第181話 諸葛亮、焦る
家や山野を焼き払う火の粉はここまで飛んで来ていないが、少年が乗る馬車にまで焦げ臭いにおいが漂ってきているような気がした。
「兄上、兄上!」
そう連呼しながら泣きじゃくっていた弟の均は、泣きつかれて眠ってしまった。
弟の頭の軽い重みを太もものうえに感じながら、幼い諸葛亮はこみ上げる想いを押し殺して端座していた。
(曹孟徳、この名だけは生涯忘れぬ!)
まだ12歳でしかない少年は、愛した故郷を追われる悲しみとそれを引き起こした人物への怒りをたぎらせていた。
少年の一家は危うく命だけは助かったが、逃げ遅れた人々は多数が虐殺されているという。
「均よ、江水を越えるまでが辛抱だ。」
眠っている弟の頭を撫でながら、幾度もそうつぶやいた。
それは奇しくも、自分自身に言い聞かせるようであった。
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(また、いつもの夢か。)
寝台から身を起こした諸葛亮は、ぼんやりとした頭でそう思った。
念のために視線を走らせた自分の手足は、あのころとは全く違う大人の男のそれであった。
ただ、夢で何度も味わった故郷を奪われ、近しい人々を奪われた怒りは、諸葛亮の心中から決して消え去ることはなかった。
いや、むしろ強くなったくらいだ。
193年と194年の2年に渡った曹操による徐州侵攻は、彼の無統制に近い軍の暴挙によって多くの人的・物的損失を引き起こしただけでなく、その後長く兗州や徐州を中心に名士や住民の不信を残した。
それらの地域は最終的に曹操の支配に服したが、それを良しとせず南方に逃れた者も多かった。
現在孫権を支える北方から流入した名士や流民たちもそうだし、諸葛亮が属する荊州名士のコミュニティにも少なからずそうした者がいた。
このように曹操がその愚行で失ったものは多かったが、後世の評価を加味すると、最も大きな損失はこの年35歳を迎えた諸葛亮という若者を強固なアンチ曹操にしたことだったかもしれない。
(ついに魏王の位までむしり取ったと聞く。あの男に義というものはない。あるのは天を侵そうとする大それた野心だけだ。)
216年5月、曹操はついに魏王の位に昇った。
またひとつ皇帝への階段を昇ったとも言える。
3年前に魏公に封じられ、10郡を封地とする異例の待遇は受けていた。
事実上、漢王朝から半独立の国を打ち立てたわけだが、その身分は「公爵」というそれなりにありふれた臣下の位でしかなかった。
ところが、王ともなると本来は漢の皇族しか与えられない身分であり、異例という言葉が陳腐に聞こえるほどありうべからざる事態である。
皇族の端くれ(自称ではあるが)を主君に戴く劉備勢力にとって、これは唾棄すべき痛恨事であった。
(今、我が軍は巴や漢中をめぐって魏軍と争っている。天子をも凌駕しようとする逆賊曹操を討ち、漢の社稷を寧んじねばならない。孫仲謀と合力して揚州・荊州で魏軍を攻撃しつつ、益州の兵でもってまず漢中を奪うのだ。そうすれば、まだ魏の支配が固まっていない涼州を奪うことができようし、長安など三輔をうかがうことも可能となる・・・。)
諸葛亮の脳裏には、彼が属する劉備軍がどのような戦略を取るべきかの青写真がくっきりと描かれていた。
孫権との仲は以前ほど良好とは言い難いが、いまだに共同戦線を張り続ける形は変わっていない。
揚州・荊州・益州の3方面から魏軍を圧迫し、戦線を北へ北へと押し上げるのである。
曹操が建てた「魏王朝」に軒並み高官が移動し、空位ばかりになった漢王朝が有名無実の存在となった以上、漢の復興は曹操の最大の対抗勢力である劉備・孫権連合による軍事行動にかかっているのだ。
(だが・・・それに果たすわたしの役割の、いかに小さいことか・・・!)
劉備と孫権の両者がとろうとしている戦略は、おおむね諸葛亮が思い描くそれと一致していると言っていい。
しかし、劉備軍の主役は、劉備や関羽、あるいは益州名士の出世株である法正であって、諸葛亮ではないのだった。
諸葛亮の現在の官職は「署左将軍府事」であった。
これは劉備政権独自の職制で、具体的には左将軍である劉備の下で徴兵や徴発、軍需物資の輸送といった業務を統括し、円滑に遂行する責任者である。
重要な役割ではあるが、益州の州治となった成都に詰めて裏方としての働きを期待されているに過ぎない。
益州兵を率いての軍事行動は劉備自らが行っており、その先鋒は腹心の張飛が受け持ち、諸葛亮が熱望する参謀には法正が就いていた。
(確かに、法孝直どのは優れた人物だ。彼の知略は群を抜いているし、我が君の信頼も厚い。戦場における機微については、わたしよりも深く通じているかもしれぬ。また、左将軍府の留守を安心して任せられるのは君しかいないと仰る我が君の言葉にも偽りはないだろう。だが、わたしの本懐は外にあってはかつての楽毅のように軍を預かって戦を勝利に導き、内にあってはかつての管仲のように主君を助けて政を主宰することだ。現状はいずれでもなく、主君自ら軍を率いて外にあり、わたしは内にあってただ留守を守るだけに過ぎない。)
信頼はされている。
自分の能力に見合った重要な仕事を与えられてもいる。
しかし、自分の希望はもっと別の高いところにあるし、今以上の貢献ができると自負する諸葛亮なのであった。
彼はかつて戦国期に燕の昭王から全軍を預かって斉を滅亡寸前に追い込んだ楽毅や春秋時代に斉の桓公を補佐して政治を行い、桓公を覇者たらしめた管仲のような存在になりたいのだ。
(冷遇とは言わないまでも、わたしたち荊州の人士のかわりに法孝直どのらを重用しはじめたのは、別の思惑があるのかもしれない。)
疑念というほどのものでもないが、最近諸葛亮の心中を占めるのはその想いである。
劉備が荊州で勢力を確立し、次いで益州を攻め取ることができたのは、諸葛亮が属する荊州名士層の協力が大きい。
彼らは曹操の支配を嫌って劉備につき、劉備を盛り立てることで反曹操を貫くことができた。
劉備はそれによってわずか数千を率いる傭兵隊長に過ぎないところから数万の兵を動員できる勢力へと返り咲いた。
両者の利害の一致は益州攻略の原動力のひとつとなり、現在の劉備は最盛期というべき勢いに乗っている。
ただ、関羽や張飛といった古くからの家臣に加え、荊州名士という存在を抱え込んだことは、劉備にとって新たな悩みを生じたらしい。
劉備への従属性が強い武人たちと違い、名士という存在は君主なくとも成立できる強みがある。
彼らはお互いを評価し合うという行為によって広く横につながりを持ち、劉備の介在を必要としないコミュニティを持っているのだ。
荊州名士の存在が劉備政権の中で強まれば強まるほど、政権内のパワーバランスはいびつなものとなりかねない。
劉備の懸念点はそこにあった。
その解決策として劉備が見出したのが、益州名士の登用であった。
もちろん、益州支配を円滑に行うためという側面はあるが、政権内に新たな層を加えることで相対的に荊州名士の影響力を弱めようとする意図が劉備にはあるようだった。
益州の行政面では益州名士が多く登用され、関羽や張飛らの影響が色濃く残る軍事面と合わせて荊州名士の存在感はやや薄れた。
(3つの勢力を融和させ、時に競い合わせるという我が君のやり方は間違ってはいない。だがそれは、我が君という存在あってのことだ。われらに比べて魏の力はあまりに強大であり、これからさらに強まっていくだろう。一刻も早くわたしが管仲・楽毅のような存在となって支えなければなるまい。)
左将軍府へ出仕すべく衣冠を整えながら、諸葛亮は今後についてそう思いをはせていた。
劉備が押さえるのは荊州の一部と益州の中心部に過ぎない。
曹操が支配する魏王国と比べると抱える領土の広さも、人口の多さも圧倒的に劣っている。
当然ながら、動員できる兵力も曹操の方が何倍も多い。
そういう不利な条件の中で、劉備軍が対抗していくためには行政・軍事における無駄を極力省き、効率的な国家運営を行っていかねばならない。
その旗振り役となるべきは自分しかいない、と諸葛亮は固く信じているのだった。