第107話 公孫瓚、滅ぶ
「これまでか・・・。」
易京城の最奥に建つ楼閣のなかで、公孫瓚はため息とともに諦念を吐き出した。
彼の眼前にはもくもくと土煙が生じ、一切の視界が失われていた。
最前までそこには土壁や楼閣が威容を誇っていたのだが、おそらくそれらは傾き、崩壊し、跡形も残っていないのだろう。
視界が晴れたとき、公孫瓚の眼に映るはずの絶望的な景色を想像し、公孫瓚のなかで生きる希望が尽きようとしているのだった。
易京城。
冀州と幽州の境あたりに建つこの城は、空前の規模の巨城であった。
十重の堀と城壁に囲まれ、要所要所を巨大な楼閣で固めたその守りは鉄壁と称され、百万の大軍が攻めてきてもびくともしないと思われていた。
公孫瓚はここに20年は持ちこたえられるだけの物資を運び込み、それぞれの楼閣には諸将を配して守りを固め、自らは最奥の巨大な楼閣に住んだ。
ここ数年、公孫瓚は袁紹の勢いに押され、一時は勢力を広げていた冀州・青州・并州から叩き出され、本拠である幽州の北中部も袁紹と結んだ劉虞の残党や異民族に奪われていた。
もはや公孫瓚に残されたのはこの易京城を中心とする幽州の一部だけであり、味方になってくれそうな外部勢力も息子の公孫続を派遣して取り込みに成功した黒山賊の張燕くらいしかなくなっていた。
その黒山賊も易京城を包囲する袁紹軍に戦いを挑んで敗北を喫したばかりであり、彼らの態勢の立て直しが終わらない限り援軍はないのも同然であった。
このような状況に追い込まれてしまったのは袁紹陣営の戦略が優れていたこともあるが、公孫瓚自身の失策も大きく影響していた。
ひとつ目は自分の武力を過信するあまり、武を全面に押し出しすぎたこと。
ふたつ目は妾の子という出自に対するコンプレックスから、家柄の良い名士たちを敵視し、迫害したこと。
最後のみっつ目にして最大の過ちは人格・家柄・能力を兼ね備えた劉虞と敵対し、ついには難癖をつけて処刑してしまったことである。
公孫瓚はむきだしの力こそすべてというわかりやすい論理で乱世に挑んだが、彼が軽視した名士はそれぞれの地方では有力者であり、結局それが公孫瓚の首を絞めることに繋がった。
名士たちを味方につけた袁紹には公孫瓚が敵に回した人々が集まり、これに打ち勝つことができなかったのだ。
ただ、それでも易京城は20年は持ちこたえ、袁紹軍を撃退し続けるはずだった。
その間に天下の情勢は移り変わっても、公孫瓚はしぶとく生き残るはずだった。
しかし、袁紹が投入した特殊部隊によってその目算は完全に外れた。
「土竜か、あやつらは。」
公孫瓚が最初にその存在を知ったとき、その口からは嘲りの言葉がついて出た。
兵が剣や矛を鋤などの穴掘り道具に持ち替え、ただひたすら土を掘っているなど聞いたこともない。
その珍妙な行動を公孫瓚軍は一様に馬鹿にしていた。
しかし、袁紹軍の工兵たちによって易京城自慢の防衛施設がどんどん崩されるにつれ、公孫瓚らの心中は恐怖が徐々に支配し始めた。
土中の見えない敵が、確実に自分たちの拠点を崩壊に導いているのだ。
公孫瓚は城外に出撃したり、外からの援軍を求めたりと手を打ってはみたが、かえって袁紹の大軍の前に大きな被害を出すだけに終わってしまった。
5年もの月日をかけて、袁紹軍は少しずつ、だが確実にその成果を拡大していき、そしてついに公孫瓚の籠る楼閣に手が届くところまで達しようとしていたのだ。
最後に残された城壁や楼閣が倒壊してしまった以上、もはや公孫瓚の主郭は裸城になったようなものである。
公孫瓚の耳には、敵である袁紹軍の発する喚声が今にも聞こえてきそうであった。
「生きて虜囚の辱しめは受けぬ。」
覚悟を決めた公孫瓚は、楼閣の奥へと消えた。
すでに生きる希望は捨てた。
彼に残された時間があるうちに、せめて恥ずかしくない最期を遂げるのだ。
199年4月、公孫瓚は自決して果てた。
自殺する前に妻子をすべて刺し殺し、彼らがみじめな後生を送らないようにしたうえでの自殺であった。
ここに易京城は陥落し、袁紹は最大のライバルを倒して河北を事実上統一したのであった。
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徐州の平定に成功した曹操は、支配体制を固めるためにたっぷり2ヶ月ほどをかけた。
ただ、曹操は大軍を見せつけて徐州の大部分を従えたものの、結局その支配は限定的なものとなったのだ。
例えば、呂布幕下でありながら呂布討滅の陰謀をめぐらせて功績があった陳珪・陳登父子を賞し、息子の陳登には広陵太守の地位が引き続き認められた。
南の袁術に対抗するためには彼ら下邳陳氏の協力が必要不可欠だからである。
陳父子は同族の揚州刺史であった陳瑀という人物が袁術やかつてその手先であった孫策によってその地位を逐われており、彼らに対して強い敵対心を持っていた。
曹操は陳父子の力と袁術・孫策への敵対心を利用しようと考えたのである。
また、徐州北東部の琅邪・東海の2郡と青州北海国にまたがる地域で半独立勢力を築いていた臧霸・孫観・呉敦・尹礼・昌豨といった面々も、その降伏を受け入れて彼らの支配権を承認した。
彼らに官職を与えるために、北海国から城陽郡、東海郡から利城・昌慮の2郡を分割して新設することまでした。
これまで以上に東西に長くなった曹操の勢力圏の北東端に位置することになった臧覇らを確実に味方に引き寄せるため、曹操は大盤振る舞いに及んだのだ。
199年当時の曹操の徐州の支配は従来の有力者たちを一掃するものではなかった。
むしろ彼らの既得権益をある程度認めて自勢力に取り込む形であった。
すべては、最近きな臭さを増してきた袁紹への対抗のために打たれた布石なのだった。
これらの処置を終えた199年2月、曹操は軍を返して兗州山陽郡の昌邑県へと入った。
これは新たな軍事行動の前準備であり、その対象は司隸河内郡であった。
ここは張楊が太守として治めた土地であり、献帝の洛陽帰還に尽力した功績が認められた結果、張楊は大司馬(三公のひとつ太尉の旧称。軍事部門の最高責任者。)の官職を授けられていた。
しかし、献帝が許に遷ると張楊の存在感は薄れる一方となり、事実上元の河内太守と変わらない権能しか持たなくなった。
そうなると当初は良好であった曹操との関係も次第に悪化し、張楊と同じ并州出身の呂布が曹操と敵対すると、ついに張楊は曹操と断交したのだった。
だが、張楊の勢威は結局実質河内郡にしか及ばず、配下にはその無謀を危ぶむ者も少なくなかった。
そのなかのひとりである揚醜という男がクーデターを起こし、張楊を殺して河内郡の実権を握った。
ところが、張楊はその清廉潔白な人柄から広く敬愛された人物であり、それを殺した揚醜は不人気だった。
それを見た眭固という男が再クーデターを起こし、揚醜を殺した。
ぐちゃぐちゃでややこしいが、結局河内郡は反曹操に落ち着いたのである。
張楊の仇を討った眭固は張楊の旧臣たちの支持を受け、河内郡の支配者となった。
曹操は張楊を討つために兗州から西進するつもりだったが、その相手は気がつくとこの世にいなくなっていた。
ただ、張楊がいなくなってもその勢力がなくなったわけではない。
曹操はそのまま準備を続け、ついに河内へ攻め込むことにした。
一方、河内郡の新たな支配者となった眭固は曹操軍が昌邑城にまで戻ってきたことを知り、対策を迫られていた。
通常でも河内郡だけの戦力でこれと対抗することが難しいのに、今は張楊がいなくなって不安定極まりない状況だ。
眭固は袁紹に接近することでその地位を保とうとし、張楊の本拠地であった野王県を出て自ら袁紹のもとを訪問しようとした。
その途中、眭固は射犬城の守りを固め、張楊のもとで大司馬長史(大司馬の筆頭補佐官)を務めた薛洪、同じく河内太守を務めた繆尚に守らせることにした。
そして自分自身は冀州へ向かった。
曹操はこれらの動きをすべて把握していたわけではなかったが、袁紹との関係が冷え込む一方の現状で、河内郡を放っておくことは得策ではない。
曹仁・史渙・于禁・徐晃ら諸将とともに自ら河内郡へ向かうことにしたのであった。
射犬城に旧張楊軍の本拠が移ったことは伝わっていたので、まずはそちらへ進もうとした。
西進する曹操と北上する眭固。
図らずも、両者はばったりと出くわすことになってしまう。
犬城という場所で、曹操が派遣した曹仁らの先鋒部隊は眭固の行く手をふさいだのであった。
「くそ、これじゃ冀州へは行けねぇ。仕方ない、射犬へ還ろう。」
立ちふさがった曹操軍に驚愕した眭固は、慌てて来た道を引き返しはじめた。
彼は少数の兵しか伴っておらず、とても勝ち目はない。
「賊の親玉がいたぞ!追え、追うのだ!!」
曹仁らの決断は早かった。
長年独立部隊を率いてきた経験から、こういうときに的確な判断を下すことができる。
臨機応変という言葉は「言うは易く行うは難し」の典型のような言葉であり、戦場では豊富な経験がその困難を可能にするのである。
結果として、曹仁の経験は曹操軍に大きな戦果をもたらした。
逃げる眭固を直ちに追跡した結果、無事にこれを討ち取ることに成功したのだ。
眭固の首はその軍の武装解除におおいに役立った。
曹仁らが射犬城に進むと、負けを悟った城兵は戦わずして降伏した。
本城が無血開城すれば、残余の平定もたやすい。
こうして曹操はたいして血も流さずに河内郡の平定に成功した。