第167話 青泥の戦い
212年末、荊州では戦雲急を告げていた。
この時期、東の揚州の濡須口付近で曹操と孫権による本軍同士の小競り合いが起こっていた。
結果的に荀彧の死につながった、あのにらみ合いが主となった戦いだ。
その戦いの余波が荊州においても起こったのである。
赤壁の戦いの後、荊州は南陽郡と南郡北部、江夏郡北西部を実効支配する曹操軍、南郡東部と江夏郡の大部分を実効支配する孫権軍、南郡西部と荊南4郡を実効支配する劉備軍が三つ巴の状態にある。
劉備勢力が孫権勢力と同盟関係、というより従属関係にあるため、この連合軍の前に曹操軍は押されているのが実状であった。
曹操軍は亡き劉表が州治として拠っていた襄陽を最前線としてその以北の領域をかろうじて維持していると言っていい。
今回軍事行動を起こしたのはこの曹操軍の方であり、率いる将は折衝将軍の楽進と江夏太守の文聘であった。
劣勢であったはずの曹操軍が動き出したのは、主に2つの理由によった。
1つは、益州出兵によって劉備軍が半減してしまったためだ。
劉備はまず自ら龐統を参謀として益州入りし、表向きは張魯をけん制すると見せつつ、ゆっくりと益州の征服に着手していた。
彼が率いる軍勢は2万と称され、動員できる兵力のほぼ半数を数えた。
さらに諸葛亮、張飛、趙雲らによって率いられる軍が増援として出陣準備を始めており、残留することになる関羽指揮下の軍はかろうじて1万に達するかどうかしかいない。
こうなると、荊州中部に広く防衛線が連なる孫権・劉備連合軍の防衛力は低下を免れず、劣勢であった曹操軍にとって大きなチャンスであった。
そしてもうひとつの理由として、曹操が揚州方面で攻勢をかけるタイミングで陽動作戦の実施を求められたことがある。
曹操は対峙することになる孫権軍の数をなるべく減らすことを考え、荊州方面からの援軍が来ないように楽進らに荊州でも攻勢に出ることを求めたのだ。
つまり、曹操は楽進らに荊州で孫権・劉備連合軍を「攻めるふり」をすることを求め、それによって荊州に展開する連合軍が揚州方面に援軍としてやってこないよう「拘束する」ことをねらったのである。
それは、劉備軍が減少している状況ではうまく行く可能性が高かった。
ただ、総大将格の楽進は勇猛さで鳴らした歴戦の武将である。
彼は自分が単なる「けん制作戦」の担い手になることを望まず、現状の有利な状況を活かして一気に勢力を拡大しようと考えていた。
楽進は文聘とともに漢水沿いに南下を開始し、これにより荊州はにわかに緊張の度合いを増したのであった。
「なに、曹軍が南下中だと?」
陸口にいた魯粛が楽進率いる曹操軍南下の知らせを受けたとき、荊州駐留の孫権軍にとってタイミングは最悪に近かった。
曹操が揚州方面に軍を進めつつあるとの知らせが先に入っており、そちら方面への援軍が準備され、一部の部隊はすでに移動を始めている状態だったのだ。
江夏方面も江陵方面も部隊が通常時の防衛配置にあるとは言い難く、楽進軍の侵攻をはばむために東に向かった部隊を呼び返したりするなど、慌ただしい対応を迫られることになった。
「すぐに江夏の蘇都督の元へ行け。沔水の守りは何としても維持するのだ!」
魯粛は曹操軍が漢水沿いに南下していると聞き、まず魯粛が危惧したのは沔水北岸の防衛線が突破されることだった。
沔水は漢水の下流に当たり、そのまま江夏郡で長江に注いでいる。
つまり、沔水北岸の防衛線が突破されてしまうと、そのまま長江にまで曹操軍の進出を許すことにつながってしまう。
長江は孫権の本拠である揚州と荊州をつなぐ生命線であるので、沔水北岸の防衛は最優先になってくるのだった。
魯粛は江夏郡を守る孫堅軍のうち、沔水を守る蘇飛の陣営に急使を飛ばし、北上して漢水のなるべく上流で曹操軍を阻止するよう指令を出した。
襄陽から漢水沿いを南下していく場合、当初は両岸に山が迫っている地勢となっている。
その辺りで曹操軍の侵攻を防ぐというのがその目的である。
ただ、同じことを考える者は他にもいた。
江陵の北側に進出し、軍を展開していた劉備の腹心関羽である。
彼は南郡北部の山や谷に居住する「蛮」と呼ばれる少数民族の調略を進め、また臨沮県など江陵北部の諸県にも影響力を強めていた。
関羽は楽進らが南下してくることを知ると、それら少数民族や諸県の兵をも加えて軍勢を整え、漢水沿いの青泥という地で迎え撃つことにしたのである。
青泥は漢水に隣接する山であり、十分な水軍戦力を持たない曹操軍の南下を阻止するには最も適した地であった。
かつて袁紹軍の顔良を斬って武名を轟かせた関羽だが、劉備に託された下邳城を守り抜くことができず曹操に降伏するなど、これまでなかなか指揮官として傑出した才を見せつけることはできていなかった。
しかし、彼が素早く漢水沿いに自軍を展開し、しかも川沿いの高地という最も守備しやすい地をいち早く押さえたことは、彼の戦術眼の確かさと指揮能力の高さを示している。
関羽は自信家と言っていい性格で、名士には嫌悪感を抱いていたが、部下の兵士たちをよく可愛がる男だったので、関羽軍の士気は非常に高かったのだ。
関羽軍と蘇飛軍が青泥の防衛線を固めたことで、楽進軍の進撃は停滞することになった。
青泥の西は漢水であり、東は山地が南北に走っている。
漢水を利用しての機動ができない以上、楽進軍には正面突破しか青泥を落とす方法はなく、勇猛な楽進もなす術がなかったのだ。
だが、曹操軍にはもうひとり大きな指揮権を持った将がいた。
江夏太守である文聘は、侵攻路を大きく東に迂回させ、溳水沿いの安陸県を拠点として雲杜県をうかがったのだ。
雲杜県は青泥から見て東の山地を越えた向こうにある地であり、周囲を山に囲まれた地形を持っている。
ここは襄陽から江夏郡へ向かうルートのひとつが通っているが、山沿いの狭い土地を通るために守りやすく攻めにくかった。
孫権軍はここをわずかな兵で守っていたが、その地形の有利さを考えれば本来問題のない措置だった。
しかし、文聘が大きく東から回り込み、開けた南側からの攻撃を試みたことで、途端に雲杜県は危うくなった。
こうなると、絶対防衛線である沔水のすぐそばまで曹操軍が進出しただけでなく、関羽が陣取る青泥も後方から攻撃を受ける可能性が出てきた。
やむなく関羽は信頼する麾下の精鋭のみを連れて文聘軍に対処するため東進し、雲杜県へ向かった。
関羽軍の統率はやはり優れており、文聘軍の手に落ちるまでに雲杜県へとたどり着くことができた。
強行軍に疲れているはずの関羽軍だったが、敵地を長距離移動して疲れがたまっているのは文聘軍も同じであり、関羽は文聘軍を何とか雲杜県から追い払うことに成功した。
関羽は安陸県の西に位置する尋口まで文聘軍を押し戻し、安陸県の奪回に向けて攻勢に出た。
ところが、関羽がいなくなった青泥の防衛陣は状況が一変していた。
関羽は南郡の少数民族たちや臨沮県長の杜普、旌陽県長の梁大といった者たちを守備部隊として残していたが、彼らは自分たちが関羽に見捨てられたと感じ、たちどころに士気は低下した。
そしてにわかに士気が衰えたところを楽進軍に急襲され、少数民族たちは降伏、諸県の県長たちは追い散らされた。
楽進は逃げる諸県の兵たちには目もくれず、東に向かって進み、尋口で文聘軍と合流した。
目まぐるしく動く戦況のなかで、魯粛は尋口を大事な防衛拠点と認識し、増援を送り込んでその死守をはかった。
事態は再び攻める曹操軍に対し、孫権・劉備連合軍が尋口で支えるという構図に置き換わったのだ。
戦況は再び膠着状態になり、予断を許さない状況が続いた。
皮肉なことに、この決着をつけたのはこの戦場に関与した誰でもなかった。
東の揚州で曹操率いる本軍が撤退を開始したため、荊州で攻勢に出ていた楽進らの軍も撤退したのだ。
曹操本軍の「くびき」を逃れた孫権の本軍がいつ荊州に援軍としてあらわれるとも限らないため、楽進らは大事を避けたのだ。
こうして荊州は熱戦から冷戦状態へと戻っていくことになったが、それにも関わらず劉備の陣内ではある巧妙な策を思いつき、益州攻略につなげようとしていた。