第101話 袁術、苦悩する
「うわぁ・・・!」
うなされていた袁術は、自分の叫び声で目が覚めた。
季節はまだ春を迎えたばかりだというのに、ぐっしょりと寝汗をかいている。
袁術はいまいましげに舌打ちをし、身体を起こした。
(久々に嫌な夢を見た。)
嫌な夢、とは年少の頃に実際に彼が体験した出来事である。
父の袁逢に従兄の袁紹が褒められ、周囲の者からも称賛されているというもう30年近くは前の出来事だ。
袁逢は幼くして父を失った甥の袁紹をずいぶんと気にかけていて、実子の袁基や袁術に劣らない愛情を向けていた。
袁紹は幼少時から目立つ子どもで、長じては立派な容貌と幅広い交友関係によってますます評判が高くなった。
袁術は父や周囲の者たちが袁紹を褒めそやすことに激しい嫉妬心を持つようになり、目の敵にするようになった。
その妬心は潜在意識にも深くすり込まれているらしく、今でもこうして時折袁紹が称賛されている場面を夢に見てしまうのだった。
叫び声、と言うほどの大声ではなかったのかもしれない。
辺りはしーんと静まり返っており、声を聞きつけて駆けつけてくる者の気配はなかった。
隣室では不寝番の宦官が詰めているはずだが、彼らも主人のうめき声には気づかなかったとみえる。
「怠け者めが!」
袁術は不機嫌そのものの声で悪態をつき、手を伸ばしてそばに置かれた鈴を手に取った。
リンリンと甲高い耳障りな音が周囲に鳴り響く。
「誰かある!!誰でも良い、すぐに参れ!!」
夜のしじまを破って響き渡るだみ声が、周囲の静寂を一瞬でかき消した。
ようやく人の気配がし、間もなく1人の若い宦官が袁術の前で頭を垂れ、膝をついた。
「すぐに水を持って参れ。」
「はっ。」
宦官は立ち上がり、物音を立てぬように辞去していく。
皇帝の前では走ることはおろか、小走りや早歩きといった動作も許されない。
だが、喉がカラカラでたまらない袁術には、その動作がたまらなく緩慢にみえた。
「遅い、何をしておる。早く行け!!」
宦官の背中に当たり散らす。
物でも投げそうな剣幕である。
宦官は背中を串刺しにでもされたようにピンと背が伸び、とは言え走ることもできずギリギリ失礼に当たらない早さで室外へと消えていった。
その後、廊下の遠くまで気配が続いたのは、くだんの宦官が小走りで去ったからであろうか。
やがて琉璃(ガラス)製の瓶と杯が載せられた盆を捧げ持ち、宦官が戻ってきた。
袁術は杯をひったくるように取り上げると、一気に喉へと流し込んだ。
途端に冷たい水が袁術の口内や喉を潤していく。
「何じゃこれは!?」
希望通り喉を潤したはずなのに、袁術の癇癪はおさまらなかった。
いや、むしろかえって怒気が強くなったような気配すらある。
やおら手に持った杯を振り上げ、宦官の方へと投げつけた。
カシャンと小さな音が鳴り、繊細なつくりの杯は無残に床の上で砕け散る。
「馬鹿者!!朕が水を持ってこいと言えば、蜂蜜を混ぜ合わせた水を持ってくるのだ。この使えぬ奴め!!もうよい、下がれ。」
若い宦官は哀れなほど狼狽し、拝礼の挙措も怪しげになって去っていく。
入れ替わるように年かさの宦官が入ってきて、また別の盆を捧げた。
その顔を見て安心したのか、袁術は瓶の方を取り上げると、喉を鳴らして中身を飲み干した。
袁術の口の中に適度な冷たさとやさしい甘さが広がっていく。
これこそが彼の求める「水」であった。
一気に飲み干し、ふうっと息をつくと、袁術は老宦官へと目を向けた。
「あやつを殺せ。」
あやつ、とは先ほどの若い宦官のことであるのは明らかだ。
「陛下、なにとぞご慈悲を。あの者には重々言って聞かせますほどに。どうか寛大なご沙汰をお願い奉ります。」
老宦官は平伏すると、何度も床に頭を打ちつけ、哀願した。
このところ袁術の機嫌が長々と悪く、ちょっとしたことで処罰される宦官や女官が相次いでいる。
望んだ飲み物が来なかったというだけで処刑されてしまえば、宦官や女官が何人いても足りやしない。
老宦官としては何としても取り消してもらいたい命令であった。
「・・・わかった。ただ、無罪放免にはできぬ。そうだな・・・罰として杖刑を加えておけ。」
「ご慈悲、感謝いたします。」
ほっと肩をおろした老宦官は、最大限の感謝を全身であらわすようにしながら、袁術の元から去った。
彼は主人が気まぐれな性格であることをよく知っている。
軽い刑罰がきちんと執行されたかなんて、細かく確認されるはずがない。
さすがに死体という物的証拠が必要となる処刑となればごまかしようがないが、杖でたたく刑罰であればどのようにでも手心を加えることができる。
見かけだけ痛そうにたたき、執行したように見せればいい。
いや、執行したと言って何もしなくても問題ないかもしれないのだ。
いずれにせよ、手駒をむざむざ失わなくても良くなった老宦官の安堵は大きかった。
一方、袁術はと言えば、こちらも少し心の安定を取り戻していた。
この男は不機嫌になることも早ければ、それが治るのも早いことも多い。
どこまでも自分勝手で傲慢な男なのだ。
彼の最近の不機嫌の元は、どこを向いてもうまくいかない対外政策である。
元々化けの皮が剝がれて評判は悪くなる一方だったのだが、勝手に皇帝を名乗った後はそれがさらに悪化していた。
許の朝廷からは完全に逆賊扱いされ、「偽帝」袁術を討伐するよう天下に詔勅がバラまかれた。
それを受けて北の呂布との関係がますます冷えたものとなっている。
呂布は敵であったはずの曹操に近づき官職を得たばかりか、袁術配下におさまっていた楊奉と韓暹をも引き抜き、協力して袁術の領土を荒らしはじめている。
ただ、豫州でかろうじて命脈を保っている形の劉備にしてもそうだが、彼らが袁術への敵対心を燃やしているのは何も袁術が帝位を僭称したという理由だけではない。
呂布は長安を脱出した直後に袁術を頼ったものの殺されそうになり、近年も兵糧提供と引き換えに劉備の背後を討つよう袁術から持ちかけられ、いざ劉備を攻撃したところ袁術から約束を反故にされた経緯がある。
劉備にしても袁術が糸をひいた結果徐州牧の地位から没落したのであり、袁術に大きな恨みがある。
しかしながら、最も袁術にとって打撃となったのは孫策の離反である。
単に飼い犬に手をかまれた以上の衝撃が袁術にはあった。
彼にしてみれば、孫策を実の息子のように目をかけてきたとの想いがあったからだ。
それ以外にも細かくは数え切れないくらい離反者はいる。
孫策らほどはっきりと決別を告げた例は少ないが、例えば雷薄と陳蘭という有力な部隊を率いる部下は灊山という山に登って駐留したまま動かなくなった。
遠巻きに様子をみている感じで、積極的に袁術を支えようという意欲がほとんど感じられない。
そういう者たちを除いて確実に自分に対して忠実な人間を指折り数えていくと、実に寒々しい現実が袁術を襲ってくるのだった。
それでも・・・。
「陛下、か。」
中華広しと言えど、そのように呼ばれる存在は献帝を除けば袁術のみである。
いや、そのうち献帝を廃し、袁氏の「仲王朝」が天下を統べれば、ただ一人の存在となるのだ。
名門という人のうらやむ環境に生まれついた袁術にとって、唯一無二の志尊の地位というのは実に甘美な誘惑であった。
敵が多いというのなら、それらをすべてなぎ倒せる武力を持てばいい。
逆にとらえれば、自分に忠実な者だけを識別できるようになったということだ。
そう思うと、先日来の不快感も敵だらけの孤立感もどこか薄れていくようだった。
袁術は微笑みすら浮かべ、再び寝具に潜り込んだ。
軍備を増強し、それによって相手を圧倒し続ければやがては天下を支配できるという、言わば「覇道」が袁術の基本方針であった。
彼の眼にはそれによって貧苦にあえぐであろう民衆の存在は映っていないに等しかった。