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三国志天の記  作者: 沖家室
3章 天を繕う者・分かつ者【荀彧・魯粛列伝】
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第109話 劉備、都を脱出する

 寿春(じゅしゅん)の宮殿では、見た目の華やかさとは裏腹に閉塞感が漂っていた。

 徐州(じょしゅう)呂布(りょふ)が滅亡した結果、対外的にはほぼ敵ばかりとなっている。

 豪奢な宮廷生活と過剰なほどの軍備増強の結果、財政は火の車だった。


 ところが、そんななかでも「仲王朝(ちゅうおうちょう)」の初代皇帝・袁術(えんじゅつ)の振る舞いは改まらなかった。

 むしろ自暴自棄になって、より退廃した生活へとエスカレートしていくようだった。


 当然ながらそのような国家運営がいつまでも続くはずがない。

 ようやく袁術が国家の破綻を認識したときには、もはや立て直しは不可能となっていた。

 それは長期的な戦略構想とはついぞ無縁の袁術らしい結末であった。


 しかし、袁術という男は絶望という感情とも無縁のようであった。

 この地での割拠が無理になったのならば、よそへ移ればいい。

 王朝の存続が困難なのであれば、帝位を他の者に譲ってしまえばいい。

 一度本拠とした南陽(なんよう)を捨て、揚州(ようしゅう)で再起に成功したという過去の「成功体験」もあり、袁術はそのことに思い至るハードルがずいぶん低くなっていた。


 ある意味柔軟な発想のもとに袁術が考え出した結論は、長年ライバル視し続けた袁紹(えんしょう)との和解であった。

 和解と言っても、実質は降伏や恭順という言葉の方がふさわしい。

 帝位を譲り、袁紹の袁氏総帥の地位を正式に認めるかわりに保護と援助を求めたのであった。


袁本初(えんほんしょ)さまは河北に来るなら受け入れる、と仰せでございました。」


「そうか・・・悪くはないな。」


「勅使」が持ち帰った袁紹の回答は、袁術にとってみれば悪くないものであった。

 袁術自身がやって来れば受け入れ、その安全を保障するというのである。

 かわりに袁紹は袁氏総帥の地位を確実なものとし、袁術がいまだに保持している無視できない規模の軍勢や人材を手中に収めることができる。

 さすがに帝位については譲り受けるとは言っておらず、おそらくは朝廷に掛け合って自分の一族の不始末を詫びることで献帝との和解をねらっているものと思われた。


 袁術に否やはなかった。

 元々捨てるつもりになっていた帝位と揚州の支配地である。

 自分の命の惜しさに比べればどうということもない。

 今や袁紹は中華で最大の勢力を持つ大軍閥であり、その庇護下に入れるという心強さは捨てがたい。


 ただ、大きな問題がひとつあった。

 袁術と袁紹の支配地は隣接しておらず、どこを通ろうとしても宿敵の曹操とぶつかるのである。


(こうなるのであれば、呂奉先をもっと支援しておくべきであった。)


 いかにも長期的視点に欠ける袁術らしい話だが、袁紹領へ向かう最短ルート上にある徐州はつい先日まで呂布が支配していた地である。

 その呂布は曹操の脅威に耐えかねて袁術に同盟を申し出ていたのだから、彼を支援していれば造作もなく袁紹が待つ河北へ行くことができたのだ。

 いや、そもそも呂布との同盟が成立していれば、現在の袁術が直面する四面楚歌の状況など起きえなかったかもしれない。

 呂布を積極的に支援しなかったことを悔いた袁術であったが、後の祭りであった。


(死んだ者のことなど、今さらどうなるものでもない。曹操が朕の河北への行幸をさまたげるというなら、徐州を押し通るまでのことよ。)


 くよくよ悩んでも仕方がない。

 袁紹の回答を得た直後、袁術は出発準備を命令した。

 もう帰ってくるつもりがないだけに、持っていけるものはこぞって連れて行くつもりであり、文字通り袁術の宮廷全体が引っ越すような規模である。

 それを護衛する兵もまた膨大な数で、後に残された寿春などの旧袁術領はぽっかりと政治的空白地になるような有様となるのであった。


 一見破れかぶれのような袁術の北上だが、決して成算のない博打ではなかった。

 何と言っても徐州は曹操の支配地となって日が浅く、当然ながら徐州刺史に任じられた車冑(しゃちゅう)の威令も十分に行き渡っていなかった。

 有力者たちが各地に自前の勢力を温存しており、彼らの動向次第では袁術は無人の野を行くように通過できる可能性もあった。


 袁術の大軍が北上を開始したことは、徐州刺史の車冑によって許の朝廷へと急報された。

 徐州支配が脆弱であることは曹操やその臣下の方がよく知っている。

 援軍を送らねば持ちこたえることができないことは、明白であった。


「誰を派遣すべきか。」


 袁術の大軍に対抗するための一番の方策は曹操が自ら軍を率いて徐州へ向かうことだ。

 しかし、実際のところそれは難しい。

 許の南には張繍とそれを後押しする劉表が健在であり、その備えのためにまとまった兵力を必要とする。

 また、それよりも最近冷却の一途をたどっている袁紹との関係を考えれば、都を空っぽにするようなまねはできない。

 せいぜい配下の武将をつかわして援軍とするのが現実的な策であった。


 とすれば、誰を遣るか。


 いつもであれば夏侯惇(かこうとん)曹仁(そうじん)といった宿将を派遣するのが常道である。

 彼らは曹操の副将格であり、豊富な戦闘経験を持つ。

 ただ、彼らを派遣するということは大規模な援軍を組織するということであり、袁紹軍に比べて劣勢な曹操軍を大きく二分するということだ。

 それでは曹操自ら軍を率いていくのとあまり変わりがない状況となってしまう。


 悩んだ末に曹操が派遣することに決めたのは、朱霊(しゅれい)路招(ろしょう)という2人の武将である。

 彼らは自前の兵を持つ将であるが、その軍勢の規模は全部合わせてもせいぜい数千に過ぎない。

 これならば許周辺の曹操軍の戦力を大きく割く必要がなくなる。

 ただし、袁術軍に比べてはるかに弱体な戦力で徐州を守り抜かねばならないということになる。


 それについて曹操には考えがあった。

 以前に劣勢な兵力で袁術軍の北上を食い止めた将が、現在許に滞在している。

 その男を徐州戦線に投入すれば、少ない兵でも袁術の侵攻を食い止めることができると踏んだのである。


 曹操が白羽の矢を立てたその将こそ、劉備(りゅうび)であった。

 単純にその軍事的才能に期待しての抜擢であるが、劉備は曹操の臣下ではない。

 ただ、現在の朝廷を事実上動かしているのは曹操であり、献帝の勅命として曹操が思うように劉備を徐州へ派遣することが可能であった。

 曹操が決めた時点で決まりであったが、お気に入りの劉備を袁術との戦いに投入することに献帝はすぐ賛意を示した。


 また、劉備本人も進んでこの勅命を受け入れた。

 彼にしてみれば、都を離れる名目を探しているところであった。

 今回の徐州行きは願ってもないチャンスなのだった。


 朱霊と路招を事実上の副将として従えた劉備は、すぐさま徐州へと駒を進めた。

 都を離れたいというのが主な理由であったが、袁術軍の北上を阻止するという任務を放棄するつもりもなかった。


 彼は以前と同じく淮水の線で袁術軍を迎え撃つことを決めていた。

 なぜか袁術軍の進軍が緩慢になったことにも助けられ、劉備が率いる軍勢は淮水を防衛ラインとして戦線を構築することに成功した。

 こうなると兵の少ない防衛軍は大軍にたいして必ずしも不利とはならない。

 むしろ、長期戦になると物資の消費が莫大となる大軍の方が厳しくなる。

 それまでの本拠地を捨てて北上を始めた袁術軍だけに、それは通常以上に不利に働くのであった。


 結局、袁術軍は徐州を通過するどころか主要部へ侵入することすらかなわなかった。

 さしたる戦闘もなく袁術軍は撤退を開始し、劉備は侵攻をしのぎ切った。

 一方、作戦が失敗に終わった袁術軍では、軍の存続に関わる重大事件が起こっていた。

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