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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第113話 荀彧、対袁紹戦略を提言す

 劉備(りゅうび)が離反した199年9月、曹操(そうそう)は軍を率いて黎陽(れいよう)という地にあった。

 ここは魏郡(ぎぐん)の最南部の県であり、州で言えば冀州(きしゅう)にあたる。

 曹操は先制パンチを食らわせる格好で、袁紹(えんしょう)の本拠である冀州へ殴り込みをかけていたのだ。

 そのために黄河を渡るという思い切った作戦であり、これによって黎陽津(れいようしん)を自軍の手に押さえるという狙いがあった。


 曹操軍の作戦は黄河を自軍の防衛ラインとして活用し、袁紹軍に黄河を渡らせないことを目指していた。


「津」は船着き場や渡し場を意味する言葉であるが、黄河に設けられた官設の「津」は港というべき巨大な施設である。

 何しろ海のように川幅の広い黄河は、徒歩で渡ることなど不可能だ。

 当然船をつかって渡ることになるのだが、ふつう軍勢の移動ともなると整備された大規模な港湾施設がある場所を使うことになる。

 袁紹の本拠である(ぎょう)から最も近い港がこの黎陽津であり、ここを押さえることで曹操軍は袁紹軍が黄河を渡ること自体を阻止するつもりだった。


 また、黎陽津よりも上流に位置する延津(えんしん)も同様に占拠し、鄴の北西に位置する并州(へいしゅう)方面からやって来るであろう袁紹の甥・高幹(こうかん)の軍を食い止める作戦も発動していた。

 これらの作戦基地として黄河東岸の兗州(えんしゅう)東郡(とうぐん)白馬県(はくばけん)を選び、守備兵力と補給部隊を置いた。


 ただ、袁紹の支配地域は青州(せいしゅう)幽州(ゆうしゅう)にも広がっている。

 例えばこれらの地域から直接兗州や徐州北東部へ攻め寄せて来ることも考えられた。

 この点についても、曹操軍に抜かりはなかった。

 兗州済陰郡(せいいんぐん)鄄城(けんじょう)程昱(ていいく)を置いて北から侵攻してくるであろう袁紹軍に備えさせた。

 さらに徐州北東部に半独立的な勢力を持つ臧覇(ぞうは)へ指令を出し、袁紹領の青州へ侵攻させることにしていた。


 この大がかりな戦略を立案したのは荀彧(じゅんいく)であった。


「我らと袁本初の領土は広く東西で接しています。ただ、互いの本拠は西に偏っており、黄河をはさんで対峙するかたちとなっております。黄河の帰趨がこれからの戦の勝敗に大きく関わってくることは明らかです。袁軍は公孫伯珪(こうそんはくけい)との激闘を終えたばかり。彼らが疲れ切っている今のうちに黄河を我が方が押さえるべきです。」


 荀彧が提唱したこの戦略は積極策と言えるだろう。

 曹操が機動部隊として使える兵力がせいぜい3万程度であるのに対し、後方や側面に敵のいない袁紹は10万は動員できる。

 にもかかわらず、国境付近に軍を展開して迎え撃とうと言うのだ。

 公孫瓚(こうそんさん)との激戦を終えて疲れの癒えていない今なら、袁紹軍は積極的な軍事行動に移れないと荀彧は判断していた。


「しかし・・・敵が并州から西へ進み、関中へ攻めて来たらどうする?涼州(りょうしゅう)には韓遂(かんすい)馬騰(ばとう)などいつ向こうにつくかわからん者たちが十数人は割拠している。彼らが袁軍に呼応すれば、たちまち三輔(さんぽ)は失われてしまうだろう。そうなれば、南の巴蜀(はしょく)も袁本初に味方し、荊州(けいしゅう)劉景升(りゅうけいしょう)らはすでに袁本初の味方なのだから天下のうち6分の5は我らの敵となってしまうではないか!」


 荀彧の戦略を聞いた曹操は、西方の守りを不安要素に挙げた。

 主力を(きょ)から黄河にかけての地域に集中しているため、西の長安を中心とする三輔地域の防衛戦力はひどく手薄なのだ。

 もし袁紹軍がそっちから攻めて来れば、あっという間に三輔地域は敵の手に落ち、連鎖的に周辺勢力も袁紹の味方となって、曹操は孤立してしまうと恐れたのだ。


「ご心配には及びません。たとえ并州から敵がやって来ようとしても、その数は少数にとどまります。并州から大軍の移動は難しいのです。長安には鍾元常(しょうげんじょう)どのがにらみをきかせており、少数の敵兵に揺らぐことはありますまい。」


 并州から長安を目指すとなると、山脈の間を縫うように連なる狭い谷間の地を北から回り込まなくてはならない。

 袁紹の支配下には匈奴(きょうど)烏丸(うがん)などの強力な北方騎馬民族もおり、機動力に優れた彼らの騎馬部隊を用いれば、三輔地域へ侵入することは可能であろう。

 しかし、歩兵の大部隊を進ませるとなると難しい。

 日数がかかり過ぎるうえに補給の問題もある。

 この方面から袁紹軍が攻めてきたとしても、少数の騎兵によるかく乱程度の攻撃にしかならないと荀彧は見切っていた。

 その程度であれば長安を守る鍾繇(しょうよう)だけで十分に対処が可能なのだ。


 加えて、荀彧は南方の慰撫にも手を打とうと考えていた。

 東南の揚州には敗れたとは言え袁術の勢力があり、何よりも急速に力を伸ばしてきた孫策がいた。

 南の荊州には張繍とそれを支援する劉表がいた。

 揚州には刺史がいなかったので厳象という人物を揚州刺史に任命して送り込み、孫策の頭をおさえつつこれと縁戚関係を結んで取り込もうとした。

 張繍と劉表にも使者を送り、これを取り込もうとはかった。


 こうして立案された曹操軍の戦略だが、重大な齟齬となったのが他ならぬ劉備の離反であった。

 彼が裏切れば後ろから攻められる恐れが出てきた臧覇らが北上することなど到底不可能となり、袁紹は青州や幽州から多くの兵を引き抜いて冀州や兗州方面へ振り向けることができる。

 また、曹操は徐州方面への対応が必要となり、黄河の線に戦力を集中させることができない。


「劉玄徳はなぜ背いた!?左将軍(さしょうぐん)にまでして厚遇していたのに!」


 裏切る理由がわからないと曹操は憤ったが、そんなことを言ってももうどうにもならない。

 幸いなことに劉備が許から率いて行った兵はそれほど多くない。

 早めに手当てをすれば短期間で再占領できる可能性は十分にあった。


 黎陽の陣を配下の于禁に任せ、いったん許へ戻った曹操は王忠(おうちゅう)劉岱(りゅうたい)という2人の将を選び、徐州の再征服を委ねた。

 彼らは豫州から東進して徐州へ入るつもりだったが、豫州の沛国までしか行けなかった。

 予想外に敵の勢力が拡大していたこともあるが、自ら兵を率いて沛国に陣取った劉備によって敗北したからだった。

 王忠らは壊滅的な被害を受けたわけではなかったが、数万をたちまち集めたと豪語する劉備軍に心くじけ、間もなく撤退してきた。


 戦況は曹操にとって大ピンチとなった。

 自軍の有力部将が寝返ったばかりか、その討伐に向かった軍も敗れてしまったのだ。

 何かすぐに有効な手段を取れなければ、曹操はさらなる劣勢に陥ることは確実であった。


 ただ、曹操にとって悪いことばかりでもなかった。

 荊州南陽郡(なんようぐん)に勢力を張る張繍が帰順を申し出てきたのだ。

 これには張繍の参謀である賈詡(かく)の存在が大きかった。


 実は曹操側が張繍へ帰順を求める使者を送ったのと同じ頃、袁紹もまた張繍に同盟を求める使者を送っていた。

 袁紹陣営にしてみても、張繍が自分たちの味方となれば曹操を挟撃することができる。

 張繍に目をつけるのは当然と言える。


 ほぼ同時に両陣営からの使者を迎えた張繍は、当初袁紹に味方する方へ心が傾いていた。

 周囲にいくつも敵を抱える曹操に対し、ライバルを倒した袁紹に目立った不安材料はなく、兵力も袁紹の方がはるかに多い。

 それだけを見れば、張繍がその考えに傾くのは仕方がないことではある。


 しかし、賈詡の考えは違った。

 彼は袁紹の使者を見据えると、放言した。


「帰って袁本初に伝えてもらいたい。あなたは兄弟すら受け入れることができなかったのに、天下の士を受け入れることができると思っているのか?」


 兄弟とは袁術のことであり、賈詡は袁紹が袁術を冷たくあしらい続け、ついには憤死に追い込んだことをあてこすったのだ。

 あまりに無礼な物言いに袁紹の使者は怒り出し、席を蹴って出て行ってしまった。

 もちろん、交渉は決裂である。


「何ということをしてくれたんだ!」


 張繍は賈詡を責めたが、あとの祭りである。

 ただ、張繍は賈詡のことを全面的に信頼しており、何か考えがあっての発言だと感じていた。

 そこでその考えを聞くことにした。


「こうなったからには、誰につけばいいのだ!?」


 すると、賈詡は落ち着き払って答える。


「曹孟徳どのに従う以外に道はございません。」


「曹孟徳ですと?袁本初どのが強く、曹孟徳の方が弱いのは誰もが知っている。それに我らは曹孟徳のかたきとなっている。彼に従うというのはどうなのだろう?」


「だからこそ、曹孟徳どのに従うのです!!そもそも曹孟徳どのは天子を奉じて天下に号令しています。正統性は彼にあり、これが従うべき第一の理由です。次に袁本初はすでに勢い盛んであり、我らがが少ない兵で従ったところで、きっと我らを重く用いてはくれますまい。逆に曹軍は弱く、我らを味方にできるとなれば必ず喜ぶことでしょう。最後に、志を持つ者は私怨にとらわれず、徳を天下に明らかにします。わたしの見るところ、曹孟徳どのは志高く度量のある人物です。我らの帰順を必ず認めることでしょう。」


 賈詡の言は理路整然としており、張繍はうなずいた。

 曹操への帰順を申し出、はたして曹操は大喜びして張繍らを厚遇した。


 弱点はあるものの、やはり曹操は優れた君主であった。

 自信を取り戻した彼は、次に天下をあっと驚かせる用兵の妙を見せつけることになるのだった。

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