第162話 荀彧、揚州へ征く
212年10月、曹操は突如孫権討伐の軍を興した。
冀州の反乱を収め、再び西に軍を出して涼州や益州北部の漢中郡への攻勢を強めると予想されていただけに、それは少し意外な軍事行動であった。
突如、という言葉がピッタリとくるほどこの揚州遠征は性急であり、主だった将軍や青州の臧覇など揚州に近い地域の諸軍、これまで曹操が南方遠征時には重視し続けてきた水軍が動員されないなど、「曹操らしくない」遠征であった。
それでも曹操は軍を率いて本拠の鄴を出発し、揚州遠征の後方基地とした自身の故郷でもある豫州沛国譙県に向かい、翌11月には譙に到着して遠征軍の全軍を集結させはじめた。
ここを後方基地に選んだ曹操の意図は明白である。
譙は淮水の支流である濄水沿いにあり、そのまま河をつかって進んでいけば、淮水に入ることができる。
淮水は黄河と長江に次ぐ大河で、2つの大河の間を西から東に流れているので、揚州を北から攻めるにしても西から攻めるにしても輸送路として重要となる。
なお、淮水との合流点から西へ遡ると、揚州の長江西岸の重要都市である寿春に至る。
そこから南東に進んだ合肥城が曹操軍にとって長江西岸方面の最前線であり、巨大な巣湖を挟んで孫権軍の最前線である居巣城、さらにその南東にあって巣湖から流れ出た濡須水が長江に合流する地点である濡須口、その間に点在する孫権軍の拠点が今回の攻略目標であった。
もし曹操軍が濡須口までを奪取することができれば、孫権は大動脈である長江を分断されることになる。
孫権は本拠を揚州呉郡呉県から丹楊郡の秣陵県に移したため、長江が分断されれば荊州の孫権軍は孤立化する。
以後、この辺り一帯は曹操軍と孫権軍にとって互いに譲れない重要な係争地となっていくことになる。
曹操軍が譙に向かって集結を始めたころ、許の朝廷に曹操からの上奏が舞い込んだ。
それはこれまで通り留守番役を務めていた荀彧の身に大きな変化をもたらすものであった。
「彧を譙に呼び寄せたい、と?」
曹操の上奏文を読んだ献帝は首を傾げている。
上奏文に何かひっかかりを感じているようである。
「彧よ。許す、この文を読むがよい。操がそなたを軍の慰労のため譙へ呼び寄せたいと言ってきておる。」
傍らに佇立していた荀彧は、押し頂くようにして献帝から曹操の上奏文を受け取った。
さっと目を走らせると、献帝が言うように曹操が荀彧を譙に呼び寄せることを願う文面であった。
軍の慰労のため、荀彧を献帝の使者として譙に派遣してほしい、とある。
(何気なく書かれてはいるが、慰問の使者を指定するということは異例だ。尚書令であるわたしを譙に呼びたいがためのようだが、いったいどういう意図があるのか・・・?)
荀彧は曹操に仕える立場であるが、尚書令という献帝の筆頭書記官のような役職にあり、曹操が勝手に呼び寄せることができない。
だからこそ、上奏文でもって荀彧を軍の慰労の使者として指名するというやり方をとったのだろう。
では、そうまでして曹操が荀彧を呼びたい理由とは何なのか?
「操はなぜ、そなたを譙に呼びたいのであろうか?」
読み終えた後も少しばかり黙考する荀彧に対し、献帝が声をかけてきた。
その面上には心配そうな色が浮かび、声色にも気づかいが感じられる。
(叡智にあふれ、徳も備えておられる。帝はまさしく名君と呼ぶにふさわしい。)
常日頃から感じていることだが、このときほど荀彧は心からそう思ったことはない。
献帝は曹操と荀彧の仲がこのところうまく行っていないことをよく知っているし、そのうえで曹操が荀彧を事実上呼び出そうとしていることに不信感を感じている、
そして、荀彧の身を心から案じてくれているのだ。
賢く、思いやりがある、理想的な英主であると荀彧の目には映っていた。
この皇帝であれば、漢王朝の再興も決して絵空事ではないと荀彧は思うのだ。
「ご心配には及びません。慰労の任、しかと果たして参ります。」
荀彧はあえて力強く答え、いささかも不安めいたものは外に出さなかった。
曹操の意図はわからない。
だが、こうして一応の順序を踏んで実力者の曹操が要請してきている以上、その通りにしなければ献帝にどんな迷惑がかかるかわからない。
「頼んだぞ。」
献帝はなお不安そうだったが、ともかくも荀彧を譙へ派遣する詔勅に璽と呼ばれる皇帝専用の印章を推した。
これにより荀彧の派遣が決定した。
211年12月、荀彧は譙に到着した。
皇帝の代理である荀彧に対しては、曹操と言えど跪く必要がある。
久しぶりの主君との邂逅を奇異なものに感じながらも、荀彧は献帝の詔書を曹操に向かって読み上げた。
その後、下賜された酒食を担当官に引き渡した。
これで荀彧の主な役割は終わりだが、これらの手続きが終わった後、荀彧は曹操の呼び出しを受けた。
早速呼び出された本当の用件に入るのだな、と荀彧は覚悟を固めた。
「よく来たな。実は、そなたに来てもらったのは、ただ軍の慰問のためではない。そなたにはともに揚州に征ってもらう。すでに許に向けてそなたを尚書令から光禄大夫参丞相軍事に転任としてくれるよう上奏文も送ってある。良いな?」
「・・・わかりました。」
荀彧としては、そう答えるしかなかった。
朝廷の人事については、荀彧の意思でどうこうできるものではない。
曹操の上奏文を止めることはできないし、献帝がそれをどう扱うかについて意見することもできない。
さらに言えば、力関係を考えると献帝が曹操の上奏を拒否できるとは考えにくく、荀彧が揚州遠征に同行することは決定事項と言ってよかった。
(これで、わたしの生殺与奪権は完全に丞相に握られることになった。これから、どんな無理難題が降りかかるやら・・・。)
予想はしていたことだが、荀彧の心は沈んだ。
尚書令から事実上「解任」し、軍職に移すことで曹操は荀彧に対する生殺与奪権を得ることになる。
どういうことかと言うと、尚書令は皇帝の秘書官長のような役割なので、その任免は必ず皇帝の裁可がなければならない。
一方、軍職は総司令官に大きな権限が与えられており、中でも「斧鉞」は皇帝にいちいち上奏しなくても軍律を乱した者などを処刑する権限を象徴している。
これは刻々と変わる戦況に対応するため、「将外にありては君命も受けざる」という言葉を体現したものだ。
つまり、曹操にとって尚書令として朝廷内部にいる荀彧を免職することは難しいが、遠征先で自分の指揮下に入れてしまえば、後は煮るなり焼くなり自由にできるのだ。
それを瞬時に察知した荀彧は、今後自分を罰するために無理難題が押しつけられることを予想し、曹操が自分に対して抱く怒りの大きさを悟ったのだった。
「さて、そなたにはこたびの遠征の戦略を練ってもらいたい。かつて、そなたは軍を南方に向ければ孫仲謀はひれ伏すに違いないと申していたな。こたびはそなたの手腕を存分に見せてもらいたいのだ。」
「・・・承りました。」
やはり来た、と荀彧は思った。
確かに赤壁の戦い以前には、荀彧は大軍で圧力をかければ孫権が降伏するという見通しを持っていたが、今ではそんな甘い考えを持っている者は誰もいないだろう。
曹操もそれをわかっていて、おそらくこの遠征を成功に導くつもりは端からなく、失敗の責任を荀彧に押しつけるつもりなのだ。
荀彧は曹操軍に同行して寿春まで進んだが、そこで動けなくなってしまった。
旅の疲れもあっただろうが、将来を悲観して心身に不調が生じたのであろう。
荀彧はかろうじて巣湖南岸を進むルートを使うことを提案した後、病床についた。