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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第164話 曹操、魏公となる

 213年4月、曹操は鄴へと帰還した。

 勝ったと喧伝していたが、実際のところは小競り合いに終始したと言ってよく、これといった戦果はなかったことから、戦略的には失敗に終わった遠征であった。


 ただ、表に出せない戦果を曹操は得ていた。

 遠征にかこつけて荀彧を朝廷から引き離し、自殺に追い込むことに成功したのだ。

 これで曹操政権内部において曹操の魏公就任をはばむ邪魔者はいなくなった。


 5月、御史大夫の郗慮が鄴に派遣され、曹操を魏公に封じるという献帝の詔勅を届けた。

 帰還後1ヶ月程度とはえらく手際がいいものだが、むろん荀彧の死後まもなく董昭ら推進派が根回しを開始した結果である。

 ほぼ荀彧のみが防波堤になっている状態だったので、彼がいなくなった今となっては何者にも押しとどめることはできなかった。

 荀彧の後任には名士として名高い華歆が就いたが、彼は積極的に曹操の魏公就任を後押しする、言わば曹操の腹心であった。

 献帝はお手盛りの詔勅に璽を捺すしかほかはなく、ただそれも合わせて2度曹操の辞退を受けた。

 それは曹操が献帝に重ねて要請されてやむなく受けたという形式を取るためだ。

 3度目の正直は、曹操の帰還を待つばかりとなっていたのだった。


 ともあれ、曹操は魏公となり、九錫を賜り、独自の朝廷を開いて丞相や群卿百官を置くことを許された。


 すでに曹操は前年の正月に3つの特権(朝廷で皇帝に目通りする際に名を名乗らなくても良い権利、朝廷に参内した際に小走りしなくていい権利、剣を身につけたまま参内できる権利)を得て、長い漢王朝の歴史でも名宰相と呼ばれた蕭何や専横をほしいままにした董卓らしか許されなかった立場に立っていた。

 また、今回与えられた九錫は本来天子のみが使用できる車馬や衣服などの物を使用する権利を認められたもので、よほどの功績があった者にのみ認められるものだ。

 曹操の前に受けた者は前漢を廃して新王朝をたてた王莽しかおらず、それはいずれ曹操が献帝の地位をおびやかすことを暗示しているように思われた。


 しかし、今回認められた魏国の創設はそれらをはるかに凌駕する、過去に例をみないものであった。


 魏国は冀州の魏郡、趙国、中山国、常山国、鉅鹿郡、安平国、甘陵郡、司隸の河東・河内の両郡、青州の平原国といった10の郡国より成り、黄河以北のうち最も肥沃で人口が多い土地が曹操の領国と認められたことになる。

 そして魏国が独自の「朝廷」を置くことが認められたことで、漢王朝から事実上魏国が独立した形となった。


 これは前漢を簒奪した王莽すら行わなかった措置であり、より巧妙な乗っ取り策であった。

 王莽は「仮皇帝」や「摂皇帝」としてまず共同皇帝の地位に登り、そこから帝位を奪って新しい王朝を開いた。

 一方、曹操はまず王朝内に独立国をつくり、そこに人を移して漢王朝を名ばかりの存在にし、乗っ取りを図ったのだ。

 これならば曹操が道半ばで死去しても、後継者に巨大な国が相続されて乗っ取りを継続できるのだ。


 この乗っ取り策は「禅譲(天命を失った天子が徳のある臣下にその位を譲ること)」の思想と組み合わせて非常によくできたシナリオであり、以後の中華において多用されていくことになる。

 皮肉なことに、曹操の子孫もまたその被害者になっていくのであった。


 魏国の成立が決まると、曹操やその腹心たちは新しい国を形にするべく動き出した。

 まず、行政組織についてはすでに曹操は冀州牧を兼ねていたことから、10の郡国のうち7つまでは支配体制がほぼ完成していた。

 よって、各郡国の統治体制についてはそれほど大きな混乱もなく整備が進められた。

 また、魏国の朝廷についても既存の丞相府を発展させる形での構築が企図されており、方向性ははっきりしている。

 ただ、曹操自身の監督のもと行うべきことが多く、この年は曹操が鄴を動くことはなかった。


 7月、魏国の社稷と宗廟が整備され、魏の朝廷の基礎が固められた。

 社稷は国の神を祀る社のことで、そもそも皇帝や王は天子としてここで神を祀ることが本来課せられた役目である。

 表向きは公爵と言いつつ、実際の曹操が皇帝に比肩する地位に事実上登ったことを示すものだった。

 また、宗廟とはその国の君主の祖先たちを祀った廟のことだ。

 祖先たちは死後神に等しい存在とされ、その祭祀を絶やさぬことが残された子孫の君主としての責務となる。

 つまり、曹操はまず魏という国の根幹となる、精神的な中心を整備したのだ。


 11月には魏の官制の整備がひとまず完了し、尚書令や尚書、侍中、六卿がそれぞれ任命された。

 腹心中の腹心というべき尚書令には荀攸が就き、徐奕らが尚書に、杜襲らが侍中となった。

 荀攸は今は亡き荀彧の一族であるが、むしろ曹操の魏公就任を積極的に推進する立場にあった。

 乱世には漢王朝を支える藩屏となる国が必要であり、魏国は10の郡国を有する広大な国ではあるが、かつて周王朝の天子を助けた魯国より実質的には小さいと荀攸は主張し、曹操の魏公就任を正当化したのだ。

 荀攸の尚書令就任はその功績に報いるという理由はあっただろうが、荀彧の誅殺により荀家と関係が悪化することをできるだけ避けたいという曹操の意思もあっただろう。

 また、徐奕や杜襲は丞相長史として曹操を支えてきた人物であり、魏公府が丞相府を発展解消させたものであることを示していた。


 ……………………………………………………………


 時間は1年以上遡り、曹操が揚州遠征に向かう以前のこと。

 遠征の準備や荀彧との駆け引き、魏国創設を見越しての準備などに忙しい曹操を南方から珍客が訪れた。


「何!?益州の劉季玉から使者だと?」


「はい。別駕の張子喬と名乗る者が参り、公に謁見を願い出ております。いかがいたしましょう。」


 益州牧の劉璋が張松という男を使者として送ってきたのだ。

 劉璋は今のところ曹操と国境を接していない勢力だが、曹操が次の攻略目標に定めている張魯の南隣の勢力でもある。

 また、益州は長江の上流に位置することから荊州に大きな影響を及ぼす土地でもある。

 忙しい時期ではあったが、曹操は張松を引見することに決めた。


「お初にお目にかかります。劉璋が臣、張松にございます。丞相閣下におかれましてはご機嫌麗しく、大変喜ばしく存じます。さて、我が主は・・・漢中の逆賊張魯に・・・丞相閣下の徳をもって・・・」


 よくしゃべる男だった。

 張松は小男で風采が上がらないが、実に弁の立つ男のようであった。


 まるで機関銃のようにしゃべりまくる目の前の男に対し、曹操の第一印象は最悪であった。

 張松の言うことをよくよく聞けば、劉璋は父の劉焉の時代と同様に漢中の張魯の脅威を訴え、租税を中央へ納められないこと、曹操の力で張魯を排除してほしいとのことだ。

 曹操にしてみれば、体よく利用されるだけのように感じ、気分が良くないのは当たり前だ。

 それを眼前の無礼な小男が増幅しているのである。


「いずれ漢中には親征するつもりでおる。それまで待つがいい。」


 曹操は張松が望む回答を与えたが、その口調はひどく冷えたものになった。

 ただ、これだけであれば、曹操と劉璋の関係はこれまで通り一応友好的なものとして保たれ、張松は無事使者の任を果たすことになっただろう。


 しかし、曹操が抱いた劉璋や張松への嫌悪感はこれまでと違う対応を生んだ。


 実は劉璋がこれまで2度使者を送ってきており、曹操が劉琮を下して荊州を得た直後であった1度目には劉璋に対して振威将軍の位が授けられ、2度目には使者の張粛が益州広漢郡の太守に任じられた。

 ちなみに張粛は今回の使者である張松の兄である。


 曹操は劉璋が積極的に張魯を攻撃する意思を示していないと判断し、今回は劉璋にも張松にも官職を与えないと決めた。

 厳密には張魯に対して積極的に攻勢に出るなど、目立った功績を曹操に見せた場合に与えると決めたのだ。


 だが、これに張松はへそを曲げた。

 彼は同じように使者を務めた兄が太守となったのに、自分には何もなかったのだ。

 単純に妬ましいし、目立った成果がないことから使者の任を果たしていないと劉璋に見られてしまうと思ったからだ。


「ふん、丞相になって荊州を得た途端にこの高慢ぶりか。そっちがそういう態度なら、こっちにも考えがあるわ。」


 張松は曹操への悪態をつきながら帰路についた。

 しかし、その帰り道は行きとは大きく異なっていた。

 そしてその帰り道の変更が、曹操が永遠に益州を手に入れられない結果をもたらすとは、このときの曹操にはわからないことであった。

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