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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第148話 荀彧、衰運を迎える

 黄蓋による火攻めを受けたとき、曹操は陸上の陣地にいた。

 曹操だけでなく、彼の軍の主だった将のほとんども陸上の陣におり、水軍の船に乗り組んでいたのは大部分が先日降ったばかりの荊州の将兵であった。


 そのような状況下では、荊州兵に被害が集中したのは当然である。

 指揮官クラスはいち早く離脱して助かったが、多くの兵が焼死や溺死を遂げた。

 熟練を必要とする水兵や建造に時間を要する艦船を多く失ってしまった曹操は、大河が流れる荊州の東部や山がちな地形を避けるためには水運に頼るしかない荊州南部での作戦能力を喪失してしまった。


 また、人的被害は少なかったとは言え、連戦の疲労に加えて荊州の気候や風土病に苦しむ曹操軍の陸兵たちの多くもまた戦える状態になく、曹操は荊州での攻勢に見切りをつけた。

 彼は最も信頼する副将である曹仁に南郡及び荊州方面の守りを任せ、軍を引き連れて許の都に帰還することにした。

 曹仁は曹操軍のなかで最初に大規模な別働軍を任されていた将であり、その指揮能力と粘り強さを見込んでの起用であった。

 守勢に回ったのは仕方ないとしても、曹操は荊州を諦めるつもりは毛頭なかった。


 一方、曹操軍を撃破した周瑜はただちに戦果の拡大を図ろうとした。

 曹操軍を追撃し、南郡や南陽郡を攻め取ろうとしたのだ。

 それに対し、魯粛は自分の腹案を提案した。


「まず劉玄徳どのに南部4郡に対する備えを依頼するべきです。後方の江夏郡はすでに味方なのですから、南からの敵を抑え込めば我が軍は南郡の攻略に専念できます!」


「子敬どのの申される通りだ。勝ったとは言え、敵の数はまだ我が軍より多いかもしれぬ。早速劉玄徳どのを招くとしよう。」


 魯粛の戦略構想は、こうである。

 まず、荊州の主要部分である南郡や南陽郡は孫権軍が攻撃し、攻略を目指す。

 江夏郡を守っている劉琦には引き続き後方支援をお願いするとともに、彼を荊州刺史に任じてくれるよう朝廷に上奏して恩を売る。

 沔水上流の劉備軍には、対峙する曹操の別働軍が撤退した後、長江南岸に位置する長沙・武陵・桂陽・零陵の4郡に対する警戒に当たってもらう。

 この南部4郡には曹操が任命した太守が赴任しており、万が一の反撃に備えたのだ。


 この場合、最大の果実を手にするのは孫権軍となる。

 劉表の旧領を回復するという大義名分を掲げながら、実質的に劉表の遺児である劉琦を傀儡にする算段だ。

 実質的に荊州の主要部を制するのは孫権軍であり、劉琦や劉備は事実上その従属下に置かれることになっていく。

 曹操軍をほぼ単独で撃破したのが孫権軍であった以上、このような成果を手にすることは当然のことだと魯粛ならずとも孫権軍のだれしもが思っていた。


 ただ、劉備には「警戒」の任が与えられるわけだが、彼が南部4郡を自力で征服できれば、その地を領土とすることは認められる余地がある。

 だが、それはあくまで孫権勢力の従属的立場としての存在となるだろうし、そもそも南部は山がちの地が多いために人口や経済力で荊州北部や中部の諸郡に劣り、劉備軍の実力が大きく飛躍することはないだろうというのが魯粛の見立てであった。

 今回の戦いでは目立った戦功もなく、孫権軍から離れて自立することも困難な現状にある両劉氏の足元を見て、魯粛は自軍にとって都合のいい彼らの使い道を考えたのだ。


 この魯粛の案は周瑜に採用された。

 早速、今後の作戦について話し合いたいとの書状を持たせた使者が劉備や劉琦のもとへと飛んだ。

 両劉氏は予想通り周瑜の申し入れを受け入れ、孫権軍は南郡の攻略に専念できることになった。

 劉琦は荊州刺史を自称しはじめ、そのことに満足した。

 劉備は長江南岸での作戦行動を了承し、物資の不足に不平を言いながらも行動を開始した。

 すべては魯粛が練った戦略のとおりであった。


 ……………………………………………………………


「荊州でのこと、まことに残念でございました。されど、閣下の御身が無事であったこと、まさしく不幸中の幸いにございます。」


 無事に許へ帰還した曹操に対し、留守を預かっていた荀彧は温かい言葉で迎えた。

 曹操は天下を統一する最大のチャンスを逃した。

 だが、すべてが終わったわけではない。

 再度戦略を練り直して挑めばいい。

 曹操がこの中華で最大の勢力を持っていること自体に変わりはないのだから。


「・・・ああ。卿もご苦労だった。」


 曹操の返事はそっけなかった。


「悪いが、今はひどく疲れている。今日のところは下がってくれ。」


 曹操はそう言ったきり、眼を閉じた。

 疲れや心労によるものだろうか。

 その姿はいつもと全く違う。


「わかりました。失礼いたします。」


(これは・・・本当にお疲れのようにも見えるが・・・本当にそれだけだろうか?)


 心なしか、荀彧に向けられる声もいつもと違い、どこか冷えたもののように感じる。

 荀彧はその点が気になったが、下がれと言われた以上退出するしかなかった。


 荀彧の嫌な予感は、不幸にも的中した。

 かつては絶大であった、曹操が荀彧に寄せる信頼は大きく損なわれていた。


 きっかけとなったのは、袁紹勢力を打倒した際に曹操が実現しようと策した冀州の領域拡大の失敗だった。

 冀州牧となった曹操は、冀州の領域を広げることで自らの権力拡大を狙ったのだが、漢朝の復興を掲げる荀彧が許容するはずもなく、この話は立ち消えとなっていた。


 この事件により、それまで蜜月と言って良かった両者の関係には目に見えないヒビが入った。

 曹操は自分と相容れない思想を持つ荀彧を初めて疎ましく思うようになり、政権内部でのその影響力の大きさを危険に感じるようになった。

 何しろ、曹操を支える名士たちのなかには荀彧が推挙した者たちやそれらが引き上げた者が目立つ。

 彼らが荀彧にどこまでも同調すれば、曹操が企んでいる漢朝の簒奪は非常にやりにくくなる。


 ただ、若干のきな臭さを発しながらも、両者の表向きは今まで通りの君臣関係が続いていた。

 曹操は荀彧に変わらぬ信任を示したし、荀彧もまた変わらず職責を果たし続けた。

 曹操は荀彧の戦略眼を替えの効かないものと評価していたし、荀彧も曹操こそが漢朝による天下再統一に欠かせぬ偉材だと固く信じていたからだ。

 気に入らぬところはあるが、互いに相手が必要だと思う点では一致し、危うい均衡が成立していたのだった。


 だが、赤壁の戦いでの敗戦は、曹操の認識を一変させるほどの打撃となった。

 物質的な意味では復旧可能で大した被害ではなかったが、荀彧の戦略眼に対する信頼は失墜と言っていいくらいに失われてしまったのだ。

 何しろ、戦前の荀彧は荊州へ兵を進めさえすれば周辺勢力はほとんどが降伏し、天下統一は容易いと主張していた。

 ところが、孫権軍が劉備・劉琦と結んで眼前に立ちはだかり、そればかりか曹操軍は取り繕いようのない敗北すら喫してしまった。

 このことは曹操の中で戦略家としての荀彧に対する評価を著しく下げ、むしろ彼を政権中枢に抱え込むことへのリスクが浮上してきたのだ。


 これ以降、荀彧が重要な諮問にあずかる機会は激減した。

 そのことに荀彧が気づくのに、それほどの時間は要しなかった。


 そして翌209年、曹操は荀彧排除の姿勢をより強める布告を打ち出した。

 後に「求賢令」と呼ばれることになるその布告は、出自や人格といった面には目をつぶり、乱世において有用な人材を広く求めるものであった。

 一見荀彧とは何の関係もなさそうなものだが、裏の思惑として荀彧の息がかからない人材を大規模に集めることにより、彼の政権内部での影響力を薄めるねらいがあったのだ。

 曹操は巧妙な手段で荀彧の力を奪い、その運命を暗転させはじめたのだった。

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