第165話 張松、劉備を訪ねる
鄴を発った張松が向かったのは、南の荊州であった。
許の朝廷に参内して暇乞いをした後、南陽郡・南郡と曹操軍が荊州のうちで実効支配する地を通り、そのまま西へ帰還するかと思いきや、彼が足をのばしたのは南郡の南端にある公安という城市であった。
ここは先年新たに設けられた城市で、築城したのは劉備である。
劉備は荊州南部の4郡を実効支配していくに当たり、新たな拠点として長江南岸に公安城をつくったのだった。
すなわち、張松の目的は劉備と会見することであった。
(魏公、丞相などと偉ぶってはいるが、実際はケチな男よ。あのような者に尻尾を振っていても何も得るところがないわ。それならば、奴の最大の敵とよしみを通じてやるのだ!)
曹操に適当にあしらわれ、何の官職ももらえなかった張松は、独断で主君劉璋の外交戦略を転換する決意を固めていた。
曹操に北から張魯を攻めてもらうのではなく、別の勢力に張魯と共闘してもらうことにしたのである。
張松がその候補として選んだのが劉備であったのだ。
劉備と言えば、今生き残っている群雄のなかで最も古くから曹操と戦ってきた男として天下に知られている。
まさに張松の意趣返しと言っていい選択であった。
「よくぞ参られた。」
張松の予定外の行動は、大成功をおさめた。
先ぶれをしてはいたが、張松が公安城の城外まで来ると、何と城主の劉備が自ら出迎えた。
もったいぶった引見まで日数を要した曹操とはえらい違いである。
劉備は噂通り腰の低い人物で、鄴での不愉快な出来事でささくれだった張松の心は一気に穏やかさを取り戻した。
出された酒食の豪華さは鄴でのそれの方が勝っていたかもしれないが、大事なものはそこではないのだ。
内容としては表敬訪問の域を出なかったが、張松は劉備に対して心酔に近い想いを抱くにいたった。
腰が低いだけでなく、劉璋側の事情にもよく通じている。
同じ漢の皇室に連なる間柄として、何か困りごとがあれば援助を惜しまない、と劉備が言ったときには、張松は思わず張魯に対抗するための援軍要請を口に出しかけた。
さすがに越権行為が過ぎるのであわてて飲み込んだが、すっかり劉備シンパとなった張松は、帰還したら劉備との同盟を強く主張しようと心に決めた。
「のう孔明、あれで良かったのか?」
「はい。張子喬どのは何とか取り繕っておられましたが、将軍と話せば話すほど目が輝き、口調が弾んでおられました。将軍に対して好意を持たれた証と言えましょう。」
張松が帰った後、劉備は諸葛亮に今回の会談の首尾について尋ねた。
劉備自身には十分手ごたえがあったのだが、この若き参謀に確認しておきたかった。
どうやら、諸葛亮も会談の成果には手ごたえがあったようだ。
張松がやって来るとわかった段階で会談の段取りを考え、事前に必要な情報を劉備にレクチャーしたのは諸葛亮である。
彼が望む結果が得られたとわかり、劉備はホッとした。
劉備は、もうひとりの男に向かって語りかけた。
「士元。そなたの目算では、やがて劉季玉どのから援軍の要請が来る。そこでわたしが益州へ赴き、やがては益州を得る。」
「おっしゃる通りです。わたしといたしましては、入蜀後に兵を挙げ、益州を攻め取るべきと考えておりますが。」
「それはなるまい。この荊州のときもそうであったが、同族から武力でもって奪い取っては天下の信を失う。益州に参ったら、恩徳を施して粘り強く益州人士の心をつかみたい。」
「一見迂遠な道となりますが・・・この荊州の事例もあります。最善の方策と申せましょう。」
劉備と諸葛亮、それに龐統、字を士元というこの男が張松との会談を重視したのは、彼らが益州に対する野心を抱いているからに他ならない。
「蜀」という古名でも知られる益州は、周囲を最低でも2千から3千メートル級の山々に取り囲まれた広大な盆地であり、攻めにくく守りやすい土地であった。
現代ではこの盆地を潤す4つの大河から「四川」という地名で呼ばれている通り、豊かな水に恵まれた肥沃な土地でもあり、ここだけで一国を建てることが可能な好立地である。
強大な魏国を建てた曹操に対抗するため、既存の荊州南部だけでなく益州をも併呑することが次の目標として劉備たちには浮かび上がっていた。
張松の来訪はまさに渡りに船であったのだ。
ここで好印象を与えておけば、やがて劉璋から対張魯への援助要請が寄せられ、平穏裏に入蜀、つまり益州への進駐が実現すると見込んだのである。
ちなみに龐統は諸葛亮に近い荊州名士のひとりである。
諸葛亮と並び称される逸材で、当初は周瑜のもとで働いていて呉郡の名士とも広く交友を持っていた。
だが、荊州出身者の多くが劉備の招きに応じていることを見て、龐統もその臣下となった。
ただ、当初劉備は龐統をあまり高く評価せず、桂陽郡の耒陽県という辺鄙な地の県令とした。
周瑜のもとでそれなりの評価を受けていた龐統はやる気を削がれてしまい、仕事にまじめに取り組まなかったために免官となった。
このままでは龐統は劉備のもとで芽が出なかったはずである。
その苦境を救ったのが魯粛であった。
「龐士元は百里四方の地で用いるべき才能の持ち主ではありません。治中や別駕など州牧の補佐官たる任務につけて初めてその才能を発揮する男です。」
魯粛はそう書かれた書簡を劉備のもとへ送り、龐統を劉備の補佐官として重用するよう進言した。
彼が龐統のために人肌脱いだのは、龐統に恩を売る目的もある。
だが、もっと深い理由として、孫権陣営において顔の広い龐統が劉備の重臣となれば、親孫権派として両勢力との折衝役として機能するであろうという思惑があった。
こうして何とか劉備の再任用を受けた龐統であったが、魯粛の言の通り補佐官に抜擢されるとその才能を遺憾なく発揮しはじめた。
特に戦略面での才腕を劉備から高く評価され、組織管理や内政により持ち味を発揮する諸葛亮とともに劉備のブレーンとして大きな支えとなっていた。
劉備の軍師格となった龐統は、劉璋が内では益州名士の統制に苦労し、外では漢中の張魯の圧力に耐えかねていることを見抜き、それにつけこんでいずれ益州を勢力下におさめるよう進言していた。
今回の張松来訪はそれを実現する好機であり、龐統はそのためのシナリオを即座に描き、実行したのであった。
さて、劉備との会見に満足して益州へ帰還した張松は、あえて城門が閉じられる直前の夕刻に入城を果たした。
そうなると、張松が主君の劉璋に復命するのは翌日となる。
こうして一晩の猶予を稼ぎ出すと、張松はその晩ひそかに人と会った。
相手はかねてから仲の良い同僚の法正、字を孝直という男と法正の同郷で孟達、字を子度という男であった。
彼らは劉璋の器量では益州を保ち続けることができないと考え、誰か別の優れた人物を迎え入れようとの構想をひそかに温めていた。
張松は主君への復命の前に仲間への報告を優先したのである。
その夜、彼らは遅くまで互いの意見を交換し合った。
翌日、張松は劉璋に復命した際に曹操と通交することの愚を説き、むしろ劉備と親善を深めるべきだと主張した。
劉璋という人は人柄はすこぶる良いが、定見というものに無縁の人である。
張松の言葉を聞くと、たちまちそれに賛意を示し、言われるままに劉備を益州に迎え入れて張魯と戦ってもらうことを要請する使者を送ることにした。
使者の人選についても張松の意見が取り入れられ、正使が法正、副使に孟達が起用されることになった。
法正は一旦はこの使者の任を辞退したが、それはあくまで謙譲の姿勢を見せるためのものであり、かねての打ち合わせ通りであった。
張松の進言に従って再度劉璋が法正らに使者を命じると、今度は任務を引き受けた。
法正と孟達はそれぞれ2千の兵を従え、劉備のもとへ向かった。