第174話 呂蒙、荊南を攻める
皖城を取ったことで荊州方面との連絡線を強化し、孫権は気が大きくなったのだろうか。
それとも、劉備の物言いがどうしても気に入らず、怒りが抑えられなかったのだろうか。
魯粛の融和策を壊しかねない一手を孫権は実施した。
215年に入り、孫権は荊南4郡のうち長沙・零陵・桂陽の3郡に対し配下の人物を役人として送り込んだ。
彼らのうち最上位のものは長史の官職を与えられており、これは太守を補佐する官職であって、事実上は郡のナンバーツーに当たる地位である。
つまり孫権は劉備が任命した各郡のトップである太守を否定することまではしなかったものの、ナンバーツー以下を自分の配下で固めることで支配権を掌握しようと試みたのだ。
これは劉備を従属勢力と位置づける孫権にとって自治権の制限と返還の下準備のつもりかもしれないが、劉備にとっては内政干渉でしかない。
案の定、劉備側がこれをすんなり受け入れるわけがなく、劉備の腹心で荊州の責任者である関羽によってたちまち追い散らされた。
さすがに同盟関係の破綻にまでは持って行きたくなかったのか、命を奪われることまではなかったが、武人として鳴らしてきた関羽の剣幕はすさまじく、孫権の官吏たちはほうほうの体で揚州へと逃げ戻った。
「何たる無礼!!」
官吏たちが逃げ帰ってきたことを知り、今度は孫権がすごい剣幕で怒り出した。
恩を仇で返された、と手がつけられない荒れようである。
「荊州を攻める!余も荊州に向かうぞ!!」
怒りに任せて孫権は出陣準備を命じ、自ら3万近い兵を率いて荊州攻めを行うことを宣言した。
荊州の督である魯粛配下の軍勢は当然として、盧江太守の呂蒙も加え、総勢5万を超えるかという大軍が動員されることになった。
(ついにこうなってしまったか・・・。)
揚州からの急報に接し、魯粛は顔を曇らせた。
劉備を短期間で屈服させる実力がない以上、この紛争に突入すれば長期戦は避けられない。
そうなると両軍は貴重な戦力をすりつぶし、得をするのは曹操だけである。
だが、魯粛だって最近の劉備の慇懃無礼には消化しきれぬ思いを心中に持ち続けているし、孫権の怒りも理解できる。
なるべく大規模な武力衝突に至らぬよう回避に努めつつ、孫権の不満を解消すべく劉備にお灸をすえる形での幕引きをいかに演出するか。
魯粛はそのことを考え始めていた。
孫権が腰を据える本営の整備や軍需物資の準備など、雑多な準備に追われるようになった魯粛のもとへ第一弾の部隊を引き連れてやって来たのは呂蒙であった。
彼は盧江郡の兵を引き連れて参戦するよう命じられ、一足先にやって来たのだ。
「先年に皖城で語ったとおりとなりましたな!」
呂蒙は魯粛の顔を見るなり、そう言った。
あのとき、呂蒙は武力で荊南を制圧すべきだと提唱し、その具体的な策をも開陳してみせたのだ。
まさしく事態は呂蒙が語ったとおりに進展している。
「そうだな。君のことだ、すでにあの策を上奏して裁可を得ているのだろう?」
「ええ。わたしには盧江の兵に建業からの兵を加え、2万でもって長沙・零陵・桂陽を攻めよとの命が下っております。」
「やはりな。こっちには巴丘に兵を進め、関雲長の東進に備えよとの命令が来た。すでに軍船や糧食などの準備が整っている。」
「ありがとうございます。ただちに兵を進め、たちどころに3郡を攻め取って参りましょう。」
呂蒙は出撃準備を整えつつ建業からの先鋒部隊の到着を待ち、合流を果たすとすぐさま南下していった。
優勢な水軍戦力を活かして長江をさかのぼり、巴丘から洞庭湖に入ると、さらに湘水に入って侵攻を続けた。
魯粛は1万の兵を動員して陣を巴丘へ進め、後方支援を行いつつ関羽軍の東進に備えた。
これに対して関羽は救援に向かおうと公安城を出て長江沿いに進軍したが、魯粛軍を認めるとそれ以上の進軍を停止した。
理論上、関羽は3万以上の兵を指揮下に置いていたが、それは荊南の各郡の守備兵力も含めての数であり、関羽自身がこのタイミングで実際に動かせるのはその半分程度でしかなかった。
しかも、「武陵蛮」と通称される少数民族たちも頭数に入れてのものであり、混成軍と言うべき関羽軍では魯粛軍と戦って勝つ見込みはあまり高くなかった。
では、魯粛軍を避けて南下すればいいのではないかとなるが、なかなかそうもいかない。
魯粛軍に側面や背後を衝かれる恐れがあるし、手薄になった公安城を急襲される可能性だってある。
いかな猛将の関羽と言えど、この状態では魯粛軍とにらみ合うしかなかったのである。
関羽の動きが封じられたことで、呂蒙は狙い通り戦略上のフリーハンドを得た。
ただでさえ多い2万の軍をさらに大軍に見せかけ、呂蒙はひたひたと長沙へ迫った。
関羽の支援があてにできないこの状況下で、長沙郡内は恐慌状態に陥った。
民や豪族だけでなく兵たちにまで逃亡する者や降伏する者が相次ぎ、ついには太守の廖立までもが逃亡してしまった。
呂蒙は長沙を無血占領した。
長沙を得た呂蒙は略奪行為を厳しく禁じ、短期間で治安や行政組織を安定させると、さらに南を目指した。
長沙郡の南部、零陵・桂陽両郡との境に位置する地を酃県という。
ここは湘水が他の河川と合流する地点でもあり、ここを確保できれば孫権軍は鄱陽湖方面からの水運による支援を受け続けることができ、腰を据えて零陵・桂陽の攻略を進めることが可能だった。
逆に、劉備軍にとってはここを失うことは関羽がいる南郡方面との連絡線は完全に断ち切られることを意味しており、是が非でも保持し続けねばならない地であった。
呂蒙軍が酃に進軍しつつあると聞いた零陵太守の郝普と桂陽太守の樊本は、事態の重大さを認識して酃城救援の軍を出した。
だが、酃が湘水の合流点であるということは、零陵・桂陽両郡の軍は合流点に向かってバラバラに進軍するということである。
呂蒙は酃城に対する抑えの兵を残すと、自らは盧江兵を率いて桂陽から進軍してくる劉備軍の進路上で待ち受け、零陵方面には孫権からつけられた軍を孫規という武将に率いさせて迎撃に当たらせた。
取るものとりあえず、といった感じで急行してきた劉備軍に対し、呂蒙ら孫権軍は数で上回っている上に有利な地勢をあらかじめ占めており、その勝敗は明らかだった。
当初は一進一退に見えた戦況も、機を見定めた呂蒙が反転攻勢に出ると一気に形勢が定まった。
桂陽の劉備軍はもろくも崩れ、あわてて逃げ出す者、踏みとどまって戦おうとする者、その場で命乞いをはじめる者など、軍としての統制は失われ、大混乱に陥った。
劉備軍を率いた樊本はかろうじて戦場を離脱したが、その周囲には数えるほどの味方の兵しかいなかった。
元々郡の兵をこぞって作戦を展開してきたため、郡治の郴県などに残してきた兵の数はたかが知れていた。
「やむを得まい・・・。」
樊本は桂陽に戻っての抗戦を諦め、呂蒙に対して降伏を申し出た。
呂蒙はこれを喜んで受け入れ、桂陽もまたあっさりと孫権の手に帰した。
呂蒙はひとまず樊本の地位をそのままとして桂陽郡の混乱収拾を委ね、自らは酃城へと取って返した。
鮮やかな呂蒙の手並みに、酃城も零陵からの援軍も一気に戦意を喪失したようだった。
郝普率いる零陵の劉備軍は孫規率いる孫権軍と激闘していたが、呂蒙の戦勝で勢いづいた孫権軍とは対照的に見る間に動揺が広がり、郝普はやむなく撤退を指示した。
救援の望みを失った酃城も間もなく開城の運びとなった。
「まだだ。零陵は落ちておらん。このまま零陵も取るぞ!」
呂蒙は手を緩めず、孫規の兵と合流して零陵郡へと進んだ。
ただ、零陵太守の郝普はひとり気を吐き、他の2郡のようにすんなりと降伏する様子は見せなかった。
郡治の泉陵県を囲んだ呂蒙だったが、攻囲戦を余儀なくされることとなった。
ただ、援軍の望みもない籠城戦など、先が知れている。
呂蒙軍のなかでは零陵攻略も時間の問題との意識が広がっていった。
しかし、ここまで順調であった呂蒙の荊南攻略作戦は、まったく思いもよらない方向から危機に直面することになったのだった。