第102話 曹操、袁術を撃破す
「陳王がみまかられただと・・・袁術め、相変わらず貪欲な男よ。」
曹操のもとへ届けられた凶報はその豫州支配を、ひいては曹操の勢力全体を揺るがしかねない危険性をはらんでいた。
袁術の将である張闓という男によって陳王の劉寵とその相(宰相)である駱俊が暗殺され、陳国が袁術の軍により占領されてしまったというのである。
陳国は豫州の北中部に位置し、都の許がある潁川郡の東隣にある王国である。
また、その北側は曹操の本拠である兗州に陸続している。
陳国の領内には袁術の大軍が充満しつつあるとの情報も入っており、言わば袁術によって曹操勢力の中枢部にくさびを打ち込まれたようなものだった。
事の発端は袁術による陳国への兵糧提供の申し入れであった。
軍備拡張を重ねた結果、当然ながら袁術軍では膨大な兵の口を満たす兵糧に事欠くようになっていた。
窮した袁術が目をつけたのが陳国であった。
陳王劉寵は風変わりな王様である。
幼少時から弓矢にのめり込み、その腕前は名人と称えられるほどであった。
彼の好みは道具にまで及び、弓や弩のコレクションが日増しに増えていった。
好きが高じた結果、陳国は数千から1万張の弩を備える軍事強国となり、おかげで黄巾の乱以降の戦乱の世において外敵の侵入をためらわせるに至った。
陳国は平和を謳歌し、有能な宰相である駱俊が民衆をいたわる政治を心がけたこともあって飢饉に苦しむ周辺地域を尻目に多大な食料を備蓄するなど豊かさを享受していた。
ただ、それは必ずしも良いことばかりではなく、豊かな陳国は袁術にとって宝の山のように見えてしまったのである。
袁術の兵糧提供の申し入れを駱俊は拒絶した。
皇族を王にいただく陳国にとって、皇帝を僭称した袁術の要求など呑めるはずがない。
それでなくても民治に力を尽くしてきた駱俊にとって、暴政で兵糧不足を招いた袁術の頼みなど聞き入れる気にはなれない話であった。
ただ、袁術という男はこれまで世界が自分を中心に回っていると思って生きてきた男である。
所詮は小国にすぎない陳が自分の要求をあっさりと拒絶したことに激怒した。
袁術は部将の張闓を陳へ派遣すると、宴会にかこつけて駱俊を招き、その場で暗殺してしまった。
張闓とその手勢は続いて王の劉寵をも殺し、陳国をあっけなく乗っ取ってしまったのだ。
その後続々と陳国やその南隣の汝南郡へ展開した袁術軍は公称10万、実数でも5万はいるかと言われるほどの大軍勢となった。
曹操にとって、根拠地の近くに巨大な軍事圧力が生じた瞬間であった。
「逆賊袁術を何としても討たねばなるまい。」
曹操の決断は早かった。
彼の勢力の源泉は献帝と朝廷である。
後漢王朝に逆らって皇帝を称する袁術に和を請うなどすれば、たちまちその権威と権力は失墜する。
それに今回は漢の皇族が殺されていることもあり、絶対に放ってはおけない。
曹操は配下の諸軍に戦闘準備をするよう下命し、同時に陳国や汝南郡に展開する袁術軍の情報を集め始めた。
「袁術はやはり戦というものを知らんな。」
数日後、集まってきた情報を整理した曹操はつぶやいた。
大軍を動員して曹操軍との対決に備えていると思いきや、袁術自身は地盤である汝南郡に身を置き、汝南から陳国にかけての広い地域に諸軍を展開させていた。
それだけではなく、陳国や汝南郡の東に位置する沛国にも触手をのばし、豫州牧として沛国に駐屯している劉備を追い払おうとしていた。
袁術は劉備が沛国北部の沛県周辺に軍を集中させているため、まず南部の蘄県を攻め取ろうとし、軍を進めた。
曹操に倍する大軍を持っているためか袁術軍は広く分散し、その諸軍は連携に支障をきたすほどへだたった距離にあった。
曹操にしてみれば、各個撃破してくださいと言われているようなものである。
「まずは陳へ向かう。」
真っ先に進路を陳国へととったのには2つの理由がある。
まずひとつは、今回の出兵が陳国を解放するためのものであるためだ。
究極的には袁術軍を撃破する必要があるのはもちろんだが、袁術の非道を鳴らすためにも曹操としては解放軍としての大義名分を明らかにする必要があると考えたのだ。
もうひとつの理由は、袁術軍の配置であった。
陳国には袁術配下の大将軍橋蕤とともに李豊・梁綱・楽就らがそれぞれ軍を展開させている。
彼らは袁術軍の有力な武将であるが、汝南郡に展開している袁術やその大将軍張勲らの軍に比べれば兵力が小さい。
各個撃破におあつらえ向きに軍を分散配置していることもあり、曹操としては陳国の袁術諸軍は手ごろな獲物に映ったのである。
曹操は曹仁に別働隊を任せて汝南方面を警戒させると、残りの全軍を引き連れて陳国へと素早く進軍を開始した。
橋蕤らは袁術に救援を求めつつ、各々が必死に曹操軍と戦ったが、その奮戦は決して報われることがなかった。
橋蕤らの使者が袁術の本営に到着したころには、すでに袁術は張勲に後事を任せて本拠地の寿春へ向けて発っていた。
敵前逃亡と言われても仕方がないタイミングであり、これを聞いた袁術軍の士気はとみに衰えた。
援軍が望めなくなった橋蕤らは独力で戦うしかなかったが、総司令官であるはずの袁術が去ったことで指揮系統は混乱し、到底連携しての戦いは望めなかった。
「偽帝袁術は逃げたぞ!逃げ遅れた賊どもを殲滅せよ!!」
敵軍の混乱を見逃す曹操ではない。
自ら全軍を指揮して陳国内の袁術軍の各拠点に迫り、これをひとつずつ潰していった。
橋蕤らの戦いぶりは見事なものだったが、所詮は孤軍での戦いであり、次から次へと各個撃破される展開にしかならなかった。
「鎧袖一触」とはこのようなことを言うのだろう。
わずかひと月ほどの間に陳国内の袁術軍は散々に打ち破られ、橋蕤ら4人の将はみな壮烈ながらもあっけない戦死を遂げてしまった。
「次は汝南ぞ。賊どもを淮南へと追い返せ。」
陳国を「解放」した曹操は、今度は馬首を南へと向けた。
南の汝南郡にはまだ袁術軍の張勲が居座っており、これを追い出さねば豫州の支配を回復することはできない。
張勲は陳国からの敗兵を受け入れ、兵数だけで言えば曹操軍と同数かあるいはそれ以上の規模になっている。
ただ、悲しいかなそれは寄せ集めの域を超えるものではなく、曹操は速戦即決が効果的と判断したのであった。
曹操の読み通りであった。
南下する曹操軍に対し、張勲軍は戦いを挑んでは来たものの重心は常に後ろにある感じだった。
どうやら張勲の意図はいかに多くの軍勢を淮南へ戻すかに主眼が置かれているようで、少しずつ南へ南へと下がっていく。
「ふむ。張勲は良将よな。だが・・・淮水を無事に渡らせるわけにはいかぬ。」
曹操は早くに張勲の意図を見すかし、曹仁の騎兵部隊らに側面を衝かせるなど激しく敵を揺さぶった。
次第に張勲軍は崩れが目立つようになり、淮水が近くなるにつれてそのほころびをつくろえなくなった。
袁術軍では淮水を渡るための船を準備させてはいたが、その数が十分ではなかったことも災いした。
張勲ら指揮官やその直属の将兵たちはともかく、船にありつけなかった兵は自分たちで船を調達する必要があり、そうやって逃げ遅れた兵は曹操軍によって命を落としたりやむなく降伏することを強いられた。
張勲は何とか寿春へ逃げ帰ったが、彼が率いていた兵の多くが淮北の地で骸をさらしたり曹操軍に吸収されることとなった。
序盤こそ武威を見せつけたものの、袁術の陳国侵攻は大失敗に終わった。
暗殺という非情な手段を用いてまでして奪った大量の食料は、その多くが最終的に袁術の手からこぼれ落ちた。
得られた実利は皆無と言っていいほどで、皇族や評判の良かった宰相を殺したことで袁術の悪名がさらに高まっただけだった。
そして何より深刻だったのは、民衆の生活を無視して拡張を続けてきた袁術軍の戦力が大きく損なわれたことだった。
曹操軍によって4人もの将軍を失い、多くの兵も失われた。
袁術軍に対外遠征を行う余力はまったく失われ、以後はただ汲々と自領の維持を図るだけの存在に落ちぶれたのだった。