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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第161話 荀彧、曹操と対立す

 211年9月15日、馬超らを破った曹操は、逃げた敵を追って西へと軍を進めた。

 この機会に関中諸将を一掃し、さらには涼州にまで攻め込んで一気に西方の憂いをなくすつもりであった。

 曹操は夏侯淵にも指示し右扶風の平定に向かわせ、現在動員しうる最大の兵力でもって関中の平定に取りかかった。


 まず曹操が手をつけたのは、渭水南岸から涼州安定郡に逃げ戻っていた楊秋の討伐であった。

 安定郡は司隸に隣接しており、関中の安全保障のためには押さえておきたいうえに、涼州方面の玄関口のような立地であるために文字通り「安定」させておきたい要地である。

 曹操は無理攻めをせず、楊秋の拠点をそれぞれ包囲する戦術に出た。

 馬超らの行方がつかめない以上、余計な出血を自軍に強いるべきではないと考えたのだ。


 一方、右扶風に進軍した夏侯淵軍は対照的に目覚ましい軍事行動を展開した。

 右扶風西部の隃麋、汧の両県には「氐」と総称される遊牧民たちが多く居住している。

 彼らは馬超らに協力し、その騎兵部隊として力を発揮していた。

 曹操は騎兵部隊を指揮し、機動力に秀でた夏侯淵に騎馬戦が得意な異民族の討伐を任せたのだ。

 夏侯淵は期待に応え、迅速に進軍して両県に至り、防衛体制の整わない氐の諸族に圧力をかけ、ほとんど戦うことなく支配下におさめた。


 すみやかに右扶風の支配を回復することに成功した夏侯淵はそのまま北上して安定に向かい、曹操と合流した。

 関中の大部分を取り戻し、勝利の勢いに乗る大軍を擁する曹操に対し、楊秋が勝つ見込みは無きに等しかった。

 211年10月、楊秋は諦めて降伏を申し出、曹操はこれを寛大にも許すことで他の将たちが投降しやすいように図った。


 曹操はこのまま腰を据えて涼州を平定していく腹積もりだったが、12月になるとそれを許さない大事が東方で出来した。

 冀州で反乱が起ったのだ。

 曹操は冀州魏郡の鄴に新たな本拠を構えようとしており、言わばお膝元で起こったこの反乱は曹操の関中駐留を断念させるものだった。


 曹操は涼州侵攻をひとまず断念し、夏侯淵に関中の平定を委ねることにした。

 左馮翊には有力部将である梁興が逃げこんでおり、夏侯淵にはそれらの討伐と涼州方面からの敵勢の侵攻を食い止める重要任務が任されることになったのだった。

 この抜擢は成功することになり、夏侯淵は積極的な軍事作戦を展開し、翌212年春ごろまでに関中をひとまず平定することに成功する。

 曹操は腹心で丞相長史の徐奕を長安に残して内政面や戦略面で夏侯淵を助けさせた。

 しかし、涼州攻撃をやめたことで馬超を追い詰めることはできず、再起を図る彼を事実上フリーにしてしまったことで、涼州の騒乱の芽は残ったままとなってしまった。


 関中を夏侯淵に任せた曹操は曹仁を先鋒として冀州に向かい、鄴に入った。

 まず曹仁に先発させた後、自分も軍を率いて討伐に参加するつもりであった。

 だが、反乱軍の足並みは揃っておらず、曹仁は苦も無くこれらを打ち破った。

 結局、曹操が戻るまでもなく反乱はあっけなく終結してしまったのだ。


 このタイミングで再び西方へ軍を出すという選択肢もあったが、曹操は鄴に腰を据えて別の思惑で動きはじめた。

 そしてそれは、揺らぎ始めていた荀彧の命運を決定的に暗転させるものとなったのだった。


 ……………………………………………………………


(例えひとりになろうとも、断固反対せねばならぬ。)


 荀彧は悲壮な決意を胸に秘めて曹操への謁見に向かっていた。

 彼は依然として尚書令という要職にあり、一見して曹操と献帝をつなぐ立場に変わりはなかった。

 しかし、内実はもはや曹操の信頼を失い、見かけ上の地位を有するのみとなっていた。

 その見かけの地位すらなげうつ覚悟で、荀彧は曹操のもとへと急いでいた。


「文若か。久しいな。」


 荀彧を引見した曹操は、一言そう言った。

 その言葉の端々に冷えが感じられる、と荀彧は思った。


「わざわざ許から参るとは、何か大事でも起こったか。」


「大事と言えば、大事。五等爵と魏公冊封の儀でございます。」


 荀彧の言葉を聞き、曹操はふうっと息を吐いた。

 やはり来たか、と言いたげな顔をしている。


 荀彧が話題にした「五等爵と魏公冊封」とは、軍師祭酒の董昭が提唱した「五等爵制の復活」と「曹操の魏公就任」のことであった。


 五等爵はこの中華において戦国時代まで存在した爵位のことだ。

 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つからなり、かつてはその上に王が君臨していた。

 爵位が与えられるのは貴族だけで、しかも基本的に世襲であった。


 これに対し、漢王朝は前王朝の秦から二十等爵制を引き継いでいる。

 これは上層階級だけでなく庶民にも爵位を与える制度で、戦功を立てたり国家に対して重要な貢献をした者に爵位を与えられるようにしたものだ。

 もっとも、庶民が与えられる爵位は下から18爵位だけで、最上位の「侯」と2番目の「関内侯」の爵位に就けるのは上層階級だけであった。


 五等爵制の復活は、曹操の魏公就任とセットになっている。

 これまで曹操の覇業を助けて功績のあった臣下に対して爵位を与えるため、曹操を最上位の公爵にしようと言うのである。


 ただ、本音は別のところにある。


 魏公である曹操を君主とした魏国をつくり、漢帝国のなかにもうひとつ事実上の独立国を誕生させようとしているのだ。

 何しろ、董昭が構想している魏国の範囲は魏郡、趙国、中山国、常山国、鉅鹿郡、安平国、甘陵郡といった冀州西部に加え、司隸に属する河東・河内の両郡、青州に属する平原国を合わせた10の郡国に及ぶ。

 これは曹操が本拠とする魏郡の鄴を中心に黄河以北の最も人口が多く肥沃な土地の多くが曹操のものとなることを意味していた。


 かつて曹操は袁氏から冀州を奪った後、現在の13州を9州に再統合し、自分が州牧を務めている冀州の範囲を拡大しようとしたことがある。

 今回の案はそれよりも露骨に曹操の権限拡大を図るものであり、明らかに将来献帝に取って代わろうとするものだ。

 漢王朝の復興を目指す荀彧にとって、受け入れられないものであった。


「丞相が董公仁によって道を誤ることを憂い、この文若つつしんで諫言を申し上げます。五等爵制を復してはならず、魏公の爵位をお受けになるべきではありません。」


「それはなぜだ?俺だけが爵位を受けるわけではないぞ!?功臣の功績に報いるため爵位を一新し、封土とともに彼らに授けるのだ。そなたにも封爵を考えておる。何の不都合があるというのか?」


「丞相、よく思い出してください。あなたが董卓に対して兵を起こしたのは、朝廷を救い、 国家を安定させる為ではありませんでしたか?あなたがこれまで天下の輿望を集め、中原や河北を制することができたのは、あなたが心からの帝への忠誠を持ち、偽りなく謙譲さを示してきたからなのです。」


「・・・」


「もしここで野心をあらわにするようなことがあれば、天下の心ある士はそっぽを向くことでしょう。君子として尊敬される人は、他人に対して徳義によって行動し、利益を与えることのみを考えません。利益のみを与え続ければ、利に敏感な者ばかり周りにはびこり、真に丞相を助けようと真心を持って仕える者はいなくなってしまいます。だからこそ、このようなことをしてはいけないのです。」


「わかった、下がれ。」


「では、五等爵制の復制と魏公就任はないということでよろしいですね?」


「くどい。」


「失礼いたします。」


 きびすを返し、曹操のもとを退出しながら、荀彧は冷たい風が自分の身体のうちを吹き抜けていくような感覚に襲われた。

 ここまで主君に盾突いた以上、さらに不興を買ったのは間違いない。

 引退を強いられるか、それとも死を命じられるか。

 荀彧は己の行く末の暗さを、自身の身体の冷えとして感じ取ったのかもしれなかった。

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