第172話 呂蒙、皖城攻めを進言す
「蒙か。よい、申してみよ。」
魯粛が驚きの感情に包まれる中、孫権の前に進み出てきたのは呂蒙であった。
呂蒙は孫権の許しを得ると、自説をとうとうと述べ始めた。
「いま我らが憂うべきは、皖であります。曹孟徳はここ数年廬江郡の開発を進めんとし、廬江の豪族や民を調略して屯田を行わせておりました。それだけでは足りぬと思ったか、皖へ廬江太守として朱光なる者を送り込み、盛んに新たな田地を開墾させております。また、朱光は田地を切り開くだけでなく、鄱陽の賊帥どもに誘いの声をかけ、我らの領土を荒らそうと企てております。」
「ふむ。」
「朱光の屯田や調略は、今のところ大きな脅威とはなっておりません。しかし、元々皖は肥沃な美田を望める好地であり、もし皖の田地が整備されれば、かの地の軍兵は必ず増大し、数年たてば曹軍の軍事行動となってあらわれてくるでしょう。そうなってからでは手遅れです。早急に皖の脅威を取り除かねばなりません。」
皖県は揚州廬江郡にあり、長江の西岸に設置された県であった。
孫権軍と曹操軍は長江を挟んで対峙している状況にあり、江東と呼ばれる長江の東岸一帯を孫権が治め、長江以西にある九江郡と廬江郡を曹操が実効支配し、揚州を分割する形となっている。
これまで揚州において曹操と孫権の間では長江を挟んで幾度か戦いが起きていたが、それらは主に九江郡の南西部で行われていた。
具体的には曹操軍の最前線拠点である合肥と孫権軍の最前線拠点である濡須をめぐる争いと言っていい。
なぜここが争点になっていたかというと、大きく2つの理由があった。
1つ目は、孫権が新たな本拠を置いた建業に近い点だ。
曹操軍にしてみれば、濡須を突破することができれば孫権の本拠を直撃できる状況が整うわけで、濡須方面を攻略する価値は非常に高い。
逆に言えば、孫権軍としては何としても守り抜かねばならない地ということで、水陸の精鋭部隊を常に配置する戦域となっていた。
2つ目は、合肥と濡須の間に存在する「巣湖」という巨大な湖の存在だ。
揚州の長江沿いにある巨大な2つの湖のうち、鄱陽湖は孫権が完全に支配権を握っているのに対し、長江の西岸に位置する巣湖は孫権が押さえているとはいえ、十分に曹操軍も支配権を奪い取る目算が立つ地であった。
巣湖の周辺は陸続きであるために曹操軍も比較的大軍を展開させやすく、濡須を攻め取れば完全に巣湖の支配権を握ることが可能となる。
巣湖を我が物とすれば、巨大な船着き場を得たようなもので、ここを活用して孫権軍に勝るとも劣らない水軍を養成することができるのだ。
それがわかっているだけに、両軍の戦いは熾烈なものとなった。
このように巣湖周辺の戦略価値が高くなる一方、上流にあたる廬江郡についてはそれほど大きな争点となっていない。
廬江郡の長江沿いには鄱陽湖があるものの、周瑜が構築した防衛線によって孫権軍ががっちりと守りを固め、曹操軍はあえて大規模な軍事行動を起こしてこなかった。
鄱陽湖の北はすなわち長江の北岸でもあるが、この辺りは大部分が湿地帯であり、すぐ北に山脈が走っていることもあって、軍の展開自体がやり辛い土地であったという事情もある。
ただ、曹操という男は自身も人並み優れた才を持つが、才ある人物を用いることにも長けている。
韓浩らの進言によって始めた「屯田制」を拡大し、廬江郡にも及ぼそうと努めた。
最初は廬江郡の豪族である謝奇という人物を「典農」という屯田を監督する官職に起用し、蘄春という廬江西部の地で屯田を始めさせた。
地元の人間を用いたこともあってか、謝奇の屯田はそれなりに成功し、皖方面にも進出して長江北岸に点在する孫権軍の拠点を脅かすようになった。
実は、これに孫権軍の責任者として対処したのが、他ならぬ呂蒙であった。
呂蒙は当初謝奇を味方につけようと誘ったが、応じないと知ると軍を出して謝奇を北方に追い払い、降伏した謝奇の部下たちを配下に吸収した。
しかし、曹操は皖県などの開発を諦めていなかった。
今度は中央からわざわざ朱光を廬江太守として派遣し、皖城に駐屯させて屯田を行わせた。
湿地が多いということは、水量豊かで上流から流れてくる肥沃な土にも恵まれているということである。
屯田に成功すれば現地だけで軍需物資を十分にまかなうことができ、孫権をおびやかす戦略的な要地に仕立て上げることができる。
曹操陣営の目の付け所は実に確かであり、呂蒙はこれに大きな危機感を持っていた。
皖城周辺で曹操軍の力が増せば、長江を大動脈とする孫権の揚州と荊州の連絡線が脅かされる。
特に鄱陽湖周辺の水賊はまだまだ侮りがたい勢力を持っており、これが曹操と結んで水上輸送を阻害するようになれば、孫権の支配領域は大きく二分されることになりかねない。
だからこそ、対処するなら今のうちだと孫権に直訴したのであった。
近々荊州方面で劉備と事を構えるというなら、なおさら皖城の脅威は無効化しておかねばならない。
「よくわかった。では、皖城をどう攻めればよいか。」
孫権は呂蒙の主張に理解を示し、方策を聞いた。
魯粛は呂蒙が戦略を具申するほどの知識を蓄え、そのことを孫権から認められていることに衝撃を受けていた。
つい数年前まで武勇一辺倒でしかなかった呂蒙が、いつの間にこれほどの成長を遂げたのか。
魯粛は混乱のなかにいた。
「先ほど数年後には侮りがたい勢力になると申し上げましたが、裏を返せば今はまだ態勢が整っておりません。また、現在は長雨で江水の水位が増大しており、皖城付近の湿地も水嵩が増えて接近しやすくなっております。今を除いて皖城を攻める時はありません!時を移さず精鋭でもって急襲するに限ります。願わくば、甘興覇どのを先鋒とし、後詰として私自身が参りたいと思います。」
「よかろう。甘寧とともにただちに兵を率い、皖城を落として見せよ。」
呂蒙の作戦案はすぐに孫権の採用するところとなった。
勇将として名高い甘寧を升城督(攻城部隊の司令官)として先鋒にし、呂蒙自らが精鋭を率いて後軍を固める形である。
呂蒙と甘寧に率いられた軍は軍船に分乗して長江を遡り、一路皖城を目指した。
周囲を湿地や山地に囲まれた廬江郡を攻めるには、軍船を活用するのが最も効率が良い。
呂蒙の軍事行動は最速を追求したものであった。
このため、曹操軍の不意を衝く形で皖城に攻め寄せることができた。
「将軍。城攻めとなれば一朝一夕では参りません。幸い、この辺りの土はやわらかく、簡単にかき集めることができます。土を集めて山となし、城壁を越えて攻め込みましょう!」
皖城に迫る中、そう呂蒙に対して進言するものがあった。
その者が言うまでもなく、城攻めはなかなか手間がかかるものだ。
無理攻めをすると大きな犠牲を払うことになるし、士気にも関わる。
そのことを考えての進言だったのだが、呂蒙の考えは違った。
「いや、それはこの場合得策とは言えない。今ならばまだ皖城の守りは整っていない。そこにつけこんで今すぐ力攻めをすべきだ。長期戦を行えば、その間に皖城内部の防備は固められてしまうだろう。それに、合肥や許などの曹軍が黙ってはおるまい。時間をかければかけるほど、敵の援軍がやって来る恐れが強まる。ここにいる我が軍はそれほど多くはないのだ。また、今回は増水に乗じて攻め寄せたが、日を重ねると水が引いて船が遠くに下がらざるを得ず、撤退がやりにくくなってしまう。」
呂蒙はそこまでしゃべると、周囲の顔を見渡した。
「いいか、皖城を数日以内に攻め落とす!準備が整い次第、すぐに攻めかかれ!」
呂蒙は自らバチをとって攻め太鼓を打ち鳴らし全軍を鼓舞した。
それに呼応して先鋒を受け持った甘寧は自ら城壁をよじ登って城内へ攻め込んだ。
ただでさえ急行してきた孫権軍が、到着して日を置かずに突貫してきたのだから、たまらない。
呂蒙の読み通り皖城の防衛体制はまだまだ十分とは言えず、四方から城壁を越えて乗り込んできた孫権軍の精鋭には歯が立たなかった。
朝から始まった城攻めはその日の昼には終わった。
猛威を振るった甘寧配下の兵によって城将の朱光が捕らえられ、残余の曹操軍は降伏した。
これにより、皖県周辺はすっかり孫権軍の領するところとなった。
孫権はこの勝利を喜び、皖城攻略の結果手に入れた軍需物資や降兵などを呂蒙に与えて廬江太守に任じ、加えて尋陽の兵や官吏も呂蒙のもとに付属させた。
また、甘寧の功績も大であるとして折衝将軍の官職が与えられた。
呂蒙の鮮やかな手並みに、魯粛はただただ驚いていた。
荊州へ戻る道すがら、魯粛は呂蒙を訪ねて廬江を訪れることにした。