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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第177話 単刀赴会(前編)

 漢中が曹操の手に落ちた。


 その知らせは劉備にとって青天の霹靂のようなものであった。

 荊州方面の利権を守るために東方へ軍を移動させている間に、新たに版図に加えた益州に対する北からの圧力が一気に増大したことを意味したからだ。

 それは荊州方面での作戦を継続する意味を失わせる脅威であった。


 このため、劉備の方から使者が送られてきて、孫権軍との間の講和が打診された。

 陸口にいた孫権は答礼の使者として諸葛瑾を劉備がいる公安城へと送り出したが、講和について明言することを避けた。


 切羽詰まった劉備と違い、孫権にはそれほど講和をしなければならない事情はなかった。

 呂蒙の活躍もあって劉備軍との紛争は優勢に進んでいるし、警戒すべき曹操軍に目立った動きはない。

 曹操自ら大軍を率いて漢中攻めを行ったため、孫権領と隣接する地域では曹操軍の軍事行動はたいして行われていないのだ。

 むしろ、劉備が益州へ還るのを待ち、残る荊州の劉備領を奪い取ってやろうという腹だったのだ。


 だが、益陽で関羽軍とにらみ合いを続けている魯粛は、曹操による漢中平定の報を聞くと、ただちに劉備との講和を上奏した。

 魯粛の考えの根底には、孫権軍が単独で曹操軍と対抗することは困難であり、戦力を増強するために長江沿岸を領有すべきとはいえ、短期間でそれを成し遂げることは不可能に近いという通念がある。

 このため、当面の間は求心力を持つ劉備との連合は維持し続けねばならないという考えを強く持っていた。


 その考えからすれば、劉備との紛争を長く続けることは孫権陣営としても不利である。

 魯粛は劉備軍に負けるつもりはなかったが、その勝利は無意味であると考えていた。

 孫権軍が激闘の末に劉備領をむしり取ったとしても、曹操軍はたいした労力を使わずに益州という長江上流の有利な地を得ることができてしまう。

 そうなれば孫権軍は長江という防衛に有利な「水の壁」を無効化されることになり、しかも疲弊した状態で曹操軍を迎え撃たなければならないのである。


 魯粛の講和案は、以上の理由を明記したうえで孫権に上奏された。

 荊州入りしたことでより最前線の情報に通じることになった孫権は元々聡明な人間であるだけに、魯粛が説く情報分析に正しさを認めた。

 彼は改めて使者を劉備に送り、孫権側の外交窓口を魯粛とすることを通告した。

 それに対し、劉備もこの講和に関する外交責任者を関羽とすることを伝えてきた。


 孫権がいる陸口と劉備がいる公安の間の距離は直線距離で200キロメートルを少し超える程度。

 直接両者が会談すればいいのではないかと思ってしまうが、これには理由がある。

 両トップによる会談で講和がまとまれば良いが、そうでなければ交渉決裂と内外にとられかねないのだ。


 主力軍同士の戦いではなかったものの、やはり両軍が血を流し合ったという事実は大きい。

 和平交渉をするのであれば必ず合意に持って行かねばならず、もしトップ会談で実を結ばなければ、内部で講和に対する疑問の声があがる可能性が出てくる。

 また、曹操は必ずその隙をついて何かしらの手を繰り出してくるであろう。


 その点、魯粛と関羽による和平交渉なら、一度の会談でうまくいかなくても、どうとでもなる。

 あくまで本交渉の前の事前交渉だったと言い張れるからだ。

 そして、お互いの勢力の荊州方面の責任者である魯粛と関羽は、本交渉であれ事前交渉であれ、どちらの場合にもそれを行うにふさわしい地位の男たちであった。


 魯粛と関羽、2人の交渉はまず関羽よりの会見申し入れから始まった。

 理由は単純で、益陽城を押さえて零陵・桂陽方面への進路をふさぐことに成功している魯粛に対し、関羽はこれといった現状打開策を見いだせず、しかも漢中に曹操軍が制覇しつつあるという凶報に接して切羽詰まっていたからだ。


「ふむ、会見か・・・。」


 使者を通じて関羽の申し出を受けた魯粛は、考え込む素振りを見せた。

 交渉は難しい。

 居丈高に構えるとまとまるものもまとまらなかったりするし、かと言って下手に出ていては相手に都合のいい要求を飲まされてしまう。

 また、会見場をどこにしつらえるか、両者の席次や向きをどうするか、さらには互いの随行員の数はどうするかといった、細々としたことも決めていかねばならない。

 何より、今回のような紛争の解決を図る交渉の場合、互いに相手になめられないように大軍を引き連れて交渉に臨む。

 殺気だった男たちがひとところに固まれば、どんな不測の事態が起きるとも限らない。


「では、こうしよう。関将軍にお伝え願いたい。会見場はこちらでご用意いたそう。会見場の中には互いに兵を入れず、ただわたしと関将軍のみが単刀を帯びて会見をおこなうこととしたい。」


 まなじりを決して魯粛が語ったのは、驚くべき会見の方法であった。


「は?会見場では将軍のみ単刀を帯び、会見を行う・・・わかりました、帰って主に伝えます。」


 関羽の使者が驚いたのも無理はない。

 要請したのが関羽である以上、会見を行うかどうかの選択は魯粛側にある。

 だから、会見場を魯粛側が用意することはわかる。


 ただ、会見場の中に互いの兵を入れず、魯粛と関羽だけが身に1本の刀を帯びるだけにする、という条件は魯粛にとってかなり無謀なものにしか見えない。

 何しろ、関羽は武勇伝を挙げればきりがないほどの猛将であるのに対し、未だかつて魯粛が戦場で武勇を振るったとの話は聞かない。

 その気になれば関羽が魯粛を料理するのは簡単であり、この場合会見場の周囲に大軍を準備したがるのは魯粛の方だと考えられていたからだ。


「ほう・・・単刀赴会、か。面白い、その条件で良いと伝えよ!」


 使者の報告を聞いた関羽は、魯粛の提案に少し驚いたようであったが、やはり自分の武勇に自信があるのだろう、面白がって了承した。

 こうして、益陽城外にしつらえられた会見場で、両将による会見が実現することになった。


 会見場の周囲がものものしいのに対し、中はひどくがらんとした印象だった。

 事前の取り決め通り、両軍の兵は会見場の外に待機し、その距離は百数十メートル以上は離れている。

 一方、会見場の中はと言えば、魯粛と関羽の2名に加えてお互いの幕僚だけが控えており、これも事前の約束どおり腰に剣を佩いた魯粛と関羽以外は丸腰であった。

 ただ、場の緊張感は軍勢がひしめく外より、中の方がピリピリと張りつめているようだった。


「ようこそ。」


 そう言って関羽を迎えた魯粛に、いつものような柔らかさはない。

 親劉備派として広く知られる魯粛であるのに、今日はまるで別人のように厳しい表情である。


「申し出を受けていただき、かたじけない。」


 関羽もまた表情を引き締めて魯粛に対した。

 今日の交渉が難事であると改めて認識し直したようであった。


 この会見の趣向について聞いたとき、関羽は「しめた!」と内心喜んでいた。

 魯粛軍の3倍にも達する大軍で威圧し、少しでも有利な条件を引き出すのが狙いであったのだが、それに加えて両将のみが会見場内で剣を帯び、他の者は丸腰という条件は自分にとってさらに有利だと確信していたからだ。

 関羽は自分が醸し出す威圧感を自覚しており、「文弱の徒」に過ぎない魯粛を圧倒できると踏んでいたのだ。


 ところが、魯粛は怯むどころか威を備えて会見場に現れた。

 関羽の凄みなど、到底通用しそうもない。

 関羽は初めてこの魯粛という男が単なる自分たちのシンパではなく、厄介な交渉相手であることに気づいたのだった。

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