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三国志天の記  作者: 沖家室
序章 天をくつがえす者【張角伝】
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第15話 豫州、平定さる

 戦いにおいて、いつの時代も欠かすことのできない戦力と言えば歩兵である。

 最も手軽に頭数をそろえることができ、都市や領土を占拠するには歩兵が必要となってくるからだ。


 ただ、戦いにおいて決定的な勝利を手繰り寄せる存在かと言えば、必ずしもそうではない。

 現代では航空機や戦車、軍艦、ロケット砲などが猛威を振るっていて、その威力の前に人間の武力は悲しいまでに無力だ。

 およそ2千年前の中華においても、歩兵は戦場における最大の戦力ではあったが、勝負を分ける最強の戦力ではなかった。

 現代のハイテク兵器に近い地位を占めるもの、それは騎兵であった。


 明らかに官軍が優位に立った豫州においても、騎兵は決定的な役割を演じようとしていた。

 そして、その戦場から新時代を切り開く英雄が生まれようとしていた。


 ……………………………………………………………


 潁川郡(えいせんぐん)陽翟県(ようてきけん)(現在の河南省許昌市(きょしょうし)禹州市(うしゅうし)一帯)。

 潁川郡のほぼ中央に位置し、郡の治所(太守が着任する郡庁所在地)でもある。

 潁川郡支配の要といってよい重要な地であった。


 長社(ちょうしゃ)の戦いで敗れ、汝南郡(じょなんぐん)へ向けて敗走していた黄巾軍の波才(はさい)は、この陽翟へと逃れてきていた。

 急追してきた皇甫嵩(こうほすう)軍と合流した曹操(そうそう)軍によって大破されて数万を失い、ついに波才は汝南郡への逃走を諦めたのだ。


 一度は黄巾軍が席巻した潁川郡であるが、すでにその大部分が官軍の手に戻っている。

 波才らはただただ逃げられる方を探して走ったにすぎず、陽翟周辺に朱儁(しゅしゅん)軍が展開していることを知ると、その歩みを止めた。


 前には朱儁軍、後ろには皇甫嵩・曹操軍。

 逃げるところはもはやどこにもなく、波才軍は袋のネズミであった。

 やむなく、波才は大急ぎで陣を敷き、官軍を迎え撃つ態勢を整えた。

 生き残るためには、野戦で官軍を打ち破るしかなくなったのだ。


 対する官軍は西から迫る朱儁軍がそのまま左翼となり、東の皇甫嵩軍が右翼を構成する形となった。

 曹操率いる騎兵は皇甫嵩軍に属し、決戦戦力として最右翼に置かれた。

 朱儁軍には幽州刺史(ゆうしゅうしし)陶謙(とうけん)が援軍として送ってきた、程普(ていふ)率いる3千の兵が加わっていた。

 朱儁は程普軍とともに佐軍司馬(さぐんしば)孫堅(そんけん)率いる1千を自軍の先鋒に起用した。


 孫堅は朱儁がわざわざ招いた期待の若手であり、任地に縛られずに戦場で力を発揮できるようにと朝廷へ特例を願い出て佐軍(別動隊)の指揮官の地位につけていた。

 司馬という官職は通常将軍の補佐官が任じられるものであり、将軍ではない朱儁の下に置くことはできないのだが、この特例の要請はいかに孫堅への期待が大きいかということを示していた。


 長社の戦いから連戦連勝と言っても、豫洲方面の官軍の主体が義勇兵であることまでは変わらない。

 黄巾軍の本拠地である冀州(きしゅう)を攻めている董卓(とうたく)軍(旧盧植(ろしょく)軍)に比べて装備の質が低い点は相変わらずで、飛び道具である強弩(きょうど)(ボウガン)の数も少ない。

 騎兵戦力も曹操軍が合流して数こそ増えたが、当初から従軍している三河(いずれも司隸に属する河東郡・河南尹・河内郡のこと)の騎兵に強力な匈奴騎兵がいるものの少数で、質的には心もとない状況にあった。


 朱儁としては、質的に不安要素のある自軍の戦力を考え、手持ちの戦力のなかで最強の部隊を最前線におき、錐をもみ込むように敵陣に穴をうがつことを期待したのだ。


 両軍の戦闘は、官軍の挑戦に黄巾軍が乗る形で始まった。

 お互いに弓兵戦力が十分ではないことから、戦場はたちまち歩兵同士の乱戦に移行した。


 戦場の渦の中心となったのは、官軍左翼の朱儁軍であった。

 黄巾軍とぶつかった朱儁軍の先鋒・孫堅率いる歩兵部隊は敵を圧倒した。

 (げき)の刃先を揃えて敵兵を迎え撃つと、そのまま統制の取れた動きで前進を開始した。

 孫堅軍が発する圧力に黄巾軍は抗しきれず、ずるずると後退していく。


 孫堅軍の強さを見て程普軍らも発奮した。

 孫堅軍の側面に回り込み、何とかその足を止めようとする一部の黄巾軍を蹴散らし、孫堅軍を中心にして攻勢に出た。

 明らかに朱儁軍が優位に立ったことで、序盤から戦場のバランスは崩れ気味となった。

 皇甫嵩軍は朱儁軍ほど目覚ましい立ち上がりではなかったが、敵軍にさざ波のように広がっていった動揺に乗じ、こちらも次第に押し込み始めていた。


 一方、黄巾軍では本陣があるとみられる後方が特に騒がしくなっていた。

 前線の苦戦を見て混乱はしているようだが、戦いを投げたのではなく、むしろ前線へ増援部隊を送ろうとする様子に見えた。

 官軍が押し気味と言っても、まだ勝負が決したわけではない。


 ただ、官軍とてまだまだ全力を出し切ってはいない。

 例えば、最右翼の小高い丘に陣取っている曹操軍などは一歩たりとも動いていなかった。

 指揮官の曹操は、黙って戦局の推移を見つめていた。


(匈奴や烏丸(うがん)といった異民族の騎兵は、我ら漢人とは技量が違いすぎる。我らがいかに幼少のみぎりより馬に親しんでも、あのような騎射の術はできん。)


 曹操軍の陣地からは戦場の様子がよく見渡せ、はるか左翼の方まで確認することができた。

 左翼では朱儁軍の猛攻が功を奏し、敵の黄巾軍は崩れ始めている。

 とどめとばかりに、左翼ではすでに騎兵部隊が投入され、ダメ押しを演出していた。

 特に匈奴(きょうど)騎兵の活躍は目覚ましく、遠くから騎行しながら立て続けに矢を放ち、近くに寄っては剣を引き抜いて敵歩兵に襲いかかった。

 鬼神のような働きとはこのようなことを言うのか、どんな屈強な兵が立ち向かってもどうにもならない実力差を見せつけているかのようだった。


(そろそろ潮時だと思うが・・・合図はまだか!?)


 曹操軍が一歩も動いていないのは、サボタージュではなく作戦である。

 矛で武装した1千余のこの重装騎兵部隊は、ここぞという場面での切り札としての役割が期待されていた。

 敵の陣形に少しでもほころびが生じれば、その箇所に騎兵を投入して穴を広げ、一気に崩壊へ持っていくこともできる。


 そして、曹操の見るところその時は訪れつつあるようであったが、肝心の合図がまだ来ないのだ。

 こちらから使者をつかわして攻撃を申し出ようかと思った瞬間、本陣から待ち望んだ乾いた音が響いてきた。

 さすがに主将の皇甫嵩は名将であった。


「合図だ。・・・行くぞっ!」


 本陣から流れてきた太鼓の音を聞き取ると、曹操は麾下の騎兵たちに号令をかけた。

 たちどころに動き出した集団は、矛を構えつつまっすぐ敵へと向かって行く。


 官軍の勝利はこの瞬間に決定的になった。


 曹操軍は黄巾軍の最左翼を突き崩し、当たるを幸いなぎ倒したため、直接攻撃にさらされた者たちだけでなく、周囲の黄巾兵たちにも恐慌を巻き起こした。

 すでに崩れ始めていた黄巾軍右翼に続き、持ちこたえていた黄巾軍左翼にも大きな崩れが生じたのだ。

 こうなると、人間の心理は戦うことからいかに生き延びるかに移っていく。

 そして集団心理は敢闘から逃亡へと変化していった。


 黄巾軍は集団としてのまとまりを失い、てんでんばらばらに逃げていく。

 その背中を官軍は執拗に追い、次々と命を刈り取った。

 それは主将の波才の命ですら例外ではなかった。


 こうして、一時は十数万の大軍を誇った豫州黄巾軍の主力は壊滅した。


 官軍は大勝利を収めたものの、休むことは許されなかった。

 主力は壊滅したと言っても、豫州内にはまだまだ黄巾軍が残存していた。

 東の兗州にも黄巾軍やそれに呼応する反乱軍が発生しているし、西の荊州南陽郡でも黄巾軍が前太守を攻め殺すなど侮りがたい戦力を持っていた。

 彼らを平らげることが、朱儁や皇甫嵩に課せられた任務であった。


 両者は協議し、軍を二分して反乱軍に当たることに決めた。

 皇甫嵩は豫州と兗州の平定に尽力し、朱儁は南陽郡の鎮圧に乗り出すというものだ。

 両者はお互いの武運を祈りつつ、陽翟を出て反対方向へと進みだした。


 皇甫嵩軍にとどまった曹操は、味方とともに東へ向かいながら勝利の余韻に浸ることもなく、まったく別のことを考えていた。


(朝廷は黄巾の者どもを賊と呼ぶ。だが、彼らは果たして悪と呼べるのか?)


 曹操の頭の中で消えないのは、そのことだった。


 なるほど、彼らは体制を揺るがそうとする危険分子ではある。

 ただ、曹操が戦いのなかで見てきたその実態は、多くが飢えた民衆の成れの果てであるというものだ。


 黄巾軍が決起したときから参加している信者たちは、反乱を扇動する張角の信奉者ではあるのだが、その前に食い詰めて太平道に入信した者たちだ。

 太平道に入りさえすれば飢えずにすむと思い、入信したようなのだ。

 彼らからすれば後漢王朝が食わせてくれないから、やむを得ず刃を向けたわけだ。

 信仰心が厚いはずの者たちすらそうなのだから、決起後に参加した者たちは言うまでもないだろう。

 となると、これほど黄巾の乱が拡大した原因は後漢王朝にもあるということになる。


 宦官の孫という微妙な出自を持つだけに、曹操の思考は柔軟だ。

 彼は儒教の教えが絶対だというこの時代の「名士」たちの思想から、すでに自由だった。


(ここまで乱が拡大するということは、今後さらに世の乱れはひどくなる。儒によって治められぬと言うなら、これからは儒に替わるものが必要ということだ。もしそれを俺が示せれば、その時こそ俺は乱世の姦雄となることだろう・・・!)


 来るべき乱世に向けて、曹操の心中には熱いものがたぎっていた。

筆者は三国時代最大の英雄が曹操だと思っていると以前に書きましたが、彼の最大の特色は慣習にとらわれない柔軟な考え方であると考えています。


有力者の親類を容赦なく刑死させる、廟を破壊して民衆を苦しめる漢の皇族への信仰をやめさせる、戦乱で土地を失った民衆に主のいなくなった土地を与えて屯田させる(これは正確には彼の独創ではありませんが)、といった権威や前例にとらわれない果敢な行動が彼の魅力です。

そのような曹操に太平道など道教系の宗派への偏見や敵意は見えず、後には降伏した黄巾軍を自軍の主力部隊として取り込むことまでしています。


日本では一般的に織田信長が革命児として評価されていますが、個人的には曹操の方がより革命児という言葉がピッタリくると思っています。

信長は彼自身が独創的というよりも、楽市楽座や南蛮文化の受容、鉄砲の大量導入など他者が始めていた政策を積極的に取り入れ、それを大々的に行うことで大を成した人物という見方の方がより近いのかな、と。

もちろん、そのことが信長が優れた人物であったことを示しているのは、言うまでもありませんが。


時代の先駆者である曹操の数ある政策の中で、筆者が後世にもっとも大きな影響を与えたと考えるのはその人事政策です。

曹操はこの時代に重んじられた儒教に基づく人間性やそれに対する評価といった要素を否定し、才能ある人物であれば人格は問わないという姿勢は異質なものでした。


しかし、新たな人材の評価基準として詩に代表される文学の才能を据えたことは、後世の科挙へとつながる重要な転機となりました。

今作では、あまり目立たないその一面も触れていけたらな~と考えております。

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