第123話 劉備、荊州へ亡命す
「倉亭の戦い」で再び袁紹軍に勝った曹操だが、なお彼は慎重であった。
余勢をかって冀州へ攻め込むことまではせず、回復した支配地域の郡県の安定に力を注ぐことにした。
機動力を何より重視し、内政を後回しにしてでも敵主力の撃破にこだわった孫策ならば、この状況でも侵攻を続けたかもしれないが、曹操はより補給や内政への意識を高く持った人物である。
荀彧は袁紹をこのまま飲み込む勢いで攻めるよう主張していたが、曹操はやはり補給や後方の安定が気になったのだった。
中長期的に見れば、この判断は決して間違っていない。
今回の戦争で荒廃した兗州西部の復興を行えば、ここは河北を攻める際の重要な補給基地となる。
数年前から許の周辺で始めた屯田の成果もそろそろ出てくるので、数年後には曹操軍は潤沢な物資を背景にどっしりと袁紹軍に挑むことができるのである。
ただ、荀彧にしてみれば、この曹操の決定は歯がゆいものだった。
袁紹の支配は動揺し、その配下の軍も戦意を失っている。
一気に攻勢をかければ、その支配を完全に終焉に追い込むことも可能だと荀彧は考えていたのだ。
とは言え、最終決定を下すのは曹操である。
彼が一時休戦を決めた以上、荀彧は従わざるを得ない。
官渡や倉亭に参戦していなかった并州の高幹や幽州の袁煕らの軍勢は健在であり、袁紹がまだまだ侮れない実力を持っているのは確かだ。
荀彧としては、曹操の判断は間違っていないと納得するしかなかった。
201年9月、曹操は各地の郡県の手当を終え、許へ帰還した。
しかし、献帝への報告や朝廷の主宰者としての政務などを短期間でこなした後、曹操の姿は許から消えた。
許のある潁川郡から見て南東に位置する汝南郡で反曹操勢力の勢いが一向に衰えず、自ら出馬することにしたからである。
汝南郡を混乱に陥れている張本人は、曹操にとってもはや因縁の相手となった劉備であった。
ここに至るまでの劉備の変遷は目まぐるしいものがある。
袁術軍の北上を防ぐために派遣された彼はどさくさに紛れて徐州で自立を果たしたが、曹操の電撃的な徐州攻めの結果、敗れて袁紹のもとへ亡命していた。
その後、延津の戦いに参加するなどしていたが、より自分の裁量で動ける環境を求め、袁紹に進言して豫州汝南郡での反曹操のゲリラ戦を展開するようになった。
優れた部隊指揮官である劉備は、袁家に心を寄せる豪族や黄巾軍の残党など雑多な勢力を反曹操でまとめ上げ、袁紹だけでなく荊州の劉表とも連絡を取り合って豫州を荒らしまわった。
官渡の戦いや倉亭の戦いで曹操軍主力の眼が北へ向けられているすきに許の都周辺にも出没するなど、その行動は曹操の悩みの種となっていた。
このため、曹操はわざわざ最も信頼する副将である曹仁を起用して豫州の動乱を抑え込みにかからねばならない状況に追い込まれ、劉備による後方かく乱は大成功と言える成果を挙げていたのである。
もし袁紹が曹操に勝っていたら、戦後無視できない存在として劉備は大きくクローズアップされることになっただろう。
だが、勝利の女神は袁紹には微笑まず、袁紹に味方する劉備の功績も報われることはなかった。
それでも劉備はその後もしぶとく立ち回り、曹操が新たに派遣した蔡陽率いる軍を破るなど、曹操の喉にささった小骨のような存在であり続けた。
袁紹と違って決して曹操勢力を倒すだけの力は持たないが、かと言って無視するのは難しいという厄介な存在が曹操にとっての劉備であった。
袁紹との戦いが一段落したと判断した曹操にとって、次に対処すべき敵は劉備なのであった。
さて、曹操が本腰入れて乗り出してきたことで、豫州の様相は一変した。
いくら劉備が優れた指揮官でも、彼が率いているのは所詮は寄せ集めの烏合の衆である。
「曹操の大軍が来る!」という噂が広まっただけで劉備軍には動揺が走り、次いで大脱走につながった。
あっという間に劉備軍は雲散霧消し、気づけば劉備の周りに残るのは以前から劉備に従い続けていた関羽や張飛、簡雍、麋竺・麋芳兄弟などごく少数の者たちに過ぎなかった。
もはや軍と言えるような規模ではなく、この状態ではとても曹操軍と戦うどころではない。
「兄者。曹軍が来るって聞いただけで、どいつもこいつも逃げたり降伏したりしやがる。もうどうにもならんぜ。」
「河北へ行くのももう無理でしょうな。ここは間道をつたって荊州へ逃げるほかありますまい。」
いつもは豪胆な劉備の義弟、関羽や張飛もさすがに戦況を悲観的にとらえていた。
粘り強さに定評のある劉備も、この状況でのこれ以上の抗戦は不可能と判断せざるを得なかった。
「やむを得んな。南へ逃れ、荊州牧の劉景升どのを頼ろう。麋竺よ、お主は孫乾とともに先に荊州へ参り、劉景升どのに会って要望を伝えてくれ。我ら主従を受け入れてもらいたいとな。」
「承知仕りました。」
麋竺らは首尾よく荊州へたどり着き、劉表との面会に成功した。
彼らは劉備と劉表が同じ漢の皇族につながる間柄であることを強調し、同族のよしみでもって受け入れてくれるよう懇願した。
劉表が受け入れてくれなければ、劉備主従が行く当てはなくなってしまう。
劉表の憐憫の情にすがるのが得策と考えてのことだった。
劉表政権内部では、劉備の受け入れが曹操との間の火種となることを危惧する者も少なくなかったが、最終的に劉表は受け入れを決定した。
それは憐憫の情や同族のよしみなどという感情的な理由ではなく、劉備の利用価値が大きいと見たからだった。
何しろ、劉表は荊州支配を始めてから大きな戦いをあまり経験しておらず、劉表軍が精強な曹操軍と戦った場合に不利が予想された。
その点、長年中原で戦い続け、指揮官としての実力を知られている劉備が加入すれば、やがて起こり得る曹操との戦いにおいて心強い。
劉表は劉備を対曹操戦の強固な盾として使うつもりで受け入れることにしたのだった。
劉表はやって来た劉備を城外まで出迎え、おおいに歓待した。
その待遇は最上級の客をもてなすそれであり、劉表は劉備との友好関係をこれでもかとアピールした格好である。
劉表の厚遇はさらに続き、劉備には兵が与えられて南陽郡新野県に駐屯することになった。
もっとも、この厚遇は劉備の軍事的才能を利用してやろうとの劉表側の意図が透けて見える。
劉備が駐屯することになった新野県は曹操軍の拠点である宛県からはわずかに南へ60キロメートルほどしか離れておらず、言わば劉表勢力にとって最前線に位置する地である。
つまり、劉表は劉備をやれ同族だ、やれ左将軍だと持ち上げ、厚遇するように見せて実際は体よく最前線という一番の危険地帯に放り込んだわけだ。
これまでのいきさつから劉備がたやすく曹操に降伏するとは考えにくく、都合のいい盾として利用できると見たのであった。
当然、劉備もこの扱いについては気づいていた。
しかし、もはやどこへ行く当てもないのが劉備の実情だ。
いつの間にか慣れてしまった傭兵隊長という役割で劉表のもとで生きるしかないと腹をくくったのだった。
こうして、官渡に始まった中原の戦乱はいったん落ち着きを見せることになった。
曹操は司隸・兗州・豫州・徐州の支配を強化することに成功し、その政権は安定感を増した。
しかし、袁紹は倉亭の戦い後に湧きおこった反乱を鎮圧してしまい、曹操はこれを攻撃することをためらった。
また、豫州から劉備を追い払うことに成功したものの、劉備は荊州の劉表と合体してその脅威は引き続き残った。
この状況を打開するにはどうすればいいのか。
曹操政権内では決定打を見出すことが難しかったが、翌年にある大物が死去したことで再び中原の情勢は動きだすことになるのだった。