第158話 潼関の戦い(前編)
潼関が落ちたという知らせは、数日で曹操のもとへもたらされた。
「しまった・・・。衛伯儒の申すとおりであった・・・。」
張魯を討つとして長安へ軍を送り込めば、関中の諸将を刺激して反乱につながりかねないと言ったのは衛覬である。
その進言を黙殺したのは他でもない曹操であり、言わばこの大反乱を招いた責任は曹操の判断ミスにあったと言える。
夏侯淵軍が長安から河東郡へ退避を余儀なくされたことで、曹操は馬超軍に対抗するだけの戦力を新たに編成する必要に迫られていた。
ただ、そう簡単に編成ができる状態ではなかった。
兵がいないわけではない。
ただ、大軍を引き抜いて西へ投入すれば、南の荊州や揚州方面、すなわち孫権や劉備の侵攻を招きかねない。
その辺りの見極めをしてからでなければリスクが大きすぎるのだ。
とは言え、潼関の馬超に備えるための軍勢は必要だ。
この場面で曹操が起用できる手元の人材と言えば、曹仁しかいなかった。
曹仁に与えられる限りの軍勢を委ね、潼関のすぐ東側に進駐させることにした。
馬超軍を討伐するというよりは、馬超軍の東進を食い止めるための派兵である。
優勢な周瑜軍相手に1年以上江陵城を守り抜いた曹仁であれば、馬超の大軍相手でも数ヶ月はもつであろう。
馬超軍は優秀な騎兵を擁しているうえに、歩兵も騎兵に対抗するために多くが長大な矛を装備しており、寄せ集めの軍勢とは言え侮れない戦闘力を持っている。
曹操は曹仁に対し、決して馬超軍と会戦に及ばないよう言い含めていた。
曹仁は軍をまとめると弘農郡に急行し、馬超らに呼応して弘農各地で蜂起していた反乱軍を各個撃破しつつ潼関へと向かった。
曹仁の指揮能力はやはり卓越しており、その軍はやすやすと反乱軍を討ち平らげ、潼関近郊へと到達した。
馬超らはさらに東に進むことを目論んでいたが、曹仁軍の進軍が急であったために果たせず、両軍は潼関付近でにらみ合う形となった。
また、曹操は河東郡に駐屯する夏侯淵にも軽挙をいましめる使者を送り、河東郡汾陰県に軍をとどめて河東郡で発生するかもしれない反乱に備えるよう促した。
汾陰県は黄河の東岸にあり、馬超軍が黄河を渡って河東郡に侵攻してくる可能性についても考慮した指示であった。
さらに、潼関の北方に有力な夏侯淵軍が存在することは、馬超軍にとっては脅威となった。
曹仁軍に決戦を挑もうにも、夏侯淵軍に側面や背後を衝かれる恐れがあるため、結果的に潼関でのにらみ合いに一役買ったのである。
結局、馬超軍は潼関に大軍をとどめて動けなくなり、曹仁軍とのにらみ合いが2ヶ月以上続くこととなった。
この間、曹操は新たな兵を招集しつつ南方の孫権や劉備の動向を探っていた。
また、馬超の父の馬騰が曹操が新しい本拠として整備しつつある鄴に居住していることから、彼を通じて馬超の説得も試みた。
これよりさかのぼること数年前、馬騰は韓遂と対立して関中や涼州での勢力維持に不安を感じ、曹操が派遣した張既の説得を受けて軍を解体し、息子の馬休・馬鉄をはじめとする一族の多くとともに鄴に移住してきていたのである。
馬超はこの移住に同行せず、馬騰が率いていた兵を再組織して自前の勢力をつくりあげ、父が対立した韓遂に接近して今回の反乱につながったのだ。
曹操は馬騰に対して身の危険をちらつかせてまで説得を強要したが、これまでのいきさつで馬騰と馬超の仲はこじれており、目立った効果はなかった。
どうやら孫権や劉備が大攻勢に出る可能性が低いと見極め、馬超の説得もなかなか進展しない状況を受けて、曹操が潼関以西の奪還を本腰入れて行おうと決めたのは211年7月であった。
3ヶ月ほどをかけて集めた大軍を自ら率いて征西を行うことにし、翌8月には潼関の東に陣取る曹仁軍と合流を果たした。
「さすがに潼関を正面から攻撃するのは愚策であろう。ここは迂回するか・・・。」
早速潼関の馬超軍の様子を自ら偵察した曹操は、潼関の奪取が難しいとの結論を下した。
ただ、北を黄河、南を山に挟まれた狭い土地に作られたのが潼関である。
迂回するとなると、一度黄河を北へ渡り、さらにもう一度西へ渡って左馮翊に入るしかない。
その場合、敵前で黄河を渡らなければならないという危険がつきまとう。
また、そのような危険を冒して渡河に成功しても、左馮翊に移動できなければその行動はあまり意味をなさなくなってしまう。
「よし、徐公明を呼べ。彼から河東の敵状を聞くとしよう。」
曹操は夏侯淵軍の副将を務める徐晃を呼び、迂回渡河の可能性を探ることにした。
徐晃は猛将であるとともに歴戦の指揮官であり、曹操はその能力を信頼して有益な情報を得ようと考えたのだ。
「潼関を攻め破るのは難事だ。河水を渡り、北から敵の背後に回り込みたい。左馮翊へ渡ることはできようか?」
「できます。敵は蒲阪津を手薄にしております。おそらく潼関に戦力を集中し、河水を広く守ろうとの考えは持っていないのでしょう。」
「そうか、ならば成算はあるのだな。」
徐晃の話では、左馮翊と河東郡の郡境をなす黄河の線に展開する敵軍の兵は多くなく、特に重要な拠点であるはずの蒲阪津という港の守備はかなり手薄であるという。
黄河がいくら長大だといっても、軍船が大挙入港できる整備された港の数は少ない。
そのうちのひとつである蒲阪津すら十分な兵力で守られていないということは、渡河作戦の成功可能性が高いことを意味する。
「ええ。もし閣下が渡河を望まれるのであれば、わたしに先鋒をお申し付けください。精鋭を引き連れて河水を渡り、蒲阪津を攻め取ってご覧にいれます。」
「おう、君が行ってくれるか。それならば安心だ。よし、歩騎四千をつけよう。朱文博を副将として連れて行くがいい。」
曹操は徐晃が有益な情報をもたらしただけでなく、自ら先鋒を申し出たことを喜び、彼に蒲阪津を攻撃する任務を与えた。
優れた指揮官である朱霊を副将としてつけてやり、その軍勢と合わせて4千の兵を徐晃の指揮下に入れることにした。
徐晃の渡河作戦は成功した。
徐晃軍は蒲阪津に上陸すると、一戦してたちまち敵軍を追い散らしてしまった。
事前の情報通り、蒲阪津には徐晃軍よりも少ない規模の兵しか駐屯しておらず、しかもその質も悪かった。
彼らは徐晃軍に立ち向かうよりも、自分の身を守ることを優先し、逃げることを選んだのだ。
徐晃は蒲阪津の主要な港湾施設を占拠すると、港外に防御施設を急造して守りを固めた。
突貫工事により新しい防衛陣地はみるみる強固なものとなっていく。
曹操軍が黄河を渡って攻め込んできたという情報は、まもなく潼関の馬超らの耳にも入った。
直ちに徐晃軍を排除するために軍勢が組織されることになり、梁興がその大将に選ばれた。
梁興は反乱軍の首魁のひとりであり、彼が一軍の将となることには何ら問題がない。
ただ、その兵力は全部で5千に過ぎず、実情は梁興の私兵がそっくりそのまま投入されたに過ぎなかった。
馬超らは徐晃軍を大した脅威とみなさず、わずかな兵で対処できると甘く見ていたのだ。
「ふん、なめられたものだな。」
梁興軍の接近を察知すると、徐晃は鼻を鳴らした。
ひょっとすると万をはるかに超える大軍がやって来るかもしれないと考えていたのに、実際にやって来たのは自軍とほとんど変わらぬ規模の軍勢でしかない。
しかも、その質は精鋭ぞろいの徐晃軍に比べると明らかに劣るようだ。
これならば、陣地に籠って戦う必要もない。
徐晃は積極策をとり、出撃すると一戦して梁興軍を打ち破った。
こうして、蒲阪津は完全に曹操軍のものとなった。
「でかした!」
徐晃からの報告を聞くと、曹操は喜びの声をあげた。
曹操が考える渡河作戦の第一段階が成功したのである。
彼は本軍の渡河を進めることにした。
しかしながら、それは徐晃のそれとは比べようもない困難がつきまとうのだった。