第103話 袁術、呂布を籠絡す
「曹操め!!朕の邪魔ばかりをしおって。くそ、いまいましい!!」
寿春の「朝廷」では、このところ袁術の機嫌が悪くなる一方である。
「朝議」において「仲王朝」の重要な政策が討議されるのだが、陳国侵攻前の景気の良い戦略が議論されていたときと比べ、明らかに空気が一変していた。
苛立つ袁術が皇帝としての威厳を示すことも忘れ、ただただ悪態をつくだけの場となっているのである。
それでなくても「朝廷」の重要な構成員であった橋蕤ら高位の将軍たちの姿が消えて沈んだ空気になっているところに、最高権力者の罵声だけが響くのである。
居並ぶ群臣たちが一様に頭を垂れ、一言も発しない。
みな嵐が吹きすぎるのを待っているかのようだ。
自分のだみ声だけが響くことがまた不快の原因になり、袁術の怒りはますます募る。
陳国侵攻は即位後最初の大規模な軍事行動だった。
開戦のきっかけは陳国側が袁術の求めた兵糧提供を断ったことであったが、袁術とて漢の皇族を王にいただく陳国がすんなり要求を受け入れるとは思っていなかった。
あっさり提供に応じればそれでよし、応じなければ一気に踏みつぶせるだけの自信はあったのだ。
実際、陳国の乗っ取りまではうまくいった。
陳王が蓄えていた食料など膨大な量の物資の接収にも成功した。
しかし、張繍によって痛打されたはずの曹操があれほどすぐに反撃に転じてきたのは予想外だった。
曹操が動かせる兵力は2万、多くても3万を超えることはない。
10万と称する大軍に対して迷わず向かってくるとは袁術は思ってもみなかったのだ。
曹操軍来る、との報告を受けて袁術の脳裏に浮かんだのは「匡亭の戦い」であった。
曹操の本拠であった兗州をねらったあの戦いで袁術は大敗北を喫し、南の劉表の圧力もあってそれまで本拠としていた南陽郡を捨てて揚州へと逃げざるをえなかった。
どこまでも執拗に追ってくる曹操軍に対し、袁術ははじめて命の危険を感じた。
みじめな敗走は袁術の心の奥底に消えることのない傷跡をつけた。
幸い寿春を中心に勢力の回復に成功し、今はこのように天子を名乗るまでになったが、曹操によってなめさせられた辛酸は忘れられるものではない。
だから、曹操が自ら軍を率いてくるとわかった瞬間、袁術は浮足立った。
それを誰にも悟られたくなくて、将軍たちに後を任せるなどと体裁をつくろい、淮水を渡った。
曹操から、戦場から、敗北の恐怖から逃げた。
自分が「敵前逃亡」することで自軍の敗色が濃厚となることを潜在的に理解しつつも、数で勝る自軍が勝ってくれるかもしれないとどこか期待していた。
現実はそんなに甘くはなかったが。
寿春の「都」に戻ってしばらく後、袁術のもとへ続々と届いたのは凶報ばかりだった。
陳国や汝南郡を失ったばかりか、万を超える兵を失い、頼みとする将軍までもが何人も失われた。
「仲王朝」の、袁術勢力の退勢は明らかであり、そしてそれが陳国への袁術の野心や曹操との直接対決を避けて自ら指揮系統を混乱させた袁術の怠慢にあることも隠れなき事実なのであった。
情勢の悪化と将来への不安、さらには自分への嫌悪感といった諸々の感情がないまぜになり、袁術は我が身をさいなむ炎のような強烈な痛みに、不機嫌を覚え続けてしまうのだ。
この不快な状況から逃れるためには、どんな美酒も後宮の美女も袁術にとっては無意味であった。
軍事の失敗は軍事で取り返すしかない。
ただ、窮迫した財政と傷ついた軍の現状がそれをしばらくの間は許してくれそうにない。
それがまた袁術を不愉快な気持ちにさせるのだった。
こういうときに袁術のために策を立てる人物が側にいない。
阿諛追従(こびへつらうこと)を述べる人間ばかりで、「いずれ陛下の徳に天下はひれ伏しましょう」だとか「陛下が自ら軍を率いさえすれば、かなう敵などおりますまい」などという耳に快い言葉ばかり言ってくれるが、具体性のある策を提案する人物などはいないのである。
打開策を袁術は自分の頭で考えねばならない。
(朕の兵を用いることができないのであれば・・・誰か別の者を動かすしかあるまい。さて、誰にするか。)
彼がこの段階でようやく活用しようと考えたのが、外交である。
とは言え、自己中心的な袁術のこと、外交とは結局のところ他人を利用することでしかない。
甘言でもってたらしこみ、自分の味方にして言うことを聞かせるのである。
(孫伯符は論外だ。わざわざ絶縁状まで送りつけてきおって。ええい、今思い返すだけでもムカムカするわ。劉景升や劉玄徳は漢の皇族に連なる者たちゆえ、あれらもこちらへなびくまい。となると・・・呂奉先しかおらぬなぁ。)
袁術の周囲を取り巻く勢力として曹操のほかに劉表、孫策、劉備などがいるが、いずれも袁術に対してはっきりと敵視を向けてくる者たちばかりである。
これまでの行きがかりを考えれば、彼らが袁術と同盟を結ぶ可能性は皆無と言っていい。
そうなると、消去法で袁術の選択肢は呂布しかない。
呂布しかいないのか・・・と考えればやるせない気もするが、贅沢を言っていられる状況ではないのだ。
「徐州へ使いせよ。呂奉先の娘を東宮(皇太子の住まい)に迎えるとの条件で味方につけるのじゃ。」
皇太子の住まいに迎えるということは、すなわち呂布の娘を袁術の後継者である皇太子の妃にするということである。
実はこの条件での申し入れを一度行ったことがあった。
それは天子を称した直後のタイミングであり、袁術は韓胤という人物を使者に立てて呂布のもとへ送ったのである。
その結果は拒絶であった。
韓胤は拘束され、許へと送られた。
その後の消息は不明であるが、おそらく曹操の差し金で処刑されたのであろう。
自分ではなく曹操が擁する献帝に忠誠を示し、使者を拘束して許の朝廷送るという行為に激怒し、袁術は呂布を討とうとしたが、呂布が楊奉・韓暹の二将を袁術陣営から引き抜いてしまったために断念した。
こう見ると呂布の懐柔は不可能なように見えるが、袁術は十分に成算はあるとみていた。
実は前回の申し入れの際、呂布が当初見せた反応は決して悪いものではなかった。
ただ、彼のブレーンとなっていた名士の陳珪が偽帝袁術に与することの非を唱えたため、袁術の申し入れを断って韓胤を許へ送ることにしたのである。
こう見ると呂布は強い意志で袁術の申し入れを拒否したわけではなく、説き伏せることは決して不可能ではないと考えたのである。
果たして、袁術の思惑は当たった。
呂布は元々曹操や劉備とは敵対関係にあった人物だ。
特に劉備とはつい先年まで敵同士であり、現在表向きは平穏ながらも仲が良かろうはずがない。
両者の間にはトラブルが絶えず、劉備は戦力を増強してついには呂布の軍馬を奪う事件まで起こした。
こうなると呂布は曹操・劉備と友好関係を持ち続けることを疑問視し、手切れをすることも考え始めることになる。
袁術の再度の申し入れは丁度そのタイミングをねらった形となったのだ。
「娘を東宮に、な。それも良いかもしれぬ。」
呂布の態度は明らかに前回より乗り気であった。
今回も陳珪は反対の弁を述べたが、前回時に比べて彼が呂布に及ぼす影響力は格段に低下していた。
曹操は陳珪の秩禄を中二千石に加増し、子の陳登を広陵太守としていたが、それは呂布に徐州牧などの官職が与えられる前のことであった。
呂布はこれを不快に思い、曹操への不満を高めるとともに陳父子への信頼も低減していたのだ。
呂布は反対を押し切り、袁術との同盟に踏み切った。
曹操との手切れを決め、手始めに沛国に駐屯する劉備を攻撃した。
劉備は軍備を固めて豫州牧としての地位を確かなものにしようとしているところであったが、所詮は沛国すら全域支配がおぼつかない小勢力である。
呂布に襲われればひとたまりもない。
呂布配下の将の高順に敗れ、曹操へ救援を求めた。