第178話 単刀赴会(中編)
「本来、荊州は赤壁で曹軍を破った我が軍に帰すべきものであるのに、我が主はあなたがたに貸し与えた。それはあなたがたの軍が曹軍に敗れて遠方より逃げ込み、身を置く場所とてなかったからだ。にもかかわらず、あなたがたは益州を得たというのに返還の意思なく、我らが長沙・零陵・桂陽の3郡の返還だけでも求めたところ、それにも従おうとしない。それは・・・」
会見の口火を切ったのは魯粛である。
彼の口をついて出たのは、これまで孫権らが繰り返してきた主張であった。
ここまで問題がこじれた以上、魯粛としても劉備の非を鳴らすほかはない。
孫権が納得する譲歩を引き出すことが、彼に課せられた使命であった。
だが、彼の言葉は突然さえぎられることになった。
「土地は徳を備えた者の支配に帰すものなのだ!過去にそちらが所有していたからと言って、いつまでもそのままであるはずがない!!」
大声で魯粛の話を断ち切ったのは、関羽が引き連れてきた幕僚のひとりである。
彼の主張は土地というものは徳の高い者が支配すべきであり、過去に孫権が所有していた土地であっても、劉備という徳が高い人物が治めるようになった以上、その支配に服するのは当然という考えであった。
観念論として、得の高い者が為政者となることは理想であるが、和平交渉の場でこのような主張を行うのは暴挙というほかないであろう。
これでは孫権に徳がないと言っているようなものであり、和平を行う意思がないと示したととられかねない。
しかも、それを関羽ではなく随員のひとりが放言したというのは、大問題である。
「そなたは何者だ?主を差し置いて国家の大事に口を挟むなど、大馬鹿者のすることだ!天下国家のこともわからぬ愚か者は黙っておれ!!」
問題発言に対して烈火のごとく怒り、厳しい表情と口調でしかりつけたのは魯粛である。
他家の臣ではあるが、遠慮などしていられない。
何しろ、主君の面子をつぶされたのだ。
「何!?俺を侮辱するのか!!」
男は顔を朱に染めて怒鳴り返した。
どうやら元は武人であるようで、直情径行が透けて見える。
およそ外交の場にはふさわしくない者だ。
だが、一瞬後、男の表情が凍りついた。
上座にいる関羽がおもむろに剣をつかみ、目を怒らせて男を睨みつけたのだ。
みるみる青ざめていく男に対し、関羽は目くばせをした。
男は素早く一礼すると、会見場の外へと去った。
「我が手の者が無礼をいたした。許されよ。」
男が去ると、関羽はそう告げて一礼した。
同じく武人とはいえ、さすがに関羽は外交の場での礼儀はわきまえているようだ。
もっとも、和平を望む気持ちはどちらかと言えば劉備側の方が強い。
関羽としては、のっけから交渉決裂としたくはないのだろう。
何にしても、先ほどの男の発言は関羽が代表する劉備側にとって不利なものとなった。
相手のことを侮辱するだけでなく、言葉の綾と言うべきかもしれないが、公式の場で荊州が元々孫権のものであったと認める発言でもあった。
色んな意味で問題発言であった。
関羽が事前に描いていたプランはこれによって無に帰した、と言って差し支えない。
それはあまり緻密なものではなかったが、こうも簡単に破綻するはずでもなかった。
関羽としては、長年売った自分の武名を武器として、魯粛を威圧して有利な条件を引き出そうとしていた。
これまでの融和的な言動や行動から判断して、魯粛はおとなしい交渉をしてくると踏み、まずは一発かましてやろうと考えたのだ。
そのうえで、孫権や周瑜がこれまで繰り返してきた荊州の返還については、のらりくらりとかわしてやろうと心に決めていた。
孫権が主張する荊州の領有権について、劉備側は認めたくないという想いで一致している。
せっかく拡大した領土を縮小させれば自立から遠ざかるのは、子どもにもわかる理屈である。
ただ、以前に明日をも知れぬ身となっていたところを助けられた負い目があり、むげに退けることができない事情もあった。
それに、曹操だけでなく孫権まで敵に回しては、とても勢力を維持できないという深刻な事情もある。
だからこそ、荊州返還問題というややこしい話をなるべく先延ばしにしておきたいのだ。
ところが、魯粛はまったく怖気づく様子もなく声高に孫権と同じ主張を述べ、激した劉備側の人間が孫権に荊州領有権があるかのような発言をしたことで、交渉の場は関羽が思っていた状況とまったく異なるものとなってしまった。
関羽は難しい顔をして言葉少なとなり、自分の側の不利を悟りきったようだった。
「さて、あの者のことはいったん放念するといたしましょう。我が君の願いは、先ほど私が述べたとおりです。せめて長沙・零陵・桂陽の3郡はお返しいただきたい。ご返答はいかに。」
魯粛はそう言って、じろりと関羽の方を見やった。
返してくれ、と言っているが、現状ではその3郡のほとんどを孫権軍が押さえている。
現状の線での和睦をしろと言っているようなものだった。
それをすんなり認められるなら、今ごろ劉備側は臨戦態勢を解いている。
3郡を手放せば、荊州のうち劉備領として残るのは南郡のごく一部と武陵郡くらいになってしまう。
関羽が指揮する軍勢を養うには足りず、軍備が縮小されるのは目に見えている。
それは遠からず荊州の劉備領が消滅しかねない状況であった。
「それはできませんな。そもそも、我が君は涼州を得たら荊南をお渡しすると申したはず。それを兵を向けて奪い取ったのはそちらではないか。零陵に至っては太守を欺いて奪ったと聞く。これですんなりと認められるわけがない。」
関羽の表情は固い。
力関係や益州方面の情勢を考えれば、ある程度の領土の割譲はやむを得ないと劉備も関羽も覚悟はしていた。
しかし、一方的に孫権側の要求を飲まされるのは癪にさわるし、政権内部でどのような反応が起きるか不透明だ。
関羽としては不利な立場を自覚しつつ、少しでも孫権側の譲歩を引き出したいところであった。
「失礼ながら、劉将軍は先に益州を得れば荊南を還すと仰ったが、いざ益州を得ると涼州を得てから還すとひるがえした。劉将軍は君子として天下に知られた御方。そのような方が二言を用いておきながら、我らのことを一方的に非難されるとはいかがなものでしょうか。」
関羽の主張に対し、魯粛は慌てず騒がず反論する。
むしろ、そこから自分の主張を連ねていく。
「我が主は、このままでは約束が反故にされると憂い、やむなく軍を出したのです。何しろ荊南3郡に長史を送ったところ、兵に追い立てられて帰って参りましたからな。」
魯粛が触れたのは、孫権が劉備の煮え切らない態度に怒り、実力行使とばかりに太守補佐である長史を送り込み、劉備側によって追い払われた件だ。
長史たちを追い出したのは、他ならぬ眼前にいる関羽だった。
孫権が劉備を従属勢力とみなして「内政干渉」しようとしたのに対し、劉備勢力の荊州総責任者である関羽が反発した事情は魯粛もよくわかっていた。
ただ、孫権勢力の代表として魯粛はその行為を非難するほかない。
「わしはこの荊州をただよく守れ、と主から命ぜられている。それを果たしたにすぎぬ。」
どちらかと言えば口下手らしい関羽はうまく反論ができないらしく、ただ自分の立場を示すにとどまった。
その様子は戦場での堂々とした様子とは何かが違い、会談が思ったような展開になっていないことに戸惑っているようにも見えた。
緊張と戸惑いを隠せない関羽とは対照的に、魯粛はほとんど表情も動かず沈着そのものといった様子であった。
膂力では明らかに劣るのに、場を支配しつつあるのは魯粛の方であった。