第127話 袁譚、曹操に降伏す
「ついに来るべき時が来ましたな。」
荀彧はまっすぐ曹操を見据え、そう答えた。
彼の両手には袁譚から届けられた密書が握られている。
その内容は曹操にとって願ってもないものであった。
袁尚憎しのあまり、曹操との同盟を求めるものであったのだ。
形式上は同盟となっているが、異心のない印として袁譚の娘が同行しており、事実上人質を差し出しての降伏と変わりなかった。
袁譚と袁尚が仲違いをし、刃を交えたことはすでに耳にしていた。
当然ながら曹操にとっては介入して袁氏の勢力を削ぐチャンスであり、それを聞いて曹操軍は出陣の準備を進めつつあった。
そんななかで舞い込んだ同盟の誘いであった。
渡りに船とは、このような状況を指すのであろう。
何しろ、袁氏の内紛の現状は袁尚が圧倒的に有利である。
袁尚が一応は旧袁紹軍の大半を支配下におさめているのに対し、袁譚は一部の臣下と青州を何とか保つのが精いっぱいであり、それすらもいつまで維持できるか危ういものだ。
曹操や荀彧ら曹操陣営の首脳陣には介入する意思はあったものの、隣接する袁尚軍の戦力は侮りがたいものがあり、それらが鄴周辺にいるうちは戦端を開くのは難しいと判断していた。
ところが、袁尚軍は袁譚を追って北へ進軍していった。
これを好機をと判断し、戦備を進めていたところ、今度は袁譚から同盟して南北から袁尚を挟撃しようとの誘いである。
曹操軍単独でも袁尚軍と戦うつもりでいたところ、思わぬ援軍を得た。
荀彧が絶好の好機と言ったのも無理はないのであった。
「味方になるというのはありがたいが・・・袁顕思という男、そなたはどう見る?」
曹操としては、手を組む相手である袁譚という男について気になるようだ。
賢いか愚かなのか、判断材料に乏しくてどうとらえていいのかわかりにくい。
「実に平凡な男かと。士を愛し、名の知れた者を招いて厚遇しているとの噂を聞いたことはありますが、青州で目立った治績をあげたとの話を聞いたことがございません。父の袁本初と同じく、名士をうわべだけ尊重する者なのでございましょう。何より、父の墓の土も乾かぬうちに弟を攻めるなど、とても賢い男とは言えますまい。」
荀彧とて袁譚と面識があるわけではないが、これまで集めた情報を総合すれば平凡な男としか思えない。
およそ乱世を群雄として生き抜くには不足のある若者、という評価である。
「そうなると、そのような男と盟約を結ぶのは不安ではないか?あっさり弟の袁顕甫に敗れることになれば、我が軍は無傷の敵と戦うことになる・・・」
曹操の危惧は、もし袁譚が愚かな人物であれば袁尚軍にあっさり鎮圧されてしまうだろうということだ。
そうなると、曹操軍はほぼ無傷の袁尚軍と戦うことになり、同盟で得られるメリットは限りなく少ない。
「いえ、むしろそうならぬように我が軍が出兵すべきなのです。後方を衝かれたとなれば、袁顕甫も兄を攻めてばかりはいられますまい。この機を逃しては、いつ鄴を取れるかわかりませぬ。」
「そうか。では、あとひとつ聞きたい。これが袁兄弟による策ということは考えられぬか?我が軍が河水を渡ったとたん、袁兄弟の軍に攻められはしないか!?」
曹操が想定する最悪のケースは、兄弟仲が悪いと見せかけて曹操軍を誘い出し、曹操が黄河を渡って攻め込んだところで袁尚軍とともに強力な反撃をしてくることだ。
うかつに軍を出して大敗すれば、再び曹操領の支配が揺らぎかねない。
「袁顕思の側ではかりごとをめぐらしているのは郭公則らであるとか。官渡での様子を見るに、彼らにはとてもそのような策は施せぬでしょう。そもそも袁氏内部での争いは、袁本初存命時からささやかれておりました。こたびの内紛はそのあらわれと見るべきです。」
荀彧は曹操の危惧をはっきりと否定した。
官渡の戦いの時点でも、袁紹陣営では意見の対立が絶えなかった。
結局開戦慎重派の田豊や沮授は積極派の讒言もあって投獄され、最終的に悲惨な最期を遂げている。
開戦に積極的であった者たちも決して一枚岩であったわけではなく、袁紹陣営はいくつものグループに分かれ、袁紹という大物の存在で何とかひとつのまとまりを維持しているに過ぎなかった。
荀彧はそのことを洞察しており、今回の袁譚と袁尚の対立が本物であると確信していた。
「わかった。袁顕思の申し出を受け入れるとしよう。娘は我が子曹整の妻として迎えることにする。」
曹操陣営としてはある程度袁譚の顔を立てた回答を用意したと言える。
曹操と袁譚は新郎新婦の父として互いの子どもを通じて親戚関係になるのであり、袁譚の娘を事実上の人質とする実態には変わりないが、同盟者として尊重する姿勢を示したのだ。
この同盟と政略結婚が公表され、203年10月に準備を終えた曹操軍がいよいよ進軍を開始すると、効果はたちまちあらわれた。
袁譚が逃げこんだ平原城への攻撃に向かっていた袁尚は、前後から挟撃されることを恐れて急速に兵を退いた。
曹操軍を放っておいては、鄴を含む冀州を失いかねない。
袁譚の攻撃どころではなくなってしまったのだった。
袁尚軍の帰還はかろうじて間に合い、無事に審配が守る鄴へ入城することができた。
曹操軍は大軍が待ち受ける鄴に直接攻撃をしようとはせず、大規模な衝突は起きなかった。
ただ、曹操軍が何の戦果も挙げなかったわけではない。
むしろ大きな成果を手にしていた。
袁尚軍に呂曠と呂翔という2人の部将がいる。
彼らはともに兗州東平国の出身であるが、兗州を支配する曹操ではなく袁氏に仕える道を選んでいた。
袁尚の死後は袁尚を支持し、その指揮下で南皮や平原への遠征にも従軍してきた。
その彼らが曹操に寝返ったのである。
彼らは平原から撤退する袁尚に当初はつき従っていたが、兗州東郡の陽平県に達するとそこから動こうとしなくなった。
袁尚に対しては曹操軍の侵攻に備えるためと説明し、その裏ではひそかに曹操のもとへ使者を送っていたのだった。
「実に喜ばしいことだ!」
曹操はおおいに喜び、ただちに朝廷に上奏して2人を列侯にした。
列侯とは皇族以外の者が達することができる最上級の爵位であり、朝廷から正式に認められた領土を持つ存在である。
官渡の戦いでも降ってきた張郃をすぐに列侯とするよう取り計らっており、こういったときの曹操は気前がいい。
もちろんただ気前がいいわけではなく、降伏してきた者を厚遇している様子を見せつけることで、もっと多くの者がこちらへ寝返って来ることを期待しているのである。
はっきり言って、呂曠と呂翔の能力についてはあまり期待されていない。
彼らは所詮「傭兵隊長」のような存在であり、さらにはかつて天下を驚かすような武勲をあげたこともない。
そのような人物でも曹操は重く用いるのだと聞けば、我こそは有能な人材と自負する者たちがやって来るだろう。
「撒き餌」のようなものであった。
こうして呂曠と呂翔は曹操の配下となったのだが、さらにひと悶着が起きていた。
実は、袁譚もまた呂曠と呂翔の2人を味方につけようと考え、将軍の印綬を贈って引き抜きを仕掛けたのであった。
2人はこの誘いに乗らず、呂曠が贈られた印綬を曹操に提出して詳細を説明したためにこの件が発覚した。
2人がすでに曹操に従属していることを知ったうえで袁譚が誘いをかけたのかどうか、それはよくわからない。
もし知っていたならば意図的に同盟相手の勢力を切り崩そうとする行為であり、袁譚は盟友としてまったく信用できない人物ということになる。
ただ、もし知らなかったのならば、袁譚が詫びを入れてくれば事態の鎮静化は可能だ。
しかし、一向に袁譚から釈明の使者が来ない。
そうなると、袁譚は悪意を持って引き抜きを仕掛けるような悪辣な男か、あるいは人事の機微に疎い愚かな男のどちらかということになる。
どちらにしても盟友として信用に足る男ではなさそうだ。
「袁顕思とは、やたらと小知恵を働かせる男らしい。おおかた俺に弟を討たせ、その間に兵を集めて自軍の強化を図ろうとしているのだろう。そして、その後に戦いに疲れた我が軍をたたこうという腹積もりであろう。だが、袁顕甫を破れば、我が軍の力は一層盛んとなる。そうはさせん。」
袁譚との同盟は継続するものの、曹操はもはや彼のことをまったく信用しなくなった。
せいぜい袁尚を破るまでの短い、あくまで表面上の蜜月なのであった。
曹操は黄河以北の補給路を整備しつつ、戦機をうかがった。