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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第180話 魯粛、死す

 215年に勃発した孫権と劉備の間の紛争は、どうにかおさまった。

 孫権は長沙・桂陽の2郡を劉備から獲得し、湘水の権益を手中にした。

 領土を割譲する形となった劉備も、孫権との友好関係を再確認する事に成功し、漢中に進駐した曹操に兵を向けることが可能となり、その年のうちに漢中戦線に軍を投入することができた。

 両者の友好関係ははなはだ怪しいものとなってはいたが、互いの利害を考えれば有効な関係であるため、元の鞘に収まったのである。


 この戦後体制を構想し、実施にこぎ着けたのは他ならぬ魯粛であった。

 彼の望みは主君の孫権が屋台骨が揺らぐどころか完全になくなってしまったかというほど衰退した漢王朝にとってかわる存在となること、もしそれが果たせなくても江南で独立勢力として割拠することである。

 そのためには朝廷を壟断する曹操がこれ以上勢力を伸ばすのは都合が悪い。

 曹操を抑え込む手段として劉備との友好関係をどうにか維持し続けようと考えたのである。


 魯粛は講和成立後もこの体制の維持に力を惜しまなかった。

 彼が見るところ、劉備という男は曹操のアンチテーゼとして存在意義を確立している。

 劉備は曹操に反感を持つ者を糾合することで自身の勢力を発展させようとしているのであり、安易に曹操と妥協することはありえない。

 曹操を抑え込み、あわよくば撃破しようと構想する魯粛にとって、これほど都合の良い盟友候補は他にいないのだった。


 このため、魯粛は劉備によって再び荊州の統治を委ねられた関羽とは頻繁に連絡を取り合い、襄陽など曹操軍が押さえる地域に対するにらみを効かせ続けた。

 非公式ながら将来の共闘作戦についても協議を行い、揚州・荊州・益州の3方面から曹操領へ侵攻する計画を議論していた。

 いずれ劉備とも矛を交えるときが来るはずだが、その前に曹操との決戦を勝利に導きたいというのが魯粛の揺るぎない考えである。

 魯粛の戦略は現実的かつ具体的であり、相変わらず優先順位がはっきりしたものであった。


 その一方で新たに獲得した2郡の統治に本腰を入れ、湘関を開いて湘水を往来する船舶の管理に努めた。

 長沙にしろ桂陽にしろ、辺縁部は山々が連なり、およそ農耕に向かない地勢である。

 しかしながら、山地を縫うように走る諸河川が所々に豊かな盆地を形成しており、それらにおいてはかなりの農業生産が見込めた。

 曹操が確保する南陽郡のような中華屈指の生産性は望めなくても、十分にうま味のある領土であった。

 また、長江とは比べものにならないものの、湘水の水運による経済的な利益もまた無視できないものがある。

 荊州の孫権軍は揚州からの援軍がなくても十分に曹操軍に対抗できるほどの経済・人的裏付けを得ることができたのであった。


 この新領地の維持のためには、ときに強硬な姿勢を見せることもためらわなかった。

 それは216年、すなわち長沙郡を得た翌年に起きた大規模な反乱への対処にあらわれていた。


 この年、長沙郡南東部に位置する安成県の県長を務めていた呉碭という男が中郎将の官職を持つ袁龍という男と組んで孫権軍に反旗をひるがえした。

 呉碭は漢の朝廷によって安成県長に任命されたというプライドを持っていた。

 その辺の経緯は劉備が赤壁の戦い後に排除していった金旋ら荊南4郡の太守に通じるものがある。

 曹操が主宰する朝廷ではあるが、正統な皇帝を戴く政府には変わりなく、交州出身で地縁のない呉碭はその威光を強く意識して統治を行っていたのだ。


 その呉碭は漢の皇族に連なる出自を称し、曹操と戦い続けて天下の輿望をある程度集めている劉備はともかく、朝廷の秩序を無視して荊州に触手をのばしてきた孫権には反感しか持っていない。

 孫権軍の武力に屈してその地位の保全と引き換えにいったんは降伏したものの、反抗の機会をうかがっていた。

 そして袁龍ら協力者を得て一斉蜂起に踏み切ったのである。


 突発的な反乱でなかった証拠に、呉碭は自ら統治する安成県だけでなく隣接する攸県と醴陵県をもあっさりと手中におさめた。

 攸県には自ら進軍し、醴陵県には袁龍らの軍を送り込んで占拠してしまったのである。

 呉碭は関羽に呼応すると称し、実際に関羽のもとへ援軍を要請する使者を派遣するにいたった。


 この反乱に対し、魯粛の対応は迅速であった。

 揚州にいる主君孫権に急報するとともに、自ら攸県の攻略に向かうこと、醴陵県には呂岱の軍勢を差し向けることについての事後承諾を求めた。

 もちろん、使者を乗せた早船が長江を下る頃には両者の軍はそれぞれの目的地に向かって進軍を開始していた。

 孫権から魯粛と呂岱に対する追認の命令書が届いたときには、すでに両者は長沙郡に入って目的地に達しつつある状況であった。


 長沙・桂陽の両郡を得たことで、魯粛が管轄する荊州の孫権領は以前よりもはるかに充実した。

 その成果は動員兵力に如実にあらわれ、陸口に曹操・劉備両軍にある程度対処できる兵力を残しつつ、今回のように1万人規模の分遣隊を複数組織できるようになっている。

 あとはこの戦力を扱う者の手腕にかかっていたが、魯粛は過たなかった。


 長沙南東部の反乱は呆気なくと言っていいほど短期間で終結した。

 万を超える軍が迫っていると聞いただけで反乱軍の将兵は動揺し、次いで集団脱走が始まった。


 戦いらしい戦いはほとんど起きなかった。

 反乱軍の首領のうち呉碭はかなわないと見て逃亡した。

 袁龍は骨のある男だったらしく、醴陵で呂岱軍を迎え撃ったが、簡単に撃破されて捕虜となった。

 見せしめの意味も込めて袁龍が斬られると、反乱地域は急速に鎮静化していった。

 誘いをかけられた関羽が呼応するかどうか考える間もないくらい、鮮やかな解決であった。


 魯粛は反乱地域に過酷な処罰を及ぼすことはせず、関羽に対しても変わらぬ信頼をアピールする書簡を送って関係の維持に努めた。

 その後、荊南では大規模な反乱は起こらなくなった。


 呉碭の反乱鎮圧後、安定した支配を背景に、魯粛は軍備増強と劉備勢力との親善に一層努めた。

 彼の頭の中には揚州・荊州・益州の3方面作戦の具体的な構想がまとまりつつあった。

 すでに益州方面では劉備自らが出兵して漢中を制した曹操軍との戦いが始まっており、しかも優勢であった。

 揚州の孫権本軍を主攻とし、荊州の魯粛軍を助攻とする作戦案を立案し、孫権に具申もしていた。

 あとは準備が完了次第、孫権の承認を得て作戦を発動するだけであった。


 だが、天は魯粛にその機会を与えなかった。

 217年、突如魯粛は胸をかきむしるようにしたかと思うと、ばったりと倒れた。


(わたしは、死ぬのか・・・)


 薄れ行く意識のなかで、魯粛の脳裏に去来したのは、実に平凡な想いであった。

 まだ46歳でしかない魯粛は自分が死ぬとはまったく考えておらず、何の遺言も残さなかった。

 言葉にならないうめき声をあげ、その身体をけいれんさせるばかりだった。

 それもわずかの間に過ぎず、やがてまったく動かなくなってしまった。

 駆けつけた医師がしたことは、ただ魯粛の死を確認することだけだった。


 魯粛の後任は孫権の命により呂蒙が襲うことになった。

 孫権は荊南攻略において呂蒙がみせた作戦と軍政の能力を高く評価していたのである。

 ただし、劉備軍との共闘に確固たる信念を持っていた魯粛の死は、孫権のその後の戦略に大きな影響をもたらすことになった。


 ……………………………………………………………


 時は流れ、魯粛の死より12年が過ぎた229年。

 呉の王都建業の宮殿では、華々しい儀式が行われようとしていた。

 史上初めて、江南の地に天子が生まれようとしているのである。

 皇帝にのみ許される衣服や冠を身につけ、今しも天を祀るための祭壇に登ろうとしているのは孫権であった。

 周囲が厳かな緊張感に包まれるなか、孫権の面貌は無上の喜びに満ちていた。


 一歩一歩踏みしめるように階を登り、登りきるとゆっくりと背後を振り返った。

 間髪をおかず、居並んだ群臣たちのなかから「万歳」の声が沸き起こる。

 孫権は両手を挙げてその歓呼に応えつつ、相好を崩した。

 呉王朝の初代皇帝の誕生である。

 一世一代の晴れ舞台を存分に堪能しつつ、孫権はあふれてくるある想いを抑えることができなかった。


「魯粛だ。魯粛だけが、今日朕がこうなることをわかっていたのだ。」


 今は亡き元腹心に向けられた孫権の称賛は、これ以上ない位多くの耳目を集めた場で永遠に記録されることとなった。

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