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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第117話 官渡の戦い(前編)

 孫策(そんさく)という強力なライバルが退場したのを合図にしたかのように、曹操(そうそう)が対袁紹(えんしょう)戦の拠点とした官渡城(かんとじょう)をめぐる戦いが本格化していた。

 旺盛な戦意を保つ曹操軍を3倍以上の兵力を誇る袁紹軍が攻めるという図式がこの戦いのテンションを高いものとしていたが、それだけではない。

 袁紹は配下の沮授(そじゅ)が提唱した曹操軍の兵糧が尽きることを狙っての長期戦こそ選ばなかったが、曹操軍を侮ることなく重厚な作戦を展開していたのである。


 当初、両軍は野戦を展開していた。

 優柔不断と評されることも多い袁紹はここでも慎重ぶりを発揮し、数ヶ月をかけてゆっくり準備を整えた後に黄河を渡り、陽武(ようぶ)という場所に本軍を進めた。

 ここはもう司隸(しれい)の一部であり、河南尹(かなんいん)の北東端に位置している。

 曹操が本営を置く官渡城からはわずかに40キロメートル北に離れているに過ぎない。


 さらにここからも袁紹は慎重であった。

 袁紹軍は東西10数キロメートルに渡る長大な陣を展開し、それらを平押しに押していく戦術をとった。

 曹操軍も軍を出撃させて迎撃する姿勢を見せていたが、彼らが目にしたのはまるで巨大な壁が自分たちに向かってじりじりと押してくるような光景であった。

 袁紹は白馬(はくば)延津(えんしん)の戦いで改めて曹操が見せつけた野戦の才を警戒し、自軍の数の多さという利点を最大限に活用したのである。


 こうして200年8月に始まった両軍の戦闘は、お世辞にも曹操軍有利とは言えないものであった。

 1キロメートル当たり数千以上の兵を展開している袁紹軍に対し、曹操は自軍を手足のように使いこなして敵の弱いと見た箇所に攻撃をしかけたが、いたずらに損害を増やすだけに終わった。

 2割から3割近い兵が死傷し、曹操が機動部隊として使える兵の数は1万を割り込むかというところまで減少する有様であった。


 たまりかねた曹操は城外の陣を払い、官渡城に退却した。

 曹操の優れた野戦能力をもってしても人数の優劣はいかんともしがたく、官渡の戦いの緒戦は曹操軍の敗北に終わった。


 官渡は袁紹との対決を見越し、曹操が急ピッチで要塞化を推し進めた城である。

 万を超える兵を収容することができ、守りも固い。

 ちょっとやそっとでは落ちない城であるが、不安がないわけではない。


 それは袁紹軍の攻城能力の高さだ。

 軍の練度や士気では劣る袁紹軍だが、その最大の強みは工作技術力の高さにあった。

 空前絶後の規模であった公孫瓚(こうそんさん)易京城(えききょうじょう)を攻め崩し、これを滅ぼすのに貢献したのは高い技術力に支えられた工作部隊であったのだ。

 そしてその袁紹軍の技術力は官渡攻防戦においても遺憾なく発揮された。


 城外に陣取った袁紹軍は、まず無数の土塁を築きはじめた。

 いや、その高さは通常の土塁のそれを越え、土山のような高さを持っていた。


 城の利点のひとつに高い城壁による高低差がある。

 敵より高い場所にいる守備側は相手の動きをつかみやすく、高所から撃ちおろすことで投射兵器の威力も増大する。

 ところが、袁紹軍は巨大な土山を築き、さらにその上に櫓を組むことで防衛側の高さというメリットを消してしまった。

 櫓の上からは雨のように矢が降り注ぐようになり、正確な弾着ができることからその射撃精度も高く、攻撃を受ける曹操軍は閉口した。

 土山を崩すために出撃しようとしても、相手の方が数が多いためにうまくいかないのは目に見えている。


発石車(はっせきしゃ)だ、発石車を用いよ!」


 ただ、曹操軍も無策であったわけではない。

 袁紹軍の作戦を見抜き、対抗策を考え出していた。

 それが発石車であった。


 発石車とは、巨大な投石器のことである。

 原理は意外と簡単で遊具のシーソーのような機械をつくり、片側には受け皿、もう片方には綱をくくりつける。

 受け皿に大きな石を載せ、反対側の綱を思いっきり引っ張れば、てこの原理で石は遠くに飛んでいく。

 原理さえ知っていれば誰でも作れて扱えるものだけに、もう何百年も前から攻城兵器として利用されてきたものだ。


 袁紹が築いた櫓は土の山の上に急造したものだから、衝撃にはもろい。

 しかも移動することのない、動かない的である。

 官渡城内の曹操軍から次々に発石車を使って石が撃ち出され、面白いように袁紹軍の櫓に命中していく。

 袁紹軍も櫓から矢を撃って応戦しようとするが、射程距離がまるで違っているので話にならない。

 猛烈な石の襲撃により袁紹軍の櫓は1つまた1つと破壊され、再建もままならなかった。

 建て直しても石を撃ち込まれるのがわかっているから、誰も作業に関わりたがらなくなったのだ。


 袁紹軍はせっかく築いた土山の活用を諦め、次の作戦に移った。

 いや、むしろそちらの方が本命の策と言っていいのかもしれない。


 そもそも巨大な土山を形成する土はどこから来たのか。

 答えは袁紹軍が掘り進めるトンネルからである。

 かつて巨大な易京城すら陥落させた、坑道を掘って城郭を崩す作戦を当初から実施することに決め、袁紹軍は幾本も城壁へ向かってトンネルを掘り進めていた。


 どんなに高い城壁も、どんなに堅固な城楼も、基部を地面が支えているからそびえ立っているのである。

 もし下の地面がぽっかりとなくなってしまったら、当然ながらその途方もない重量を支えることなどできやしない。

 後は無残に崩壊するだけである。


 袁紹軍は優れた技術者の指導の下、しっかりとした材木によって支えられたトンネルを掘り、城壁の真下に達したら油を撒いたうえで坑道内から全員退避し、火を放って一気に城壁を崩してしまう。

 情報収集能力に優れた曹操軍では、袁紹軍のその戦法についても当然知っていた。

 公孫瓚の滅亡のいきさつが、曹操軍に対処法を与えたのである。


 曹操軍では官渡城の外堀を可能な限り深く掘りぬくことで対抗した。

 巨大な堀のすべてを深く掘り下げる必要などない。

 城壁に隣接する箇所の堀だけを深く掘ればいいのだ。

 曹操軍は袁紹軍が接近する前にその箇所を深く掘り、袁紹軍のトンネルが城壁の内側に達するのを防いだ。

 トンネルを掘り進んでいた袁紹軍の工兵は、突然ぽっかり開いた穴から官渡城の城壁の下にその姿をさらすことになり、見つかり次第曹操軍によって排除された。

 こうなると、袁紹軍はせっかく掘ったトンネルを放棄せざるを得なくなった。

 坑道を掘り直すためには莫大な時間がかかることになり、一気に進むかに見えた官渡城の攻略は振り出しに戻ってしまった。

 袁紹軍は力攻めに切り替えて連日官渡城を攻めようとしたが、いたずらに被害を増やすだけであり、やがて包囲戦を取らざるを得なくなってしまった。


 こうして戦線は膠着し、曹操軍の善戦ぶりが際立つ展開となったが、曹操は焦りの中にいた。

 その原因は奇しくも袁紹軍の沮授が見抜いた通りであった。


 糧食が足りない。


 曹操は朝廷を主宰して広大な地域を支配しているとは言え、その支配力は袁紹の支配地域よりも脆弱である。

 そもそも洛陽や長安を中心とする司隸地域は董卓以後の戦乱により荒廃しており、ようやく鍾繇のもとで復興が始まったばかりだ。

 再征服したばかりの徐州は言うに及ばず、袁紹軍にかなりの部分を実効支配されている兗州や袁紹の本貫がある豫州も安定的に支配できていない。

 許の都周辺で屯田を始めているが、まだ4年程度では十分な成果が出ていない。


 結果として、曹操は少数の兵を率いる側であるにもかかわらず食糧不足に悩まされ始めているのである。

「腹が減っては戦はできぬ」は古今東西共通する真理だ。

 このままでは曹操軍は自壊してしまう。


(どうすればいい?いったん許に退くか!?それではせっかく守ってきた官渡城を明け渡すことになる。・・・そうだ、文若の意見を聞こう。)


 曹操は自軍の窮状を余すことなく書状に書き記し、許にいる荀彧のもとへ送った。

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