、満足そうな顔を見せた。
一方、曹丕はと言えば、ただ涙に暮れるだけであった。
これこそが呉質の入れ知恵であり、父との別れを悲しむ孝行息子を曹丕に演じさせたのである。
実際の曹丕にはそこまで悲しみの感情はなく、つまりは「ウソ泣き」であった。
これには曹操はともかく、周囲の人々に大きな感動を与えた。
繰り返すが、後漢王朝では儒教が国教のようになっており、「礼(社会のあるべき姿、秩序)」「忠(主君へ真心を持って仕えること)」とともに「孝(父母や祖先を大切にすること)」が重視される。
曹操政権にはその儒学を修めた儒者が多く参画しており、呉質が考えた策はそれらの名士たちの支持を得るための行動を取って見せることであった。
天才的な詩才を持つ曹植と同じ土俵で戦うのでなく、周囲の支持を固めて外堀を埋め、曹操が曹丕を後継者にせざるを得ない状況をつくろうというのである。
結果的に、この策はうまくいった。
儒の精神を体現する名士たちの曹丕への支持は決定的となったのだ。
その後、曹植が自滅というほかない愚行を犯したことで、その傾向は動かし難いものとなった。
酒好きの曹植は、あろうことか宮廷内の馳道という天子の専用道路を酔いに任せて勝手に馬車で通り、司馬門を無許可で開けさせて金馬門まで進んだのだ。
日頃から細かいことを気にしない性格の曹植であるが、これはいくらなんでも酷すぎた。
天子しか使えないものを使うことは、天子の存在を何とも思っていないと見られても仕方がない。
少しずつ漢王朝の権威と権力を奪おうとしている曹操にとって、一番起こってほしくないスキャンダルであった。
賢いと思っていた曹植の政治的見識を疑わせるには十分な行動であり、曹操が曹植に抱いていた愛情を一気に失わせるに足る行動であった。
それでも曹丕と曹植のどちらを取るか迷った曹操は、賈詡への諮問でその気持ちを固めるにいたった。
最初、賈詡は何の発言もしなかった。
曹操に発言を促され、ようやく次のように語ったのだ。
「臣は今、袁本初と劉景升のことを考えておりました。」
袁紹と劉表はすでに故人であるが、曹操にとっては覇を競い合ったライバルであった。
彼らはいずれも長子以外の子を後継者とし、結局その死後に家を亡ぼすことになった。
賈詡は長子で群臣たちからの支持も厚い曹丕を捨て、あえて曹植を後継者に選べば、曹操亡き後に曹家は滅亡すると暗示したのである。
それを聞いた曹操は嘆息し、間もなく曹丕を魏王世子(曹操の後継者)にすることが公表された。
曹丕は呉質の策により、念願の後継者の地位を手に入れたのだった。
ただ、世子となったことを聞かされたときの曹丕の振る舞いは、なぜ曹操が逡巡したのかを明白に浮きだたせた。
曹丕は傍にいた辛毗の肩に手をまわして抱きつき、喜びをあらわにした。
そのことを父から聞いた辛毗の娘の辛憲英は、ため息をついて言った。
「曹子桓さまは魏を継ぐ立場となられた。重い責任を感じ、わが身や国を案じるべき立場であるのに、それを喜ぶとはどういうことなのでしょう。果たして、魏朝はかの御方を君主として栄えることができるのでしょうか・・・。」
曹操が危惧したのは、曹丕の詩才が曹植に劣ることではなく、まるで後漢社会のような上辺だけを取り繕えば良しとする、曹丕の人格にあったのだろう。