第13話 董卓、敗北す
「所詮は県城、一押しすれば簡単に落ちるだろう。明日、広宗城の総攻撃を実施する!」
広宗城を間近に見る官軍の本陣において、新指揮官である東中郎将の董卓を迎え、最初の軍議が行われていた。
だが、それは軍議とは言えないスタイルのものだった。
冒頭、董卓の口から発せられたのは、翌日の総攻撃実施であった。
「あいや、しばらく!」
董卓の「言い渡し」に対して反発したのは、鉅鹿太守の郭典である。
彼は前上司の盧植の指揮能力を高く評価し、監軍の左豊に陥れられることを危ぶみ、多少手を汚してでもその地位を保全するための策を言上することまでした。
その郭典から見て、新指揮官の董卓には不安要素しかなかった。
敵味方の状況を正しく理解しているかさえ怪しかった。
「何じゃ?」
「恐れながら総攻撃は時期尚早かと。現在雲梯をつくらせておりますが、まだ十分な数が揃っておりません。これでは、いかに我が軍が精強でも、城壁を越えることは難しいかと。雲梯をつくりつつ、堅固な陣地や濠をもうけて足元を固め、そのうえで総攻撃を検討すべきです。」
「何を言うかと思えば、臆病風に吹かれおって!」
まるで虎の咆哮のような大声が陣中に響く。
前任者の盧植も声が大きかったが、董卓もまた戦場慣れしたよく通る声を持っていた。
「黄巾賊など、所詮はただの百姓(日本では農民を差すが、この時代の中華では庶民の総称。)に過ぎん!我らが束になってかかれば、一瞬で崩れて逃げていくはずじゃ。それを何か、むやみやたらに恐れおって。恥を知れ、恥を!!」
「しかし、敵は百姓と申せ、数多く城に拠って守りを固めております。こちらも十分な備えをしてから攻めませんと・・・。」
「まだ言うか!広宗を攻めよ、とは勅命(皇帝の命令)である!勅命を拒む者は、この董卓が許さん。軍律に照らして、斬ってくれる!!」
「・・・」
勅命まで持ち出されてしまうと、黙るしかない。
董卓にはただ抗弁しているようにしか見えないらしいが、郭典は決して攻撃自体に反対しているわけではない。
攻め急ぎをしないよう求めているだけなのだ。
もっとも、将軍ではない董卓には指揮下の誰でも独断で処罰できる「斧鉞」は与えられておらず、高級役人である郭典を裁く権限はない。
しかしながら、そんなことなどおかまいなしに処刑をやりかねない雰囲気を、董卓は濃厚に持っていた。
(涼州で武名を知られていると聞いていたが・・・どうやらただの猪武者らしい。盧閣下(盧植)の足元にも及ばぬ。)
その後は何ら抗弁せず、沈黙を守った郭典だが、その心中では早くも新しいボスである董卓に落第点をつけていた。
それには郭典が「中原(後漢王朝の中心である黄河中下流域)出身のエリート」であるのに対し、董卓が「辺境出身のたたき上げ」であることと無縁ではなかった。
董卓は涼州隴西郡臨洮県(現在の甘粛省定西市臨洮県)の出身で、地元の「名家」の出として登用されて主に軍事の官職を歴任してきた。
ただ、その経歴はこの時代のエリートとは言えないものであった。
前にも紹介したが、後漢のエリート層は「孝廉」や「茂才」などの科目で推薦される「郷挙里選」や皇帝や高官たちによる直接登用である「辟召」によって任用される人々であった。
採用の決め手になるのは個人の「名声」であり、エリート層が「党錮の禁」によって朝廷から排除された後もその重要性は損なわれなかった。
名声の重要性はむしろ増し、名声の高い人物や人物鑑定の名人とされる人物によって下される評価が大きな意味を持つようになった。
簡単に言えば、誰か有名な人物に評価を受け、名声を高めなければ、天下において「エリート(名士)」とは認められないということだ。
わかりやすい例で言えば、すでに何度か登場した曹操は若いころ、人物鑑定家として名声のあった許劭という人物のところへ押しかけ、むりやり自分を評価をさせた。
宦官の孫という出自の悪さもあり、許劭は曹操に対して露骨な嫌悪感を示し、「治世の能臣、乱世の姦雄(平和な世では有能な人物、乱れた世では悪賢い英雄という意味。この時代は乱世なので悪い評価を与えたことになる。)」という評価をしたが、曹操は満足した。
内容はともかく、許劭という有名な鑑定家による評価を受けたことが「ステータス」になるからだった。
こういった要素が董卓にはない。
董卓が生まれた涼州では漢人よりも異民族である羌族の方が多く、しかも後漢王朝は彼らを低く扱ったから、常に緊張状態にあった。
後漢王朝では涼州の支配に強力な軍隊を必要とし、涼州の「名家」から軍の幹部候補生を選抜した。
董卓が世に出たのはその制度によってであった。
実は、涼州では董卓の「名声」はかなり高い。
若いころから武勇に優れ、馬を駆けさせながら左右に矢を放つことができた。
また、羌族の族長らと親しく交際し、部下にも気前のいい人物として評判が良かった。
軍事経験も豊富で、騎兵を率いてこれまで百回以上の戦闘を重ね、大いに戦果をあげていた。
盧植の後釜に据えられるだけの軍歴を持った人物ではあるのだが、いかんせん中原での名声が皆無に近いのが泣き所であった。
やたらと自信満々な様子を見せつけているのも、虚勢のあらわれであった。
(どうせ董太后さまの引きで抜擢された男なのだろう。宦官ともつながりがあるに違いない。)
董卓のバックボーンについて知る由もない郭典らの評価は、そうしたものになってしまう。
董卓が今回花形の官職を射止めた背景には、確かにそのような一面もあるのもややこしいところだ。
何皇后の兄である何進が大将軍に出世したことに対し、何皇后と対立する霊帝の生母・董太后は面白くなく、自分の息のかかった人物を軍の重鎮にしたいと考えていた。
そんななかで討伐軍主力を率いた盧植が失脚し、その後釜に同姓であることから遠縁と称して董太后に取り入っていた董卓に白羽の矢が立ったのだ。
(こいつめ、いかにも不満げなツラをしよるわい。おおかた、わしのことを馬鹿にしているに違いない。)
長く辺境の地で戦いの人生を送ってきた董卓には、中原の名士たちからの侮蔑を含んだ視線はいつもの光景であった。
だが、いつものことだからと言って慣れるものでもない。
董卓の心中は穏やかではなかった。
(ふん、すぐの総攻撃が愚策であることなど、百も承知じゃ。勅命が下された以上、仕方あるまい。攻撃せねば盧植の二の舞になる。死中に活を求めるしかないんじゃ!)
涼州で騎兵を率い、異民族や反乱軍相手に野戦の勝利を積み重ねてきた董卓にとって、城攻めは苦手とするところだ。
それに勅命に縛られて攻撃を急がねばならない事情もあり、董卓とて総攻撃がうまくいく可能性が極端に低いことはわかっていた。
ただ、何もしなければ盧植のように解任され、下手をすれば死罪になるかもしれない。
董卓の目は前方の広宗城より後方の洛陽に向いていたのだった。
董卓が着任して間もない184年6月下旬、官軍による広宗城への総攻撃が開始された。
官軍は矢の雨を冒して城に攻め寄り、運んできたはしごをかけて城壁をよじ登ろうとした。
また、大勢で大木を引っ張り、門にぶつけて破壊しようと試みた。
何とか間に合わせた数台の雲梯も投入され、一応総攻撃という名に値する規模の攻撃ではあった。
しかし、郭典らが危惧した通り、準備不足がたたって出だしから苦戦が続いた。
はしごや大木を曳いて動きが鈍くなった官兵たちは、城から射ち出される矢によってなかなか近づけず、何とか城壁上に登った少数の兵もたちまち押し包まれて死骸となった。
雲梯や大木には油や火矢が浴びせられ、やがて炎上して攻撃側にとってただの障害物になり果てた。
目も当てられない惨状に、兵たちの士気はみるみる低下し、そのうちなし崩しに後退が始まった。
「くそっ!」
官軍の指揮官である董卓は舌打ちしたが、それは官軍の敗退に向けられたものではなかった。
追撃のために突出してくるはずの黄巾兵を子飼いの騎兵部隊でもって撃破し、そのまま城内へ攻め入る秘策を温めていたのだが、それが不発に終わったからだった。
黄巾兵は追撃に出ては来たが、官軍を追い払うとサッサと城内へ戻り、後は固く守って出てこようとしなかった。
結局、敵を失った騎兵は無用の存在となり、董卓の作戦は空振りに終わってしまった。
(仕方あるまい、一旦退こう。とりあえず勅命には従った。広い野に賊どもをおびき寄せ、次こそは蹴散らしてやる!!)
董卓は広宗城周辺から撤退し、広宗城から黄巾軍が出撃してくるのを待つことにした。
官軍が退却したのだから、勝利は黄巾軍のものだった。
意気上がる黄巾軍は、すぐさま出撃の準備を始めた。
しかし、彼らの意図は董卓が望む決戦にはなかったのだった。
今話では、董卓による広宗城攻撃について取り上げました。
盧植が解任された後、かわって指揮官に抜擢された董卓ですが、広宗城の攻撃に失敗するなど黄巾の乱での活躍はほとんどと言っていいほどありません。
ただ、筆者は董卓に軍事的才能がなかったとは考えていません。
彼は後に袁紹や曹操、孫堅といったこの時代のスター達を向こうに回して大戦争を行うのですが、敵側からは董卓軍の強さを恐れられ、実際にいくつかの戦闘で勝利しています。
その中には配下の武将が曹操を大敗させたものも含まれており、これは董卓に強力な軍を組織する能力や有能な武将を見抜く能力があったことを示しています。
また、董卓は涼州で騎兵を率いて百以上の戦いを経験し、おおいに活躍したことが書かれており、優れた騎兵指揮官であったことがわかります。
では、指揮官として有能なはずの彼が黄巾軍との戦いでまったくいいところがなかったのはなぜなのか。
筆者は董卓が得意としたのが騎兵を用いた野戦であったことと、解任された盧植の存在が大きかったと考えます。
前任者が消極性をとがめられて失脚しているわけですから、董卓としては速攻が求められます。
ところが、董卓が得意とするのは騎馬の野戦であり、攻城戦は不得意でした。
苦手な攻城戦を強いられ、しかも短期間で成果を出すよう圧力がかかり、思うような戦果を挙げられなかったのではないかと。
あくまで筆者の妄想ではありますが、単なる暴君ではなく有能な武将である董卓という一面を描ければなぁと思います。