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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第128話 曹操、冀州を侵す

 鄴城(ぎょうじょう)の主袁尚(えんしょう)は焦っていた。

 北には平原城(へいげんじょう)逼塞(ひっそく)しているとは言え長兄の袁譚(えんたん)が控え、南には虎視眈々と冀州(きしゅう)をねらう曹操(そうそう)がいる。

 袁尚は父の袁紹(えんしょう)からその勢力の大部分を引き継いだ形にはなっていたが、腹背に敵を抱えて息苦しさを感じ続けていた。

 彼らは公然と同盟関係に入っており、このままでは袁尚勢力は南北から圧迫されて崩壊しかねない。


 さらに、つい1ヶ月ほど前から曹操軍は昨年占領した黎陽(れいよう)から北へ向かって食糧補給のための軍用道路を作り始めていた。

 この工事は大規模なもので、単に軍用道路をつくるだけでなく鄴の南90キロメートルほどのところを流れる淇水(きすい)の流れをせき止めて東流させ、人工の運河を通して黄河へ接続させるという野心的なものである。

 この軍用道路が機能するようになれば鄴を攻撃しようとする曹操軍は南の黎陽からも東の濮陽(ぼくよう)からも十分な物資の補給が可能となる。

 曹操軍は冀州における長期間の作戦が可能となるわけで、河北への再侵攻は時間の問題となっていたのだ。

 袁尚はいわゆる「ジリ貧」の状況に追い込まれているのであった。


 この状況を打開しようと、袁尚は大規模な軍事行動の再開を決意した。

 彼がその対象として選んだのは、兄の袁譚であった。

 二正面作戦を避けるため、迅速に弱い方の敵を叩き潰そうというのである。

 204年2月、袁尚は重臣の審配(しんぱい)蘇由(そゆう)らに鄴城の守りを任せ、自ら主力軍を率いて北上を開始した。


(鄴城をとるのは、今をおいてほかはない。ただちに出陣すべきだ。)


 袁尚軍の主力が北へ去ったという情報は、すぐさま許の都へ達した。

 これを知った荀彧は、すぐさま曹操と面談し速やかに河北へ出兵することを進言した。

 曹操にしても、出兵をためらう理由はない。

 むしろ手ぐすね引いて待っていたというのが現実であった。


「今度こそ、鄴をとる!!」


 曹操の意気込みはかつてないものがあった。

 それに対し、荀彧はどこまでも冷静だった。


「策がございます。近年袁氏は敗戦続き。それに比べて我が軍は連戦連勝を重ねております。袁氏から心を離している者も多くいることでしょう。我が軍の出陣に合わせ、袁氏を離れ、朝廷に帰順するよう(げき)を飛ばしましょう。」


 袁氏の支配が揺らいでいることを見越し、こちらへ味方するよう文書を各地にバラ撒こうと言うのである。

 実際には曹操に味方するよう誘うものだが、曹操が朝廷の主宰者であることから敢えて朝廷の名を持ち出し、揺さぶりをかけようというのが荀彧の巧妙なところだ。

 内部分裂により袁氏の衰退は明らかとなっており、かなりの効果が期待できた。

 曹操がよき策と手を打って受け入れたのは言うまでもない。


 曹操軍は大挙して冀州へとなだれ込んだ。

 まず曹操がねらったのは、鄴城の南東60キロメートルほどのところを流れる洹水(えんすい)である。

 この川は鄴から見て東からの敵の侵入を食い止める最後の防波堤のようなものであり、鄴城防衛軍の副司令官というべき蘇由が守っていた。

 ただ、それだけ袁尚軍が重視した地はあっけなく曹操の手に帰した。

 状況を悲観した蘇由が戦うことなく曹操軍に降伏したからだ。

 荀彧の檄文が早速効果を発揮した形である。


 これに対して鄴城の守りを預かる審配は落胆したものの、強靭な精神力を発揮した。

 袁尚の遠征軍に多くの兵を持って行かれ、野戦で曹操軍を迎撃するだけの兵力がなかった審配は、最初から籠城を決め込んでいた。

 彼は厳しい態度で部下に臨み、その威厳のため軍の統率は鄴城の守りは堅牢を極めた。

 すぐに援軍を得られる見込みがなく、しかも有力な味方部将が裏切った直後にも関わらず、何事もなかったかのように防衛にほころびを見せない審配は名将と呼べる器であった。


 この名将が守る鄴を曹操は大軍で囲み、城に向かって坑道を掘り進め、出た土で大きな土山を無数に築いたが、城はちょっとやそっとでは落ちそうになかった。

 審配が隙を見せないだけでなく、官渡と違って肥沃な土地を周囲に抱える鄴は土の保水力が高く、湿った土を掘ることは重労働で、長距離の坑道を掘ることは労力面でも技術面でもより難しかったのだ。


「糧道を絶たねばどうにもならんな。」


 間もなく曹操は攻め手を変える必要に気がついた。

 城内の内応も工兵による攻撃も期待できないとなれば、強攻か兵糧攻めしかない。

 しかし、力攻めをするには曹操軍の兵力は少なく、また鄴城の規模は巨大すぎた。

 事実上、選択肢は兵糧攻めしかなかった。

 すでに包囲は完了していたが、鄴の北西にある武安県(ぶあんけん)や北にある邯鄲県(かんたんけん)には冀州各地や隣の并州(へいしゅう)からの糧食が集積され、曹操軍の監視の目をかいくぐって鄴城への補給が行われていた。

 この糧道を絶つことなしに鄴城への兵糧攻めは成り立たない。


 204年4月、曹操は信頼する曹洪に鄴城包囲陣の指揮を任せ、自分は兵を率いて北西へ進んだ。

 まず武安県を攻撃し、并州の上党方面からの糧道を絶つつもりだった。

 曹洪には無駄な力攻めを避けるよう厳重に言い含めたが、時間を無駄にしないためか鄴城の東を流れる漳水から鄴城へ向けての空堀の掘削を命じた。

 曹洪は何のための作業かわかりかねているようだったが、忠実に実行すると約束した。


 武安は鄴の北西60キロメートル、邯鄲の西30キロメートルほどのところにあり、鄴や邯鄲といった冀州南部の都市と并州南部をつなぐ街道の結節点である。

 冀州と并州の間には南北を背骨のように貫く太行山脈(たいこうさんみゃく)が走っており、自然の境界線となっている。

 この2つの土地をつなぐ道は古来いくつかあるが、そのうち鄴や邯鄲と并州の上党郡を最短経路でつなぐルートは必ず武安を通る。

 言い換えれば、ここを押さえれば并州からの補給物資の流入をストップできるのであった。


 これほど重要な地であるが、袁尚軍の影は希薄だった。

 すぐ東にある大城の邯鄲には今は亡き沮授(そじゅ)の子であり将軍位を持つ沮鵠(そこう)に守らせていたが、武安は県長の尹楷(いんかい)を守将として動かさず、満足に増援も派遣していなかった。

 袁尚軍の兵力が足りないという事情はあったが、明らかな弱点であった。


 曹操軍が接近すると、尹楷は武安県で最も守りの固い南西部の毛城(もうじょう)に籠って抵抗した。

 しかし、尹楷自身がどれほど意思強く防戦に取り組んでも、配下の兵は敵の大軍を前に震え上がってしまった。

 鶏が夜明けを告げるたびに毛城の兵は少なくなっていくようであり、実際に曹操軍が到着したころには城を維持するのも難しい戦力しか残されていなかった。

 尹楷はそれでも抗戦を決意したが、戦力不足はいかんともしがたく、たちまち打ち破られた。


「よし。このまま邯鄲へ向かうぞ!」


 毛城を落とし、武安県を確保した曹操は、敵の敗残兵を追い立て追い立て、東の邯鄲へと軍を向けた。

 敵兵をわざと逃がしているのは、彼らに恐怖とともに邯鄲へ毛城陥落を知らせてもらうためで、実際に敗報を知った邯鄲城内の士気は明らかに衰えた。

 この状態では勢いに乗った曹操軍との戦いで勝利はおぼつかない。

 城将の沮鵠はそれでも何とか城を守り抜こうとしたが、援軍のあてのない籠城は難しい。

 まだ若い沮鵠には荷が重く、邯鄲もまた簡単に落ちてしまった。


 武安や邯鄲があっという間に落ちたことを見て、易陽県(えきようけん)令の韓範(かんはん)渉県(しょうけん)長の梁岐は曹操に降伏した。

 曹操は袁尚らの軍がまだまだ健在の状態にも関わらず彼らが降伏してきたことを賞し、関内侯(かんだいこう)の爵位でもって報いた。

 関内侯は最高位である列侯(れっこう)のひとつ下の爵位であるが、高い地位であることには変わりない。

 もちろん、これは袁氏勢力から曹操に降伏する者が続出することをねらっての高待遇であった。


 こうして周辺の城を片づけてから、曹操は鄴城の包囲陣へと戻った。

 曹洪は言いつけられた工事をすでにあらかた終わらせ、曹操を迎えた。


 一方、完全に孤立してしまったことは鄴城内の審配にも察知されたはずだが、彼はなお周囲に動揺をみせなかった。

 曹操は審配の将としての能力の高さに舌を巻いたが、敵を称賛するだけの余裕が生じていた。

 彼はすでに秘策を思いついていたのだ。

 曹操軍はせっかく作った土山を崩して坑道を埋め戻し、新たに城の周りにぐるりと浅い堀を掘りはじめた。


「何じゃい、あの浅い堀は。あんなものを掘って、どうするというのだ。」


 城内から観察していた審配は、そう言ってあざ笑った。

 曹操の意図は不明だが、ここは強気の姿勢を味方に示しておかねばならない。

 青州(せいしゅう)方面に出撃中の袁尚には援軍を求める使者をすでに放っており、彼らが帰着するまで何とか城を持ちこたえねばならない。

 審配が余裕ある態度を見せ続けるのには、そういう意味があったのだ。


 だが、曹操には深い考えがあった。


「これより一斉に堀を掘り下げよ!そして、出た土をこちら側へどんどん積み上げるのだ!!」


 夕刻、辺りが暗くなった頃を見計らい、曹操軍の兵が一斉に堀の中に入り、さらに深く掘り始めた。

 掘った土は次々と味方側に積み上げられ、長大な土の壁が出来上がっていく。

 城側は暗闇のために何が起こっているのか断片的にしかわからず、作業は思ったよりも順調に進んだ。


「よし、もうよい。さっさと引き揚げよ。」


 ある程度の深さに達すると、曹操は引き揚げの合図を出した。

 堀から上がった兵たちには、引き続きかきあげた土を土塁のように固める作業を行わせた。

 その間、曹操は別の指令を発していた。

 それは鄴の東を流れる漳水の堤防に陣取った部隊にであった。


「崩せ!」


 その命令とともに、堤防のすき間から流れ出た漳水の水は一斉に西へと向かった。

 それは先ほどまで曹操軍がせっせと掘っていた堀に注ぎこみ、高くなった曹操軍の陣営ではなく城側へと泥流となって流れていく。

 かつて下邳(かひ)でも行った曹操得意の水攻めである。


「これは・・・城が完全に孤立してしまった・・・。」


 城兵たちから次々に悲鳴があがった。

 その声は城内に住む庶民たちにも波及し、一気に鄴城内は悲嘆の色で満ちた。


(これが狙いだったか・・・!)


 城将の審配も内心動揺していた。

 ただ、彼は自分が動揺している様子を見せれば城が保たないこともよくわかっている。

 努めて冷静に振舞い、兵たちの動揺を治めることに心を砕いた。


 やはり彼は名将であり、見事に混乱を収拾して再び堅固な防衛体制の構築に成功した。

 城内では食糧不足の影響で過半数が餓死したとまで言われる惨状となったが、なお鄴城は落ちなかった。

 だが、そろそろ限界が近いことは審配自身が一番強く認識していた。

 彼は主君袁尚の帰還に望みを託し、絶望的な状況を何とかしのいでいた。

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