第133話 高幹、死す
曹操が袁譚を討って冀州北部を版図に加え、さらに幽州に逃げた袁尚を討つためそこへ軍とともにとどまり続けるなか、先に曹操に降った并州の雲行きが怪しくなっていた。
并州は故袁紹の甥に当たる高幹が支配する地である。
高幹は河北の雄であった袁紹の甥という恵まれた立場もあったが、他の親族を押しのけて登用されるだけの器量を持った男だった。
袁紹が官渡で戦っているとき、并州と支配下にある匈奴の兵でもって遠く西の関中を衝くという大胆な作戦を企て、惜しくも鍾繇によって組織された馬騰・韓遂らの軍に敗れて目的を果たせなかったが、その才覚を存分に見せつけた。
袁紹死後、新たな主となった袁尚が敗れて鄴を失ったため、高幹は心ならずも曹操に降ったが、内心では不満を感じていた。
高幹は并州の支配権をそのまま認められていたが、それもいつ曹操の意向で取り上げられるかわからない。
また、袁紹死後に袁氏の勢力が見るも無残に衰えたことにも不満を持ち、あわよくば威信の失墜しつつある袁尚にかわって自分が旧袁紹勢力を統合しようという野心を温めていた。
袁尚が内応をねらって牽招という人物を送ってきたときは激しく拒絶したのだが、それは曹操に対する忠義ではなく袁尚にとってかわる野望があったからだった。
そんななか、曹操が幽州攻撃のために冀州北部に駐屯し、運河の開削を行うなど遠征準備を着々と進めているという情報は、高幹の野心を燃え上がらせるのに十分な朗報であった。
曹操の眼は北に向けられており、その不意をつけば一気に冀州を奪い取れると見たのである。
彼がメインターゲットとしたのは、鄴である。
ここは冀州の州治というだけでなく、かつての袁氏の本拠として広く認知されている。
鄴を確保することで高幹は袁紹の後継者として名乗りを上げ、さらに北方にいる曹操自身とその本拠である許を切断するという一挙両得をねらったのであった。
そのために高幹が立てた作戦は、かつての関中襲撃に勝るとも劣らない大がかりなものであった。
まず高幹は曹操が任命した并州南部の上党太守を追い出し、上党郡でも特に鄴へのルートの通過点に当たる壺関の制圧をねらうことにした。
ここは鄴から并州へ侵入した場合、必ず通ることになる重要地点である。
ここを固めて作戦基地とし、鄴を奇襲することがねらいであった。
もちろん、鄴を奪ったあとは兗州・青州方面にも兵を出し、冀州北部から幽州に展開する曹操軍主力を孤立させる。
また、河東郡の衛固、弘農郡の張琰、河内郡の黒山賊の張晟といった曹操に不満を持つ人物に目をつけ、彼らを味方に引き込んで一斉に蜂起させることで黄河南岸に騒乱を起こし、司隸・豫州・兗州などの曹操軍が冀州方面に援軍を出せないようにすることをねらっていた。
これがうまくいけば高幹とその同盟勢力は曹操軍を大きく分断することができ、曹操軍の主力を冀州北部から幽州にかけての一帯に孤立させ、曹操軍の留守部隊をそれぞれの地域に釘付けにすることが可能となるはずだ。
ただ、大がかりな軍事作戦というものは、当然ながら大がかりな準備が必要となる。
特に軍事行動の準備となればどれだけ秘密裏に動こうとしても、人目につきやすい。
降って間もない高幹は曹操陣営から無条件に信頼されているわけではないため、なおさら監視の目に触れやすい。
高幹がターゲットとした鄴を守るのは、監軍校尉の荀衍であった。
荀彧の兄であり、彼もまた有能な人材として曹操に重用され、鄴を中心とする冀州南部の政治と軍事を委ねられていた。
彼は鄴周辺の支配を安定させるために才腕を振るっていたが、鄴の防衛体制の強化と高幹ら潜在的な不満分子の監視も忘れなかった。
高幹は予定通り挙兵し、首尾よく上党郡の平定と壺関の制圧には成功したが、鄴の奇襲には失敗した。
警戒を怠らず并州方面にも密偵(スパイ)を送り込んでいた荀衍が高幹の謀叛を察知し、素早く鄴の守りを固めたからだった。
高幹の奇襲部隊は得るものなくすごすごと引き返し、高幹の雄大な作戦は出鼻をくじかれることとなった。
また、高幹が味方に引き入れた衛固・張琰・張晟の一斉蜂起も結果的に失敗に終わった。
当初張晟の蜂起は順調で、彼は河内で集めた兵を率いて黄河を渡り、道々糾合した1万と号する軍でもって崤山のふもとの弘農郡弘農県一帯を荒らしまわり、弘農太守を捕虜とした。
これに対し、長安にほど近い京兆尹新豊県の県令張既は、司隸校尉として長安にあって関中の政治・軍事の最高責任者である鍾繇とともに馬騰ら涼州の軍勢を呼び寄せ、張晟軍を破った。
さらに、河東太守の杜畿は衛固とその与党に兵馬の権を与えるとみせて上手くコントロール下に置き、いざ衛固らが兵を集めて挙兵しようとしたときにはそれに従う者は少なく、杜畿は簡単にこれを鎮圧できた。
一方、弘農郡の澠池県でも県令の賈逵が張琰をだましてその兵の一部を奪い、張琰軍を撃退した。
司隸には曹操が任命した優秀な人材があふれており、彼らによって高幹が抱いた司隸の黄河南岸地域を東西に分断し、冀州方面へ援軍を出す余裕をなくさせるという企みは粉砕されたのであった。
高幹は一連の失敗を知ると、荊州の劉表などと連絡を取りつつ并州を防衛するしかないと悟り、壺関城の守りを一層固めて曹操軍に対抗することにした。
高幹自身は鄴との間の街道筋を固め、鄴方面からの侵入を警戒した。
作戦が失敗した以上、太行山脈という天嶮を用いて守備を固め、劉表が曹操領に侵攻するのを期待するくらいしか高幹に残された手段はない。
そのため鄴方面からの侵攻に備えて持久戦を目論んだわけなのだが、そうは問屋がおろさない。
曹操軍の指揮を任されたのは曹仁であったが、別動隊を率いる楽進と李典が北方から回り込み、別のルートを通って并州へと侵入した。
高幹軍の兵力は足りておらず、手薄なところを衝かれた形だ。
主要な街道が通る壺関城の守りは固めているため、そこで食い止めることは可能であるが、高幹としては思わぬ方向から攻め込まれ、後方を脅かされた格好になる。
到底鄴方面に展開した陣を維持するどころではなかった。
高幹は陣を下げ、固めに固めた壺関城で籠城する方針に切り替えた。
実際、ほかに方法はなかった。
彼は立つかわからない劉表の援軍を待つため、時間を稼ぐ必要があった。
後がない高幹はもう必死だった。
どのように挑発されても出撃せず、ただただ守りを固めた。
曹操軍はそこを全包囲して攻めたのだから、逃げ場のない高幹軍は死に物狂いの抵抗を見せた。
攻城戦は攻め手を欠き、3ヶ月以上続いた。
「まだ壺関は落ちんのか!」
曹操は焦っていた。
一向に高幹との戦いになかなか決着がつかなければ、曹操軍はたいしたことがないとせっかく手に入れた河北に動揺が広がるかもしれない。
幽州方面への遠征も見合わせねばならないかもしれない。
「何としても攻め落とせ!!城を落としたら、城兵はみな生き埋めにせよ!!」
結果として強い口調での命令が曹仁の陣へと飛んだ。
焦りを覚えた曹操にとって、壺関城で抵抗を続ける敵はすべて曹操の河北支配を脅かす元凶に見えたのだ。
ただ、曹仁は別の思いを持っていた。
曹操の命令通りに攻めれば、その強い意志は敵にも必ず伝わる。
人は死が待っていると悟れば、死に物狂いの抵抗をみせるものである。
攻める曹操軍にも甚大な被害が出ることは確実だ。
それよりも、あえて包囲の一方を開けておき、逃げたい敵兵は逃げるに任せる方がいい。
活路があれば敵の団結は緩み、城があっけなく落ちる可能性も高くなる。
曹仁は自分の考えを曹操にぶつけた。
曹操は優れた戦術家であり、曹仁の考えがわからぬはずがない。
焦りによって思考の幅が狭まり、一時的に極端な考えに占められているだけだ。
言葉を尽くして説得すれば、わかってもらえるはずなのだ。
「確かに・・・子孝が申すとおりだ・・・。」
実際、曹操は曹仁の言葉にはっとした。
戦略・政略の都合にとらわれ、得意のはずの戦術面での柔軟な思考を失いつつあったのだ。
冷静さを取り戻した曹操は、曹仁の意見を容れて敵兵の降伏・逃亡を許容する方針に切り替えた。
その効果はてきめんであった。
それまで一致団結していた城兵は、活路があると知るとたちまち動揺を見せた。
夜間にひそかに逃走する者、曹操軍へ降伏を申し出る者があらわれはじめ、十分な糧食を用意して守りを固めたはずの壺関城はにわかに落城の危機を迎えたのであった。
もはやこれまで、と高幹は抗戦をあきらめた。
彼は少数の供だけを連れ、夜間ひそかに城を抜け出した。
壺関を失うことになれば、并州における彼の威信は失墜する。
このままでは并州を失ってしまうと悟った彼は、自ら北の匈奴の地に行き、匈奴の援軍を得て曹操軍を追い散らそうと考えたのだ。
しかし、もう高幹の命運は尽きていたようだった。
高幹自身が行ったにも関わらず、匈奴には援軍をはっきりと拒絶されてしまった。
天を仰いだ彼は、この時点で并州の確保をあきらめた。
自分を確実に受け入れてくれるだろう荊州の劉表のもとへ身を寄せようと今度は南へ奔ったが、曹操の支配地を密行するその旅は死出の旅路であった。
高幹は上洛都尉の王琰という者に正体を見破られ、殺害された。